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卑弥呼の死因は何?戦死?殺害された?最後の姿は?墓所はどこにある?

卑弥呼(出年不明〜247年)は、弥生時代に活躍していた日本の女王です。

『魏志倭人伝』などの古代中国の史書では、「倭国の女王」と称されていました。

卑弥呼は「鬼道」と呼ばれるまじないを使って、クニを治めていたと言われています。

そんな卑弥呼はどのようにして亡くなったのでしょうか?

また、墓所はどこにあるのでしょうか?

この記事では、卑弥呼の死因について簡単に解説していきます。

卑弥呼の死因は何?最後の姿は?

卑弥呼は邪馬台国をまじないを使って治めていたと言われています。

倭国の女王とも言われていた卑弥呼は、どのようにして亡くなったのでしょうか?

ここでは、卑弥呼の死因について簡単に解説していきます。

卑弥呼の死因ははっきりと判明していない?

卑弥呼の時代、日本には本格的に使用されていた文字というものがなく、国内にはいわゆる歴史書というものがありませんでした。

そのため、卑弥呼のことについて書かれたものがなく、卑弥呼がどのようにして亡くなったのかということも謎のままなのです。

しかし、なぜ卑弥呼の存在がわかったかというと、中国の歴史書『魏志倭人伝』にその記載があったからです。

そこには、卑弥呼の死についてもわずかに触れられており、そこから亡くなった年は、247年もしくは248年頃が有力とされています。

見出し1-2 卑弥呼の最後の姿は『魏志倭人伝』に書かれている?

卑弥呼のことは『魏志倭人伝』という歴史書に記載があります。

そこに記載されていた、卑弥呼の晩年は以下の通りです。

魏志倭人伝に記載さされている原文:
「倭女王卑弥呼与狗奴国王卑弥弓呼素不和 遣倭載斯烏越等詣郡 説相攻撃状 遣塞曹掾史張政等因 齎詔書黄幢 拝仮難升米為檄告諭之 卑弥呼以死 大作冢 徑百餘歩 殉葬者奴婢百餘人」

現代語訳:
倭の女王卑弥呼と狗奴国の男王卑弥弓呼とは平素から不仲であった。それゆえ倭国は載斯烏越らを帯方郡に派遣して狗奴国との戦況を報告させた。これに対し、(魏の朝廷は)塞曹掾史の張政らを派遣した。邪馬台国に赴いた張政らは、証書と黄幢を難升米に授け、檄文を作って諭した。卑弥呼が死んだので、大いに冢を作った。径は百余歩である。殉葬された奴婢は百余人である。」

以上のように、卑弥呼が死んでいたということは、記載があるのですが、いつどのようにして亡くなったという詳細までは書かれていません。

そのため、ここから読み取れる状況などを考えて、卑弥呼がどのようにして亡くなったのかを推測するしかない状況なのです。

卑弥呼の死因の候補は?

卑弥呼の死については、『魏志倭人伝』で少し触れられているだけで、はっきりとした死因は判明していませんでした。

しかし、死因についてはいくつか推測されています。

ここでは、卑弥呼の死因の候補について簡単に解説していきます。

卑弥呼の死因①|老衰

まず挙げられるのは、老衰で亡くなったのではないかとする説です。

『魏志倭人伝』には、卑弥呼は240年代の時点で「年巳長大」と記載されており、高齢であったということが伺えます。

また、卑弥呼が邪馬台国にて女王を務めていた期間は、180年頃から240年頃の約60年間が有力とされています。そのため、10代半ばで即位したとしても、240年頃には70歳以上であったと推測できるのです。

当時の平均寿命は40歳くらいだと言われているので、卑弥呼が老衰で亡くなっていてもおかしくはないですね。

卑弥呼の死因②|戦死

次に挙げられるのは、狗奴国との戦いで戦死したという説です。

240年頃、卑弥呼率いる邪馬台国は、狗奴国と長期間の争いをしていました。

そして、敗北の危機を感じた卑弥呼は、魏に支援要請を出し、その結果、魏の張政らが派遣されました。

しかし、魏に使いを送ったことを知った狗奴国が、焦って総攻撃を仕掛けるなどしたことで戦況が悪化し、その結果、戦いに巻き込まれて亡くなったのではないかと推測したわけですね。

女王である卑弥呼が前線に出ていたのかなど、疑問が残る点も多々あり確定はできないものの、状況的に可能性は否定できません。

卑弥呼の死因③|刑死

240年頃、邪馬台国は狗奴国と長期間争いをしていました。

卑弥呼は、その争いが長期化した責任を取って刑死になったのではないかとする説もあります。

長期間争いをしているにも関わらず、一向に終わらない争いに国内の卑弥呼への信用は失われつつありました。

さらに、魏から派遣された張政らは、証書や軍旗を卑弥呼ではなく、卑弥呼の家臣である難升米に渡しています。

これは、魏が卑弥呼を見限って、難升米を次の王、もしくは国の指導者だとみなしたのではないかと考えられるわけです。

つまり、魏の意向としては、「卑弥呼を殺して、次の王を立てろ」というもので、それに国の人々も同意して、卑弥呼は刑死になったというわけですね。

国のために魏に使いを出したはずが、刑死になったとなっては、卑弥呼も救われませんよね。

卑弥呼の死因④|皆既日食の影響

戦いとは関係なしに、卑弥呼は皆既日食の影響で殺されたのではないかとする説もあります。

どういうことかというと、この卑弥呼が亡くなったとされる年の辺りで、皆既日食が2年続けて起きてしまったのです。

当時の人々からしたら、皆既日食はこの世の終わりのような天変地異です。

この天変地異が起きたのを、「卑弥呼の霊力が弱まったせい」だと考え、神の怒りを鎮めるべく、卑弥呼を生贄に捧げることにしました。

こうして、卑弥呼は生贄として殺され、太陽を呼び戻したのではと推測されているのです。

ちなみに、天文学の計算によると、皆既日食が起きていたのは、247年と248年だったそうです。

卑弥呼の墓所はどこにある?

卑弥呼の死因はいくつか推測されていますが、はっきりと断定できるような証拠は残されていませんでした。

それでは、卑弥呼の墓所はどこにあるのでしょうか?

ここでは、卑弥呼の墓所について簡単に解説していきます。

卑弥呼の墓所はどこか判明していない?

結論から述べると、卑弥呼の墓がどこかというのは、未だにはっきりと判明していません。

普通に考えたら、卑弥呼の墓は、卑弥呼の治めていたクニである「邪馬台国」にあったはずですよね。

しかし、その邪馬台国自体がどこにあるのか判明していないのです。

さらに、近年では、そもそも卑弥呼の墓は、邪馬台国ではない別のどこかのクニにあるのではないかという説まで出てきています。

これは、卑弥呼が共立された国々の中のひとつのクニの王であり、都とした邪馬台国ではなく、別のクニの出身ではなかったのかというところからきています。

そうなると、当然出身のクニの場所に墓があるはずですよね。

このように、卑弥呼の墓の候補地はいくつかあるものの、決定打となるような証拠は出てきていません。

つまり、卑弥呼の墓がどこかというのは、未だにはっきりと判明していないのです。

死因も墓所も判明しておらず、卑弥呼の晩年は謎に包まれたままですね。

卑弥呼の墓所の候補は?

卑弥呼の墓の場所はどこか判明していませんが、その特徴は『魏志倭人伝』などの記述によりいくつか判明してます。

  • 墓の径は約144mくらいである
  • 「径」という表現から円墳である可能性が高いこと(前方後円墳や方墳の可能性もあるにはある)
  • 墓の中には、卑弥呼の棺の他にもう一つ棺がある(中には殉葬した奴婢100人余りの遺骨がある可能性が高い)
  • 造成時期は、弥生時代の終末期から古墳時代への移行期あたりである
  • 埴輪はない

以上が、卑弥呼の墓の特徴です。そして、これらの特徴を持つ候補がいくつか存在しています。

【卑弥呼の墓の候補地】

  • 箸墓古墳
  • 石塚山古墳
  • 祇園山古墳
  • 平原王墓

以上の4つが主に挙げられます。しかし、いずれも決定的な証拠は出てきていません。

そのため、卑弥呼の墓の場所については、昔から議論が続けられているのです。

\ 卑弥呼の墓に関しては、こちらの記事で詳しく解説しております /

まとめ:卑弥呼の死因ははっきり判明しておらず、『魏志倭人伝』の記述から推測するしかない

卑弥呼の死因は、史料が十分に残っておらずはっきりと判明していません。

卑弥呼の死については、中国の歴史書『魏志倭人伝』にほんの少し記載されているだけで、そこから推測するしかない状況でした。

今回の内容をまとめると、

  • 卑弥呼の死因ははっきりと判明していない
  • 卑弥呼の死については『魏志倭人伝』に少し記載があるだけ
  • 卑弥呼の死因は、『魏志倭人伝』の記載から推測される候補がいくつかある
  • 卑弥呼の死因も墓所もはっきりわかっていない

卑弥呼の存在は、本当に多くの謎に包まれています。しかし、謎に包まれているからこそ、様々な推測を立てることができます。卑弥呼の謎について考え、古代のロマンに思いを馳せるのもいいかもしれませんね。

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