土方歳三の死因は?遺体はどこへ?最後の言葉や死に様もあわせて解説!
幕末の激動の時代を駆け抜けた新撰組は、現代でも非常に人気があります。新撰組のメンバーの中でも、鬼の副長と呼ばれた土方歳三は、現代でも多くの人々に支持されています。
その人気は衰えることを知らず、2021年10月15日にはV6の岡田准一さん主演で土方歳三の生涯を描いた映画「燃えよ剣」の公開が予定されるほどです。
今回は、亡くなってから150年以上経っても人気が衰えない土方歳三の死因はなんだったのか?土方歳三の遺体はどこへ消えたのか?また最後の言葉や、最後の様子についても、解説していきます!
目次
土方歳三の死因は何?
土方歳三は1835年(天保6年)に生まれ、1869年(明治2年)に34歳の若さで亡くなりました。
新撰組の一員として活躍した土方歳三は、新撰組鬼の副長として、局長の近藤勇を失っても新政府軍と戦い続け、最後は箱館戦争にて、その生涯に幕をおろしました。
土方歳三は、なぜ戦死したのか?実は暗殺だったのではないか?という説があります。それぞれ詳しく見ていきましょう。
土方歳三の死因は銃弾うけたことによる失血死?
土方歳三は晩年、蝦夷地(北海道)に渡り新政府軍と戦い続けました、箱館戦争です。
しかし、新政府軍の武力を前にして土方歳三らは徐々に劣勢に追い込まれていきます。
土方歳三はそんな中でも、
「我この柵にありて、退く者を斬る」(「劣勢の中で逃げてくる味方たちは切り捨てる」)
と叫び、最後まで戦う姿勢を崩しませんでしたが、乱戦の最中に馬上で腹部に敵の銃弾を受けてしまいました。
銃弾を受けた場所が腹部だったため、土方歳三は、即死ではなく失血死だったと考えられています。
土方歳三は暗殺された?
土方歳三は、独立政府・蝦夷共和国を設立することを目指していた榎本武揚(1836年(天保7年)~1908年(明治41年)らと合流し、新政府軍と衝突します。
そして土方歳三の死によって、旧幕府軍は降伏し、戊辰戦争は集結しています。
土方歳三の死因は、銃弾を受けての失血死ですが、土方歳三は味方に暗殺されたという説もあるのです。
同じ旧幕府軍として戦っていた榎本武揚は、新政府軍と戦っていたものの、「新政府軍と共存したい」とも考えていました。
一方で、土方歳三は「榎本が降伏するのでは」と疑いを持っていたと考えられています。
双方の間には確執があった可能性があり、土方歳三は榎本武揚の関係者らによって暗殺されたのではないか?という説も浮上したのです。
- 旧幕府軍側の幹部で死亡したのは土方歳三だけ
- 土方歳三が亡くなって、すぐに旧幕府軍が降伏したこと
が、暗殺説を裏付ける理由として考えられています。
土方歳三の遺体はどこへ消えた?
箱館(函館)の地で敵の銃弾に倒れた土方歳三。
土方歳三の最後の地となった箱館には「土方歳三最期の地碑」が建てられていますが、土方歳三の遺体が埋葬されているわけではありません。
では、土方歳三の遺体はどこにいったのでしょうか?
土方歳三は、
- 死後にすぐに遺体を隠された?埋葬された?
- 実は戦死しておらず、密かに生き延びた
という説があります。
それぞれ詳しく見ていきましょう。
土方歳三の遺体は隠された?
土方歳三のお墓は、歳三の故郷である東京日野市の石田寺にあります。しかし、このお墓にも、最後の地となった箱館(函館)にも遺体はありません。
土方歳三の遺体の行方は、
- ・五稜郭内(函館市五稜郭町44)
戦場より遺体が持ち帰られ、五稜郭内に埋葬された。 - 大円寺(函館市神山3丁目4-1)
遺体が五稜郭に運ばれた後、大円寺に埋葬された。 - 七重村の閻魔堂
極楽寺(念仏寺・無縁寺・閻魔堂)(函館市吉川町5−18)
亀田七重の念仏堂の縁の下に隠された後、後年明治20年になって改葬された。
七重村に閻魔堂は存在しないため、七重浜近くの閻魔堂ということになる。 - 碧血碑(函館市谷地頭町1)
閻魔堂から土方の遺体を発見して火葬、碧血碑に合葬した。 - 人知れず埋葬されたが、場所がわからなくなった。
など諸説ありますが、現在でも正確なところが分かっていません。
また、土方歳三の死因についても、敵の銃弾を受けての失血死とされていますが、暗殺されたという説もあります。
もし、暗殺されたのであれば、証拠隠滅を図るために遺体が隠されたとも考えられます。
また、新撰組の局長だった近藤勇(1834年(天保5年)~1868年(慶應4年))は打ち首になった後、さらし首にされています。
新選組の鬼の副長だった土方歳三の遺体が、近藤勇と同じような扱いをされないために、どこかに隠されたとする説もありますが、真相はいまだに解明されていません。
土方歳三は生存していた?
土方歳三の遺体は未だ発見されておらず、そのこともあってか、土方歳三は箱館戦争で死んでいないという説もあります。
- 箱館戦争後も生き延びた。
箱館戦争を生き延びたと言われる所以は、「箱館降伏図」に死んだはずの歳三が描かれているためです。
このため、土方歳三は、箱館戦争を生き抜いたのでは?という説があります。 - ロシアまで落ち延びた。
ロシアの商人と、船でロシアに渡ったという説があります。
どちらの説も都市伝説の域を出ませんが、土方歳三が箱館戦争を生き延びて、どこかほかの地で生きていたとしたら、それはそれでロマンのある話ですね。
土方歳三の最後の姿はどうだった?
東京で生まれた土方歳三は、北海道の地でその生涯を閉じました。享年34歳、まだまだ人生これからという年齢です。新撰組の鬼の副長と呼ばれ、活躍した土方歳三の最後の姿は、どのようなものだったのか?詳しく見ていきましょう。
土方歳三の辞世の句
土方歳三の辞世の句は3つあります。
「よしや身は蝦夷の島辺に朽ちぬとも魂は東の君やまもらむ」
「たとひ身は蝦夷の島根に朽ちるとも魂は東の君やまもらん」
意味:
たとえ我が身は北海道の地に朽ちようとも 魂は江戸の将軍をまもるだろう
この二つの句が、土方歳三の辞世の句として取り上げられてきました。
しかし、2011年に霊山歴史館(京都府京都市東山区)で、土方歳三が詠んだと思われる歌が発見されています。
「鉾とりて月見るごとにおもふ哉あすはかばねの上に照かと」
意味:
鉾を手にして月を見るごとに思う。明日は屍の上にあの月光が降り注ぐのだろうか。
この歌は、武蔵野楼(函館)で歳三が詠んだ歌を、新選組隊士だった島田魁(1828年(文政11年)~1900年(明治33年))が、書き留めたのではないかと言われています。
戦局が不利になる状況をみて詠んだ歌と思われますが、死を覚悟しつつも戦わなければならないという状況だったのでしょう。
現代の私たちからすると、想像を絶する複雑な思いがその胸に去来していたと思われます。
土方歳三の最後の地には、石碑が建てられている
土方歳三は箱館戦争で敵の銃弾に倒れました。
しかし、土方歳三が亡くなった正確な場所や、遺体の場所は、現在でも分かっていません。
そんな中で、土方歳三が銃弾に倒れたといわれる場所のうちのひとつ、一本木関門跡に「土方歳三最期の地碑」が建っています。
最期の場所については諸説ありますが、「燃えよ剣」を書いた司馬遼太郎をはじめ、多くの人々が、一本木関門跡が土方歳三最期の地だとしています。
土方歳三最期の地碑
住所:函館市若松町33
(函館市総合福祉センター「あいよる21」敷地内)
見学自由その他にも、
- 鶴岡町(現在の大手町付近)
- 栄国橋(異国橋(現在の十字街付近))
が土方歳三の最後の地と言われています。
土方歳三の最後の戦い「戊辰戦争」を簡単に解説!
土方歳三が命を落としたのは、戊辰戦争という戦争の最中でした。
土方歳三が属する旧幕府軍と、新政府軍の戦いです。
この戊辰戦争がどのようなものだったのか?簡単に解説してきます。
会津戦争での敗北、そして箱館戦争
新撰組は、もともと京都の治安を守る幕府側の組織でした。
しかし、徳川慶喜(1837年(天保8年)~1913年(大正2年))が慶応3年(1867年)に大政奉還を行い、さらに明治天皇(1852年(嘉永5年)~ 1912年(明治45年))により王政復古の大号令が行われたことで、事実上、幕府が崩壊。
そんな中で、旧幕府軍と新政府軍の間で軋轢が生じ、戦争に発展しました。
会津地方が主戦場となった会津戦争では、新政府軍の兵力の前に敗戦が濃厚。
この状況を見て、土方歳三は北上することを決意し、蝦夷地(北海道)を目指したのです。
蝦夷地では、独立政府・蝦夷共和国を設立することを目指していた、榎本武揚らと合流します。
榎本武揚を総裁として「蝦夷共和国」が成立すると、土方歳三はその幹部として、新政府軍と戦うことになったのです。これが箱館戦争の始まりです。
そして、その箱館戦争の最中に、土方歳三は銃弾を受けその生涯に幕を下ろしました。
土方歳三は、箱館では人が変わったかのように優しかった?
新撰組の鬼の副長として恐れられた土方歳三。
1868年(慶應4年)、新政府軍との戦いで宇都宮城を攻めた際、逃げようとした味方の兵士を切り捨てています。
隊の秩序を乱すものは許さず、鬼の副長は健在と思われるエピソードです。
しかし、箱館ではうってかわって非常に部下に優しかったと言われています。
立てるべき局長・近藤勇(1834年(天保5年)~1868年(慶應4年))がいなかったためなのか、敗戦色が濃厚で近く自分の死期を悟ったのか、理由は定かではありません。
しかし、こちらが土方歳三の本当の姿かもしれませんね。
鬼の副長と呼ばれた男の優しさは、他の隊員たちにも慕われたことでしょう。
まとめ:土方歳三の死因は、銃弾を受けたことによる失血死。暗殺説や生存説もあるが、真相は闇の中。
新撰組の鬼の副長として恐れられた土方歳三は、幕府崩壊後も新政府軍と戦い続けましたが、箱館の地で敵の銃弾に倒れて最期を迎えました。
今回の内容をまとめると
- 土方歳三の死因は、腹部に銃弾を受けたことによる失血死
- 土方歳三は、味方によって暗殺されたという説もある
- 土方歳三は、箱館戦争で亡くなっておらず、生存した説もある
- 土方歳三の辞世の句は、3つある
- 土方歳三の遺体は、現在もその行方は不明
- 土方歳三は、新撰組の鬼の副長と言われたが、箱館では部下に非常に優しかった。
土方歳三は箱館で亡くなったとされていますが、生存説もあるなど、その真相は分かっていません。
土方歳三の遺体がどこにあるのかは判っていませんし、新撰組 鬼の副長と呼ばれた土方歳三の最期は謎に包まれています。
それでも人々は、土方歳三に思いをはせ、土方歳三のゆかりの地を訪れます。
それだけ土方歳三が魅力的な人物だということは、はっきりしていますね。
2021年10月に公開予定の「燃えよ剣」で、土方歳三を岡田准一さんがどのように演じるのか?また、土方歳三の最後の様子はどのように描かれるのか?楽しみですね。