平安時代の年表を簡単に解説!どんな時代?何が起きた?活躍した人は?
平安時代(794(延暦13)〜12世紀末)は、桓武天皇が平安京に都を移してから、鎌倉幕府が成立するまでの約390年間のことです。
古代の末期とも、中世の萌芽期とも言われており、古代から中世の過渡期になる大事な時代に当たります。
そんな平安時代には、具体的にはどのようなことがあったのでしょうか?
この記事では、平安時代の年表を見ながら、どんな時代であったのかを簡単に解説していきます。
目次
平安時代はどんな時代だった?
平安時代というと、雅で優雅な貴族たちを思い浮かべる人が多いのではないでしょうか?
実際、平安時代はどのような時代だったのでしょうか?
ここでは、平安時代の年表を見ながら、どんな時代だったのかを簡単に解説していきます。
平安時代の年表
- 794年(延暦13年)
桓武天皇が平安京に遷都する
- 797年(延暦16年)
坂上田村麻呂が征夷大将軍に任命される
- 810年(弘仁元年)
薬子の変が起きる
- 820年(弘仁11年)
藤原北家が台頭してくる
- 838年(承和5年)
最後の遣唐使が派遣される
- 866年(貞観8年)
応天門の変が勃発する
- 887年(仁和3年)
阿衡事件(阿衡の紛議)が起きる
- 894年(寛平6年)
菅原道真によって遣唐使が廃止される
- 901年(昌泰4年)
菅原道真が大宰府に左遷される
- 935年(承平5年)
平将門の乱が始まる
- 939年(天慶2年)
藤原純友の乱が始まる
- 1016年(長和5年)
藤原道長が摂政となる
→摂関政治が全盛期を迎える
- 1051年(永承6年)
前九年の役が開始する
→源頼義、源義家が平定に当たる
- 1083年(永保3年)
後三年の役が開始する
→源義家が平定に当たる
- 1086年(応徳3年)
白河上皇による院政が始まる
- 1156年(保元元年)
保元の乱が起こる
- 1159年(平治元年)
平治の乱が起こる
- 1167年(仁安2年)
平清盛が太政大臣になる
- 1180年(治承4年)
源平争乱が勃発する
- 1185年(文治元年)
壇ノ浦の戦いにて平氏が滅亡する
- 1192年(建久3年)
源頼朝が征夷大将軍に就任する
平安時代は国風文化が花開いた?
平安時代より以前、奈良時代では、遣隋使や遣唐使の影響で大陸の影響を強く受けた文化が形成されていました。
しかし、平安時代に入り、次第に日本独自の文化が重要視されていくようになり、その動きは894年に遣唐使が廃止されたことによって加速しました。
このときに形成された、日本の風土に合わせた独自の文化が「国風文化」です。
そして、この際に「仮名文字」が誕生します。
この仮名文字の誕生によって、文学作品も非常に多く生み出されました。
平安時代の作品の例としては、
- 今昔物語
- 竹取物語
- 古今和歌集
- 源氏物語
- 枕草子
- 土佐日記
以上のようなものが挙げられます。
平安時代では、朝廷と貴族が国の中心となっていたのですが、時代が下るにつれて次第に武士が台頭し始め、次第に武士が政治の中心となっていくのです。
このように、平安時代は古代の末期であり、また、中世の萌芽期でもあり、古代から中世へと移行していく重要な時代なのです。
平安時代に起きた主な出来事は?
平安時代は遣唐使が廃止されたことにより、日本独自の文化が花開いた時代でした。
それでは、具体的にはどのようなことが起きていたのでしょうか?
ここでは、平安時代に起きた主な出来事を簡単に解説していきます。
律令政治に戻すために遷都した?
奈良時代では、仏教勢力の政治介入が激しく、律令政治とはかけ離れた状態となってしまっていました。
そこで、桓武天皇は、平城京から平安京へと遷都することを決めます。
物理的に寺院などの仏教勢力と距離を置こうと考えたわけですね。
仏教勢力と政治を引き離すことによって、天皇の権力を強化する目的もあったようです。
しかし、ここで問題となったのは、資金面。
律令政治に戻すためには財政に不安があったので、これを領土を広げることによって解決しようとし、そこで起用されたのが坂上田村麻呂。
坂上田村麻呂は、征夷大将軍に任命され、東北地方の蝦夷に派遣されます。
そして、蝦夷を支配下にすることによって、国土を広げ、財源を確保することに成功したのでした。
遣唐使が廃止され、日本独自の文化が生まれた?
奈良時代までの日本では、遣隋使や遣唐使の影響で非常に大陸の影響を強く受けた文化が形成されていました。
しかし、徐々に日本独自の文化を見直していこうという動きが出てきます。
そして、894年には、菅原道真が唐の勢力が弱まったことを感じ、遣唐使の廃止を進言します。
その結果、遣唐使は廃止され、日本独自の文化を形成する動きが加速していきました。
ここで形成されたのが、国風文化です。
国風文化が生まれたことによって、寝殿造りや仮名文字など、日本独自の文化が発達していきました。
藤原氏による摂関政治が全盛を極めた?
奈良時代から権力を強めていた貴族でしたが、平安時代に入ると、より一層その力を増していきます。
その中でも特に強い権力を持ったのが藤原氏です。
藤原氏は、自身の子孫を天皇にすることによって、圧倒的な権力を手に入れていきます。(摂関政治)
藤原氏の摂関政治の全盛期を極めた藤原道長は、
「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」
という歌を詠んでいます。
これを現代語訳すると、
「この世は私のためにある世界だと思う。この満月のように欠けたところは何一つなく、すべて自分の意のままに満足すべきものである」
という意味になります。
つまり、この世は自分のためにあると公言しているわけです。
いかに平安時代の藤原氏の力が強かったのかを十分に表している歌ですね。
武士が台頭し始めた?
地方の豪族たちは、自身の召使いなどを使って、農地を開拓させ富を築いていました。
この豪族たちが開拓した農地を荘園と言います。
荘園が増加したことにより、朝廷は戸籍や土地を管理できなくなっていき、10世紀頃には税金を徴収することが困難になってきていました。
お金がないため、地方の治安は朝廷の力では安定させられなくなっていきます。
荘園を持った豪族は、自身の身や土地の治安を守るために、武装したものを雇ったり、農民を武装させたりして、武力を持つようになりました。
この荘園を守るための武力が、武士の始まりだと言われています。
そして、治安を守れる財力も武力もない貴族たちは、武力を持った豪族に依頼して治安を維持する形になっていきました。
朝廷から依頼や保護を受けた豪族はさらに力をつけていき、武士としての家来をまとめた武士団を結成し始めていきます。
院政によって藤原氏の権力が弱まった?
平安時代では藤原氏が摂関政治により強力な権力を持っていました。
しかし、藤原氏との関係が薄い後三条天皇が即位したことにより、その状況が変わっていきます。
藤原氏中心の政治体制の改革が進み、その後に即位した後白河天皇は自身が上皇になることにより、摂政に代わる制度「院政」を開始しました。
院政とは、天皇を譲位した上皇が、天皇に代わって政治を行う制度です。
この制度によって、藤原氏の権力は弱まっていき、上皇の権力が強くなっていきました。
平氏と源氏による戦いが起こった?
平安時代も後期になってきたところで、武士たちを巻き込んだ勢力争いが勃発し始めます。
特に大きな争いが、「保元の乱」と「平治の乱」です。
そして、この争いを治めた平氏が次第に力を持つようになっていきます。
特に平清盛は太政大臣に任命されており、強い政治力を持ちました。
途中までは順調に政治を動かしていた平清盛でしたが、次第に貴族や寺院、地方の武士たちから反感を買うようになります。
そして、不満を持った皇族と源氏が手を組み、打倒平氏を目指して戦を始めます。(源平争乱)
この争いは、最終的に壇ノ浦の戦いにて源氏側が勝利を収め、平氏は滅亡することになりました。
そして、この後に源頼朝が鎌倉幕府を開いたことで、鎌倉時代へと移っていくのでした。
平安時代に活躍した人は?
平安時代は、貴族たちが活躍した後、武士たちが台頭してきました。
それでは、具体的にはどのような人が活躍していたのでしょうか?
ここでは、平安時代に活躍した主な人物を簡単に解説していきます。
菅原道真
菅原道真(845年(承和12年)〜903年(延喜3年))は、菅原是善の三男として誕生。
幼少期より非常に学問に優れており、成長してからは朝廷にて重要な役職に就くことになります。
菅原道真があまりにも優秀過ぎたため、権力を独占したい勢力が菅原道真を政治から遠ざけるために、遣唐使の大使として唐に送ろうとしました。
しかし、菅原道真は唐の勢力が弱まっていることを理由に、遣唐使の廃止を進言するのです。
これにより、遣唐使は廃止され、菅原道真が唐に行くこともなくなりました。
その後、右大臣まで出世することになるのですが、やはり権力を独占したい勢力からしたら面白くありません。その勢力の陰謀により、菅原道真は大宰府(現在の福岡県にあった九州を治めていた役所)に左遷され、そのまま大宰府の地で亡くなってしまうのです。
後世にて、天満天神として信仰の対象となり、現在は学問の神様「天神さま」として親しまれています。
藤原道長
藤原道長(966年(康保3年)〜1028年(万寿4年))は、藤原兼家の五男として誕生。
五男なので、本来であれば家を継ぐようなことはない立ち位置だったのですが、兄たちが次々に亡くなってしまったため、台頭することになりました。
藤原道長は、自身の娘を天皇のきさきにして、その子を天皇にすることにより権力を握りました。(摂関政治)
摂関政治の全盛期を迎えた藤原道長は、「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」という歌を詠んでいます。
それほどまでに、当時の藤原道長の権力は強大なものでした。
ちなみに晩年は出家し、法成寺を建立したことでも知られています。
清少納言
清少納言(966年(康保3年)〜1025年(万寿2年))は、清原元輔の娘として生まれました。
父や祖父が有名な歌人だったので、和歌や漢学を学ぶ環境に恵まれており、幼少期から文学的才能を育んでいました。
そして、その才を買われて、中宮・定子の家庭教師として宮中仕えすることになります。定子は清少納言のことを気に入り寵遇しました。そんな定子に、清少納言も惚れ込みました。
その後、60歳近くまで生きたと言われていますが、死因ははっきりとわかっていません。
代表作品には、『枕草子』があります。宮中での生活などを書いた作品であり、平安文学を代表する作品となっています。
紫式部
紫式部(生没年不詳)は、藤原為時の娘として生まれます。
幼少期は、歌集や漢詩、歴史書などを読み込み、文学的才能を育むこととなりました。
そして、20代後半で藤原宣孝と結婚しますが、3年ほどで死別することになってしまいます。その悲しみを紛らわすように『源氏物語』を書き始めました。
その『源氏物語』が宮中で評判となったことにより、その文才に目をつけた藤原道長にスカウトされ、中宮・彰子の家庭教師になります。
生没年については、正確な記録が残っておらず判明していません。
代表作品には、『源氏物語』や『紫式部日記』などがあり、清少納言同様平安文学を代表する作品となっています。
平清盛
平清盛(1118年(永久6年)〜1181年(治承5年))は、平忠盛の嫡男として生まれます。
平家の武士として、保元の乱(1156)と平治の乱(1160)に参戦し、勝利を治めます。
その結果、武士として初めて太政大臣にまで上り詰め、政治権力の中枢を握りました。
これが武士政権の祖だと言われています。
祖父・平正盛が築いた権力基盤による武力と、娘・徳子を天皇に嫁がせ、天皇の外祖父となることにより得た朝廷の権威のおかげで、日本全土を収めるほどの権力を手に入れることに成功しました。
まとめ:平安時代は日本独自の文化が花開き、武士が台頭し始めた時代だった
平安時代は、遣唐使廃止などにより、日本独自の文化が重要視されるようになり、国風文化が開花することとなりました。後期になっていくと、次第に武士が台頭し始め、貴族中心の政治から、武士中心の政治へと移っていくことになりました。
今回の内容をまとめると、
- 平安時代は、奈良時代までの仏教勢力との決別のため、平安京へと遷都された
- 平安時代初期では、律令政治が目指された
- 平安時代に、遣唐使廃止などにより、日本独自の文化「国風文化」が開花した
- 平安時代は、藤原氏の摂関政治が全盛期を迎えた
- 平安時代後期には、武士が台頭し始めた
- 平安時代は、貴族中心の政治から、武士中心の政治へと移行していった
雅で優雅なイメージのある平安時代ですが、後期になってくると武士が台頭し始め、戦なども非常に多くなっていきます。これこそ、ちょうど時代が移り変わっていく節目の時期なのだなという感じがしますね。