北条政子と源頼朝。馴れ初めは?結婚後の関係は?エピソードを交えて解説!

北条政子と源頼朝。馴れ初めは?結婚後の関係は?エピソードを交えて解説!

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鎌倉幕府を開いた源頼朝と、その正室である北条政子は、当時にはめずらしく恋愛結婚で結ばれたカップルです。

源氏の出身で流罪となった源頼朝、その監視を命じられた北条家の娘である北条政子。

今回は、身分の差があった北条政子と源頼朝が、出会い結ばれるまでの馴れ初めを、エピソードを交えて解説していきます。また結婚後の二人の関係にも注目していきます。

北条政子と源頼朝の出会い

北条政子は、伊豆国(現代の静岡県)の小豪族である北条時政ほうじょうときまさの娘です。
当時の日本の中心地は京都ですから、北条政子は片田舎のちょっと裕福な家の娘といったところでしょうか。

※豪族とは…
一定の地域の支配権を持つ一族のことです。支配地域や財産が小規模な場合、小豪族と称されます

一方で源頼朝は、源頼朝は清和源氏のひとつの河内源氏の嫡男として、尾張国(現代の愛知県)に生まれました。
源頼朝は皇族女子が祖先にいる非常に高い身分の御曹司だったのです。

住んでいる場所も身分も大きく異なった北条政子と源頼朝が、出会ったきっかけは、「平治の乱」。
平氏に源氏が敗北したことにより、源頼朝が伊豆国に流刑されたことでした。

北条政子は小豪族の娘

北条政子は、小豪族の北条時政の長女として伊豆国で生まれました。

北条政子が4歳の時に、京から罪人が流刑されてきました。
その罪人として流刑されてきたのが、当時13歳の源頼朝です。
そして、北条政子の父 北条時政は、当時の最高権力者である平清盛から、源頼朝の監視役を命じらられたのです。

そうして、出会った当時の北条政子と源頼朝は、平家側に従う家の娘と、源氏を代表する敵男という対立する立場だったのです。

源頼朝は流刑された源氏

源頼朝は、源氏の棟梁である源義朝みなもとのよしともの嫡男として生まれました。
源頼朝は、皇族女子が祖先にいる非常に高い身分の御曹司だったのです。

源頼朝が13歳の時、「平治の乱」が起こり、平氏と源氏の戦いになりました。

この戦いは源頼朝の初陣でしたが、源氏は平氏に敗北。
源氏のおもな武将は殺されますが、まだ幼かった源頼朝は命まではとられず、伊豆国に流刑となりました。

一説では、源頼朝の死刑にならなかったのは、源頼朝の容姿の可愛らしさと健気な様子に心を打たれた平清盛の義母の池禅尼いけのぜんにが口添えしたためもと言われています。

源頼朝は13歳で伊豆国に流刑されてから、20年もの間、流人としてすごしています。
比較的自由が与えられた生活だったといわれていますが、源家の御曹司としての生活から一変したことは間違いないことでしょう。
土地を持つことも、家来を持つことも、伊豆国からでることも制限された日々は、大変な苦労があったと思われます。

北条政子と源頼朝は恋愛結婚


北条政子と源頼朝は、当時ではめずらしく大恋愛の末に結婚しました。

北条政子の父親の北条時政が京に出張中、21歳の北条政子と31歳の源頼朝は恋人になります。
京から戻った北条時政は、二人の関係を知ると、平家一門への聞こえを恐れ、最初は大反対をしますが、最終的に二人の仲を認めるようになりました。

北条政子と源頼朝の仲を認めるということは、北条家が平家の傘下から源家の味方へと鞍替えすることを決断したことに他なりません。

小さな伊豆の豪族にすぎない北条時政にとって、絶対的な強者であった平清盛と反目する決断は、一世一代の大博打だったのではないでしょうか。

もしも、北条時政が二人の結婚を認めなかったら、北条家は伊豆国の小さな豪族のまま歴史の中に埋もれていたことでしょう。
また、強過ぎない立場の北条家がよい緩衝材となったことで、源頼朝は東国の豪族たちの協力を得ることができたともいわれています。

鎌倉幕府から江戸時代まで続く武家政権のきっかけは、北条政子と源頼朝の恋愛結婚からだったと思うと、とても運命的でロマンチックに感じますよね。

北条政子は別の結婚相手がいた?

源頼朝と結婚した北条政子ですが、別の結婚相手がいたとの逸話が残っています。

北条政子の父 北条時政は、北条政子と源頼朝が恋人となったことを知ると、最初は大反対します。
そして、北条政子を平家の代官として伊豆国に派遣されてきた山木兼隆と結婚させて、二人の結婚をあきらめさせようとしたのです。

しかし、北条政子は持ち前の情熱と行動力で自分の意思を貫いたといいます。

そうして、山木兼隆の屋敷に輿入れさせられた北条政子は、その日の夜には屋敷を抜け出し、山を一つ越え、頼朝の元へ走ったというのです。
北条政子が山木兼隆の家に送られた日の天気は雨だったといいます。

月も星も見えない暗闇に飛び出していき、雨の中、灯ひとつもたずに若い女性が単身で道なき道の山道を走る姿を想像すると、北条政子の強い情愛と行動力に感服するほかありません。

しかしながら、山木兼隆が伊豆国に派遣されたのは、北条政子と源頼朝が結婚した2年後であったとの記録も残っており、北条政子との婚姻話は創作である可能性が高いとされています。

しかしながら、北条政子に人物像を実によく表している逸話といえるのではないでしょうか。

北条政子と源頼朝の関係はどうだった?

大恋愛の末結ばれた北条政子と源頼朝は、結婚後の関係も決して悪くなかったようです。

北条政子はきちんと自分の意見を源頼朝に伝え、源頼朝も北条政子の意見を受け入れているようなエピソードがいくつも残されています。

また、源頼朝が急死した後も鎌倉幕府が存続しつづけることができたのは、北条政子の尽力があってこそといえます。

北条政子は、結婚前も結婚後も源頼朝を一途に慕い支え、源頼朝の開いた鎌倉幕府を守り続けているように感じます。

【北条政子と源頼朝の関係を伝えるエピソード】

  • ・北条政子は嫉妬深かった?
  • ・北条政子が源頼朝を説得して、静御前の命を救った

北条政子は嫉妬深かった?

北条政子は源頼朝の浮気を許しませんでした。
当時の有力武家は、一族を増やすためにも、多くの妾をもつのが当たりまえだった時代ですから、当時の女性としては、珍しい姿勢といえるでしょう。

北条政子が嫉妬深かったといわれるエピソードが残されています。

北条政子が第二子の源頼家を出産するために家を空けている間に、源頼朝は「亀の前」という女性を鎌倉の近くに呼び寄せました。
亀の前は伊豆国にいた時から頼朝に仕えていた女性で、穏やかな性格の彼女を頼朝はとても可愛がっていたようです。

無事に出産し、鎌倉に戻ってきた北条政子は、源頼朝の浮気に激怒します。

北条政子は、亀の前の住んでいた鎌倉の家を破壊し、鎌倉から追い出したといわれています。

北条政子の、夫の浮気を許さない行動は、一途で嫉妬深い性質のものとする一方で、実は自分の立場を保守するための冷静な判断であるという説も存在しています。

当時、家を継ぐのは長子ではなく正室の子どもというのが一般的でした。

事実、源頼朝も生まれ順では三番目ですが、正室の子ということで敵男として育てられています。

北条政子が自分の子を後継ぎにするためには、正室であり続けることが大切だったのです。

皇族が祖先にいる非常に高い身分の御曹司である源頼朝に対して、北条政子は伊豆国の小さな豪族の出にすぎません。源頼朝の正室としては、身分が低すぎると思われてもしかたありません。

高貴な出の者が源頼朝の妾となり、子を産んでしまえば、相手の家の力であっという間に北条政子は正室の座を追われてしまうことでしょう。

そのためにも、北条政子は夫の浮気を許さない姿勢を取り続ける必要があったというわけです。

つまり、北条政子が許さなかったのは、源頼朝が浮気をすることではなく、妾との間に子どもが生まれることであったというわけです。
実際、源頼朝は生涯に多くの女性と通じています。しかし、妾に源頼朝の子を産ませた際は、出産の儀式を省略したり人目を憚るようにして育てられたりと、北条政子を慮った行動をとっています。

北条政子が源頼朝を説得して、静御前の命を救った

北条政子が源頼朝を説得して、源頼朝の怒りを鎮めひとつの命が救われたとのエピソードが存在しています。

平家滅亡後、源頼朝と弟の源義経みなもとのよしつねは対立します。
源義経の愛妾であった静御前しずかごぜんが捕らえられ、鎌倉へ送られてきました。

白拍子とよばれる歌舞の名手である静御前は、源頼朝の前で舞を披露することとなりました。

静御前は源義経が源頼朝と対立していることを充分理解したうえで、源頼朝の前で源義経を慕う歌を詠いながら舞いを披露したのです。
静御前も相当な度胸の持ち主ですよね。

源頼朝は激怒し、手討ちにしようとしますが、北条政子が源頼朝を説得し、静御前の命を救ったのです。

説得した内容としては、北条政子と源頼朝が鎌倉に居を構えるまでの日々を振り返るものでした。
「私が当時に抱いていた気持ちは、今の静御前の心と同じです。源義経を慕いし続ける心もちは、実に立派なことではありませんか。」

北条政子の言葉によって、源頼朝は怒りを鎮めることができ、逆に静御前に褒美を与えたといわれています。

北条政子は、源頼朝の死後も鎌倉幕府を支え続けた

北条政子は、源頼朝が亡くなった後も鎌倉幕府を支え続けました。

北条政子が鎌倉幕府を瓦解させるわけにはいかないという覚悟は、相当なものだったと思います。

その北条政子の覚悟は、源頼朝の鎌倉幕府の存続を脅かす存在は、実の息子や父親であっても幽閉するほどです。
鎌倉幕府の4代征夷大将軍の後ろ盾である「尼将軍」となった北条政子は、承久の乱で、幕府軍を勝利へ導く功績をのこしました。

北条政子は、実の息子・父であっても幽閉するほどの覚悟の持ち主

北条政子が43歳の時、源頼朝が急死してしまいます。
敵男の、源頼家みなもとのよりいえが2代目となりますが、御家人と対立することがしばしばあり、北条政子は何度も間に立って騒ぎをおさめていたと言われています。

源頼家は北条家を筆頭とする老臣と対立を続け、しだいに源頼家の妻の父親である比企能員ひきよしかずを重用するようになっていきます。

ある時、源頼家は病に倒れます。
源頼家は自分の長子の一幡いちまんに全てを譲ろうとします。
しかし、一幡の後ろ盾である比企能員の全盛時代になることを恐れた北条時政は、比企家一族を滅亡させます。
その事を知り怒った源頼家が北条時政に武力でぶつかる前に、北条政子は源頼家を修禅寺に幽閉してしまったのです。

つまり、源頼家は母親の北条政子によって権力を奪われてしまったのです。

北条政子は、自分の子供である源頼家よりも、父親の北条時政の味方をしたというわけなのでしょうか?
実ははそうとは言い切れないのです。

源頼家が幽閉された後、3代征夷大将軍となった源実朝みなもとのさねともはまだ12歳と幼かったこともあり、北条時政が初代執権に就任します。
しかし北条時政は、権力を強くなるにつれて、政権を独占しようとしはじめます。

そのとき、北条政子は北条時政の政権独占を阻止し、北条時政を出家させて伊豆へ幽閉してしまうのでした。

つまり、北条政子は、実子の源頼家も父親の北条時政も幽閉してしまったというわけです。

北条政子が守りたかったのは、家の権力ではく、源頼朝がつくった鎌倉幕府そのものだったのではなかったのでしょうか?
北条政子の一連の行動からは、
鎌倉幕府存続を脅かす行動をするのならば、自分の子供でも親でも幽閉を辞さない強い覚悟をもっていたのだと感じられます。

北条政子は、尼将軍となって鎌倉幕府を存続させた

4代征夷大将軍となった藤原頼経ふじわらのよりつねの後見人となった北条政子は「尼将軍」と呼ばれるようになりました。
将軍に就任した時の藤原頼経は、わずか2歳と幼く、北条政子が実質的に将軍の代行をしていたといわれています。

そして、北条政子の最も大きな功績といわれる、「承久の乱での幕府軍を勝利へ導く演説」を行い、鎌倉幕府を存続に尽力したのでした。

北条政子の演説のなかにも「源頼朝に御恩を報いる時だ」との内容が入っています。

このことからも、北条政子は源頼朝が開いた鎌倉幕府を守りたいとの思いが伝わってきますよね。

まとめ:北条政子と源頼朝は恋愛結婚、結婚後も二人は互いに支え合っていた

北条政子と源頼朝は、恋愛結婚で周囲の反対を乗り越えて結婚したことがわかりました。
また、結婚後も二人はお互いに支え合っていたことがわかりました。
今回の内容をまとめると、

  • 北条政子と源頼朝は恋愛結婚だった
  • 結婚後も北条政子と源頼朝は、互いに支え合っていた
  • 北条政子は、源頼朝の死後も鎌倉幕府を支え続けた

北条政子が決死の覚悟で4代に渡って鎌倉幕府を支え守りつづけたことが、その後700年間続く武家政権の礎となったのかもしれませんね。

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