菅原道真の年表を簡単に解説!何をした人?性格や子孫、伝説などをご紹介!
学問の神様として有名な、菅原道真:845(承和12)~903(延喜3)。
菅原道真はとても優秀な人物でした。その才能をもって異例の出世をし、さらに妬まれた結果、無実の罪を着せられて左遷され、左遷先でその人生を終えるという波乱の人生を送りました。
今回は、菅原道真は何をした人なのか?性格はどうだったのか?子孫はいるのか?また、菅原道真まつわる伝説などを、菅原道真の年表もとに簡単に解説していきます。
目次
菅原道真の年表を簡単に解説!
菅原道真:845(承和12)~903(延喜3):享年59歳
父:菅原是善 母:伴真成の娘
妻:島田宣来子
【菅原道真の年表】
- 845年(承和12年):0歳
現在の奈良県奈良市にて、菅原是善の第三子として誕生 - 849年(嘉祥2年):5歳
菅原道真が和歌を初めて詠む - 855年(斉衡2年):11歳
菅原道真が詩を初めて詠み、周りから神童と呼ばれる - 862年(貞観4年):18歳
文章生となる - 867年(貞観9年):22歳
文章得業生となる(正六位下) - 877年(元慶元年):33歳
式部少輔に任ぜられ、後に学者のトップである文章博士となる - 880年(元慶4年):36歳
父・是善の没後、祖父・菅原清公以来の私塾である菅家廊下を主宰し、朝廷における文人社会の中心的な存在となる - 886年(仁和2年):42歳
讃岐守を拝任される - 888年(仁和4年):44歳
藤原基経を諌めて阿衡事件を収める - 890年(寛平2年):46歳
讃岐国を無事に立て直し帰京する - 891年(寛平3年):47歳
宇多天皇の信頼を得て、蔵人頭になる - 894年(寛平6年):50歳
遣唐使の大使に任命されるも、唐が乱れていると考え遣唐使の派遣を中止する - 897年(寛平9年):53歳
権大納言兼右近衛大将となり、藤原時平と共に太政官の長となる - 899年(昌泰2年):55歳
右大臣、右大将を兼任する - 901年(延喜元年):57歳
醍醐天皇を廃そうとしていると疑いをかけられ、大宰府へと左遷される - 903年(延喜3年):59歳
疑いは晴れることなく、大宰府にて死去
菅原道真はどんな人?
菅原道真はとても優秀で、幼い頃から神童と呼ばれ異例の大出世をした人物です。
【菅原道真のしたこと】
- 抜群の頭脳と際ので、異例の大出世をした
- 遣唐使を廃止した
- 優秀すぎて左遷された
- 死後も出世し、神社に祀られた
抜群の才能と頭脳で、異例の大出世をした
菅原道真は、学問の神様として有名です。
抜群の才能と頭脳を持ち合わせていた菅原道真は、なんと5歳で和歌を嗜み、11歳で詩を詠むなど、周りから「神童」と呼ばれることもありました。
その頭の良さに驕ることなく、ひたすら勉学に励んだ菅原道真は、学者としてのトップである文章博士にまで登りつめます。さらに、得意な弓矢では百発百中の腕前ときたものですから、文武両道に秀でた人物であったことも伺えます。
また、讃岐守を拝任された際には、良い政治を行い、見事讃岐国を立て直します。
菅原道真はとても誠実な態度を取り続けていたので、多くの人から慕われていたそうです。
そして、その実績を買われ、京に帰還し、宇多天皇からも大いに信頼され出世街道まっしぐら。
蔵人頭に始まり、中納言、大納言、最終的には右大臣にまで異例のスピードで出世していきました。
菅原道真が遣唐使を廃止した
遣唐使とは、630年(舒明2年)から始まった唐(現在の中国)に使者を派遣して、唐の進んだ文化やモノを取り入れようとする制度のことです。
菅原道真が遣唐大使になった頃、日本は政治の仕組みも文化もかなり発展していました。
それに加えて、唐ではたくさん戦争が起こっていました。
菅原道真は、もうわざわざ唐へと使者を派遣する必要はないと判断し、遣唐使の廃止を天皇に対して提案したのです。
菅原道真の提案は受け入れられます。
そして唐も907年(延喜7年)に滅んだことにより、遣唐使は完全に廃止されました。
当時の航海技術では、渡航中に命を落とす人物も多く、「優秀な人物を失うわけにはいかない」という菅原道真の思いが伺えますね。
さらに、遣唐使を廃止したことにより、唐の真似に努めた時代に終止符が打たれ、日本の国風文化を開花させるきっかけにもなりました。
菅原道真が太宰府に左遷されたのは陰謀?妬み?
菅原道真は901年(延喜元年)に、時の天皇である醍醐天皇を廃しているという疑いをかけられ、大宰府へと左遷されてしまいます。
しかし、これは完全に無実の罪だったのです。
当時、中級貴族の出身の菅原道真がスピード出世していくのを、面白くないと思う有力貴族や、菅原道真の革新的な改革を反対する保守派の人たちから、恨まれたり妬まれたりしていたのです。
そして、901年に菅原道真は従二位に叙せられます。
そのタイミングで
「宇多上皇を欺き惑わした」
「醍醐天皇を廃立して娘婿の斉世親王を皇位に就けようと謀った」
と藤原時平に讒言され、身に覚えがないまま大宰府へと左遷されてしまうのです。
菅原道真は左遷先の大宰府にて、疑いが晴れるのを静かに待ちましたが、その望みは叶わず、そのままその生涯を終えることになりました。
菅原道真は死後も出世し、そして学問の神なり神社に祀られた
菅原道真の左遷は、本人だけに留まらず道真の家族も共に都から追放されていました。
さらに、菅原道真が大宰府に向かう道のりにおいても、落とし穴があったり、刺客がきたり、傷ついた馬や半壊した船を与えられたりと、絶えず危険に見舞われました。
左遷先の大宰府に着いてからも、大宰府の役人だとみなされず、大宰府本庁にすら入ることが出来ませんでした。
菅原道真は、給与も従者もない状態で、荒れ放題の廃屋での暮らしを余儀なくされたのです。
無実の罪でそのような扱いを受けてしまったのでは、菅原道真の無念さも計り知れませんよね。
そのような環境で、菅原道真は左遷先の太宰府で人生を終えます。
菅原道真の死後、次々と重要な役職についていた人物たちが死去していく事件や、朝廷の建物が崩壊するような天災が起きました。
朝廷は、これが菅原道真の怨霊によるものだと考え、菅原道真の扱いを見直すことにします。
そして947年(天暦元年)、菅原道真は北野社にて神として祀られるようになりました。
そこからも、菅原道真の神格化はどんどんと進み、
「学問の神様」
「至誠の神様」
「免罪の神様」
「文学・和歌の神様」
「芸事の神様」
などなど様々な神様として人びとに頼られる存在になりました。
そうして、菅原道真は「天神さま」と呼ばれるようになり、全国各地に道真を祭神とする天満宮という神社が建てられました。受験の時に、天満宮と名のつく神社にお参りに行った方も多いのではないでしょうか?
【菅原道真が祀られている主な神社】
- 太宰府天満宮(福岡県)
- 北野天満宮(京都府)
- 曽根田天満宮(福島県)
- 小平潟天満宮(福島県)
- 大生郷天満宮(茨城県)
- 亀戸天神社(東京都)
- 荏柄天神社(神奈川県)
- 大阪天満宮(大阪府)
- 和歌浦天満宮(和歌山県)
- 曽根天満宮(兵庫県)
- 防府天満宮(山口県)
菅原道真には子孫はいたのか?
菅原道真には、正妻の島田宣来子の他にも、数名の妾がいました。
子宝にも恵まれ、15人もの子供がいました。
しかし、菅原道真が左遷されたと同時に、その子供たちも地方へ追放されたりと冷遇されました。
菅原道真の子孫は現在も続いている?
菅原道真の死後、怨霊事件によって、それを抑えるために子どもたちも再び都へと戻ることが許可されます。
その後、菅原道真の子供たちは、歴代公卿になり、朝廷における紀伝道の要職を独占するようになりました。
中でも、長男の菅原高視の子孫は中央貴族として残り、そこから六家が派生し、上級貴族となっています。
その六家の一部は現在でも続いており、太宰府天満宮の社家を務めるなどしています。
菅原道真の子孫については、こちらの記事で詳しく解説しております。
>>菅原道真の子孫の現在は?家系図から辿る末裔たち。現在の苗字は何?>>
菅原道真の性格はどうだった?
非常に優秀で、神童とも呼ばれていた菅原道真の性格は、どうだったのでしょうか?
幼い頃からその才能を存分に発揮していた菅原道真は、決して奢ることなく、勉学に励んでいたと言われています。
ここでは、菅原道真の性格がわかるエピソードをご紹介していきます。
菅原道真が藤原基経を説得した「阿衡の紛議」
菅原道真は、物事を客観的に捉え、冷静に判断する力がありました。
そのことをよく表している出来事が「阿衡の紛議(阿衡事件)」です。
宇多天皇が即位した際、関白だった藤原基経は、引き続き強い職権のある関白の職を欲していました。
しかし、実際に与えられたのは、「阿衡」という権限を伴わない名誉職。
このことに藤原基経は激怒し、すべての政務をボイコットしてしまいます。
藤原基経が全ての政務を放り出したので、国政が渋滞する事態に陥ってしまいます。
宇多天皇は仕方なく、詔勅を書いた無実の橘広相を罷免しますが、それでも藤原基経の怒りは収まりません。
そのとき、このことを知った菅原道真は、藤原基経に手紙を出して説得し、見事職務に復帰させたのです。
またこの際に、橘広相が無実だとして、罰しないように意見書も集まるということもしていたようです。
このように、菅原道真は冷静に状況を判断し、天皇ですらできなかったことをやり遂げたのです。
菅原道真は孤独だった
菅原道真はとても優秀な人物でしたが、優秀すぎてかえって孤独な人生を歩むこととなってしまった寂しい人物でもあります。
異例の出世を重ねた、菅原道真に対する周りからの妬みはすごいもので、菅原道真のことを本当に理解できる友はわずか3人しかいなかったそうです。
その3人とは、在原業平、紀長谷雄、藤原忠平です。
しかし、菅原道真は左遷されてしまい、この唯一の理解者とも言える3人とも離れることになってしまいます。
大宰府に左遷された菅原道真の友達は、部屋の窓に時々現れる雀と燕の親子でした。
菅原道真の家集である『菅家文草』によると、菅原道真はこの鳥たちを見て
「家族を離散させてしまった自分が言葉に出来ないほど口惜しい」
と述べていたようです。
優秀すぎたために、妬みや恨みをうけ、左遷されて家族とも離れ離れになってしまった菅原道真。
その苦心は計り知れないですね。
まとめ:菅原道真は優秀だったがために、左遷され非業の最後を遂げた
菅原道真は、幼少期からとても頭がよく、大きくなってからは異例のスピード出世をしました。しかし、その優秀さが故に、周りからの妬みや恨みを買いすぎて、最終的には無実の罪で左遷されることになってしまいました。その孤独な人生は本当に大変なものだったでしょう。
今回の内容をまとめると、
- 菅原道真は、抜群の才能と頭脳で異例の出世を果たした
- 菅原道真は、宇多天皇からの信頼も厚かった
- 菅原道真は、遣唐使を廃止した
- 菅原道真は、その才を妬むものたちの手によって、無実の罪で大宰府へと左遷された
- 菅原道真の死後、様々な奇怪な事件が起こり、それが道真の怨霊のせいだとされた
- 菅原道真の怨霊を鎮めるために神社に祀られるようになった
- 菅原道真を祀っている神社は全国各地に存在する
大宰府に左遷された際、どうしても離れることを嫌がった子供2人を、菅原道真は連れて行っていたそうです。
妻と子供2人、最悪の環境下でも親子で励ましあって暮らしていました。
孤独な人生を送っていた菅原道真にとって、家族は唯一の癒やしだったのかもしれませんね。