卑弥呼は何をした人?簡単に解説!邪馬台国との関係はどうだった?
卑弥呼(出年不明〜247年)は、弥生時代に活躍していた日本の女王です。
『魏志倭人伝』などの古代中国の史書では、「倭国の女王」と称されていました。卑弥呼は「鬼道」と呼ばれるまじないを使って、クニを治めていたと言われています。
そんな卑弥呼は、何をした人なのでしょうか?
また、邪馬台国とはどのような関係だったのでしょうか?
この記事では、卑弥呼のしたことについて簡単に解説していきます。
目次
卑弥呼は何をした人?
卑弥呼は「倭国の女王」と呼ばれていた人物でした。
女王と呼ばれるからには、そのクニを統治していたのでしょうが、一体どのようなことをしていたのでしょうか?
ここでは、卑弥呼のしたことを簡単に解説していきます。
卑弥呼は邪馬台国の女王だった?
卑弥呼は、弥生時代に活躍していた日本の女王で、日本の歴史の中で最も古い女王だと言われています。
具体的にどこの女王であったかというと、「邪馬台国」というクニです。
邪馬台国は、30ほどの小国がまとまってできた古代国家でした。
卑弥呼は、そこの盟主だったというわけですね。
ちなみに、卑弥呼の前には、男性の王が邪馬台国を治めていましたが、長い間内乱が続き、それを収めるために卑弥呼がまつりあげられたのです。
卑弥呼のことは『魏志倭人伝』に書かれている?
この当時、日本には歴史書と呼ばれるようなものが存在していませんでした。
それでは、どこに卑弥呼のことが書かれていたのでしょうか?
それは、中国の歴史書『魏志倭人伝』です。
魏志倭人伝には、卑弥呼について以下のように書かれていました。
「其國本亦以男子爲王 住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子爲王 名曰卑彌呼
事鬼道 能惑衆 年已長大 無夫壻 有男弟佐治國
自爲王以來 少有見者 以婢千人自侍 唯有男子一人 給飲食 傳辭出入
居處宮室 樓觀 城柵嚴設 常有人持兵守衞」現代語訳:
その国、以前は男子を王としていたが、70〜80年がすぎると倭国は乱れ、互いに何年も戦争をすることとなった。そこで(各国が)共同で1人の女子を王とした。名を卑弥呼という。卑弥呼は鬼道に優れ、人々の心を掌握することができた。
(女王となったとき)すでに高齢で夫はなく、弟がいて国を治めるのを助けた。
王になったあと、人と会うことは少なく、1000人の女官が近くで世話をしたが、ひとりの男子が食事を運び、(卑弥呼の)話を伝えるために出入りした。
住んでいる場所には宮殿と高い楼閣、そして厳かな城柵が設けられ、常に人がいて守衛を行っていた。
卑弥呼についての記述は非常に少なく、卑弥呼に関する多くのことが未だに謎に包まれています。
卑弥呼はどういう人だった?
卑弥呼は、邪馬台国の女王としてクニを治めていました。そのことは『魏志倭人伝』に記載されています。
卑弥呼はどのような人だったのでしょうか?
ここでは、卑弥呼の特徴について簡単に解説していきます。
卑弥呼は鬼道を使って政治をしていた
卑弥呼は邪馬台国を統治していました。
そのやり方としては、鬼道と呼ばれるまじないや占いの一種を用いて、あらゆる決定をくだしていたようです。具体的には、目に見えない神々や霊などと交信することによって、様々なことを知るというものでした。
その際には、動物の骨を焼いてできるひび割れ具合などを通じて、天候や戦について占っていたのです。
これは、誰にでもできるものではなく、特別な能力が必要だと考えられており、中でも卑弥呼が特に鬼道に優れていたことから、邪馬台国の盟主としてまつりあげられたのだと推測されています。
卑弥呼は宮殿に住んでいた
女王となった卑弥呼は、宮殿の奥に住み、そこから出てくることはなかったと言われています。
その姿を見ることができた人はまずおらず、唯一見ることができたのは、卑弥呼の弟だけです。
弟が、卑弥呼の食事の世話や、卑弥呼からの伝言を他の人たちに伝えるという政治的な補佐の役目を担っていました。
また、卑弥呼は結婚はせず、召使いの女性1000人に身の回りの世話をさせていたという話もあります。
ちなみに、その宮殿には、卑弥呼を守るために、物見櫓や城柵が設けられ、常に兵士が見張りに付いていたと言われています。
卑弥呼は魏と国交を結んで「親魏倭王」の称号をもらった
卑弥呼の時代、大陸では、魏・呉・蜀の三国が覇権を巡って争う、いわゆる「三国志」の時代でした。
もともと、日本では、朝鮮半島の楽浪郡や帯方郡を経由して中国の王朝に使者を送っていたのですが、三国志の時代になるとその辺りが公孫氏に支配されてしまい、一時的に中国に使者を送ることが難しくなってしまいます。
しかし、魏が公孫氏と戦い、楽浪郡や帯方郡を支配下に置くと、卑弥呼はすぐさまそこに使者を送り込みます。
当時、最も勢いがあったとされる魏と交流を図ろうとしたわけですね。
この際の卑弥呼の狙いは、大国の王に認められることにより、国内での地位を盤石なものにすることでした。
卑弥呼率いる邪馬台国連合は、当時南の狗奴国と長い対立関係にありました。
そのため、魏という大きな勢力をバックにつけることで優位に立とうとしたわけですね。
魏も、近隣の国々が対立国である呉と手を組まれては困りますから、倭からの使者を歓迎します。
そして、卑弥呼には「親魏倭王」の証となる金印紫綬を授け、貢物の返礼品として銅鏡100枚を贈るなどして、魏は卑弥呼のクニの味方となることを約束したのでした。
なお、文献資料がないため、狗奴国との戦いがどうなったのかはわかっていません。
卑弥呼の死因は?墓所はどこにある?
卑弥呼は鬼道を使ってクニをまとめ、魏と国交を結ぶなど、邪馬台国では欠かせない人物でした。
そんな卑弥呼はどのように亡くなったのでしょうか?
また、墓所はどこにあるのでしょうか?
ここでは、卑弥呼の死因や墓所について簡単に解説していきます。
卑弥呼の死因は?
卑弥呼の時代、日本には本格的に使用されていた文字というものがなく、国内にはいわゆる歴史書というものがありませんでした。
そのため、卑弥呼のことについて書かれたものがなく、卑弥呼がどのようにして亡くなったのかということも謎のままなのです。
しかし、中国の歴史書『魏志倭人伝』には、卑弥呼の死についてわずかに記載があり、そこから亡くなった年は、247年もしくは248年頃が有力とされています。
また、推測されている死因の候補としては、
- 老衰
- 戦死
- 刑死
- 生贄
以上のようなものが挙げられています。
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卑弥呼の墓所はどこにある?
卑弥呼の墓がどこかというのは、未だにはっきりと判明していません。
普通に考えたら、卑弥呼の墓は、卑弥呼の治めていたクニである「邪馬台国」にあったはずですよね。
しかし、その邪馬台国自体がどこにあるのか判明していないのです。
さらに、近年では、そもそも卑弥呼の墓は、邪馬台国ではない別のどこかのクニにあるのではないかという説まで出てきています。
これは、卑弥呼が共立された国々の中のひとつのクニの王であり、都とした邪馬台国ではなく、別のクニの出身ではなかったのかというところからきています。
そうなると、当然出身のクニの場所に墓があるはずですよね。
このように、卑弥呼の墓の候補地はいくつかあるものの、決定打となるような証拠は出てきていません。そのため、卑弥呼の墓の場所については、昔から議論が続けられているのです。
ちなみに、候補地としては、
- 箸墓古墳
- 石塚山古墳
- 祇園山古墳
- 平原王墓
以上の4つが主に挙げられています。
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卑弥呼の死後、再び争いが起こった?
『魏志倭人伝』によると、卑弥呼の死後、卑弥呼の代わりに男の王が邪馬台国の王となるのですが、邪馬台国連合は分裂して、再び争いが起こってしまいます。
そこで卑弥呼の一族であった、「壱与」という少女を新たな盟主として立てることにしました。
すると、争いはたちまち収まったとされています。
まとめ:卑弥呼は鬼道を用いて邪馬台国を治めていた女王だった
卑弥呼は、弥生時代、鬼道と呼ばれるまじないを用いて、邪馬台国を治めていた女王でした。しかし、この当時日本の歴史書はなく、中国の歴史書『魏志倭人伝』の記載くらいしか卑弥呼を知ることができず、未だに多くの謎に包まれています。
今回の内容をまとめると、
- 卑弥呼は弥生時代に活躍した邪馬台国の女王
- 卑弥呼は鬼道に優れ、鬼道によってクニを治めていた
- 卑弥呼は、魏と国交を図るなど、政治的手腕にも長けていた
- 卑弥呼の死因や墓所などは未だに判明していない
卑弥呼は、宮殿の奥に住み、弟しか会うことが許されていませんでした。そのため、本当はそもそも卑弥呼という存在はいなかったのではないかとする説も存在します。
このように、卑弥呼についてはまだまだ謎な部分が多いため、今後発掘調査などで新たな情報が出てくることを期待しましょう。