徳川家光の死因は何?最後の姿は?辞世の句は?江戸幕府はその後どうなった?
徳川家光(1604(慶長9)〜1651(慶安4))は、江戸幕府の第3代将軍で、江戸幕府を開いた徳川家康の孫です。
参勤交代の制度化や、鎖国の完成など、江戸幕府の諸体制を整えました。
そんな徳川家光の死因は何だったのでしょうか?
この記事では、徳川家光の死因や辞世の句などを簡単に解説していきます。
徳川家光の死因は何?最後の姿は?
徳川家光はとても病弱だったと言われており、その死因は何だったか?
また、最後の姿はどのようなものだったのか?
ここでは、徳川家光の死因や最後の姿などを簡単に解説していきます。
目次
見出し1-1 徳川家光の死因は脳卒中?
徳川家光は、1651年(慶安4年)に亡くなっています。享年48歳でした。
この亡くなる前日、家光は献上された茶碗を鑑賞しており、その途中で突然卒倒したのです。
その症状は快方に向かうことなく、翌日にはそのまま息を引き取りました。
徳川家光は亡くなる前年から病を患っており、死の直前には歩行障害が見られていたことから、死因は脳卒中だと言われています。
また、徳川家光の死を受けて、近臣の堀田正盛らが殉死しています。
徳川家光は病弱で若い頃から度々大病に罹患していた?
徳川家光は幼少期からとても病弱で度々大病に罹患していました。
- 25歳 :脚気
- 26歳 :天然痘
- 30歳代:抑うつ
- 43歳 :マラリア
- 40歳代:高血圧
はっきりと病名がわかっているところだけでもこれだけの病気に罹っています。
また、徳川家光が3歳のときに罹った大病は、徳川家康が処方した薬で回復したと言われています。
徳川家光が病弱だったからでしょうか?
徳川家光の時代は、家康・秀忠の時代と比べて、多くの医官が採用されており、従来の2倍以上の人数であったとされています。
徳川家光は、これだけ病弱であっても生き残ることができて、無事に将軍になれたのは、一重に祖父である徳川家康のおかげだと考えていたようです。
徳川家光の辞世の句は?遺言は残した?
武士は死ぬ間際に普通辞世の句を残します。
それでは、徳川家光はどのような辞世の句を残したのでしょうか?
また、遺言は残していたのでしょうか?
ここでは、徳川家光の辞世の句や遺言について簡単に解説していきます。
徳川家光の辞世の句はないが、肌身離さず持っていたお守りがあった?
徳川家光は実は辞世の句は残していませんでした。
しかし、肌身離さず持っていたお守りがあったたと言われています。
そのお守りには、
「二世ごんげん(権現)、二世将軍」
「生きるも 死ぬるも 何事もみな 大権現様次第に」
このように書かれた紙が入っていたそうです。
ここで言う権現とは、東照大権現のことを指しており、つまり徳川家光の祖父である徳川家康の神号を指しています。
徳川家光は、
- 3歳のときに罹った大病が、徳川家康の薬のおかげで回復したこと
- 体調の悪い時に、夢枕に徳川家康が立つと翌朝にはすっかりと回復していたこと
- 両親が弟の忠長を贔屓していたのに対し、徳川家康が口添えしてくれたおかげで将軍になれたこと
以上のことなどから、家康のことを崇敬していました。
その証拠として、徳川家康が祀られている日光東照宮に生涯で10回も訪れていたり、莫大な資金を投入して日光東照宮の大規模改築を行ったりしています。
徳川家光は遺言で、徳川家康の墓所の近くに自分の墓所を建てさせた?
徳川家光は、祖父の徳川家康のことを崇敬していました。
そのため、徳川家光は遺言で、
「私が死んだ後も魂は徳川家康の祭られている日光山にまいりて、仕えまつらんと願うゆえに、遺骸を慈眼堂のかたわらに葬るように」
と家臣に命じていました。
こうして、家光の遺骸は東叡山寛永寺に移された後で、日光の輪王寺に葬られました。
この時家光は、自分の廟所は仏式で、荘厳は決して東照宮のそれを超えないようにと厳しく命じたと言われています。
そのため、きらびやかで彩色に黄金色が映える東照宮に対して、輪王寺の家光の廟所・大猷院(たいゆういん)は、漆黒をベースに金色の錺金具が光り、落ち着いた気品ある装飾となっています。
徳川家光の死後、江戸幕府はどうなった?
徳川家光は江戸幕府の諸体制を整えましたが、その死後、江戸幕府はどうなっていったのでしょうか?
ここでは、家光の死後、江戸幕府がどうなっていったのかを簡単に解説していきます。
徳川家光のせいで由井正雪の乱が起こった?
徳川家光は将軍在任中、他大名に対して「改易」や「転封」をしきりに行いました。
これをすることによって、「領地は将軍が与えているものだ」ということを他大名たちに意識させ、江戸幕府の力を示したのでした。
しかし、この高圧的なやり方のせいで、ある事件が起こります。
それが、由井正雪の乱です。
由井正雪の乱は、由比正雪という軍学者が槍の達人だった丸橋忠弥とともに、徳川家光から家綱への代替わりを狙って、江戸幕府の転覆を企てたとされる事件です。
この計画自体は、決行の直前に幕府に摘発され、全員捕まり失敗に終わります。
それでは、この乱がなぜ家光のせいで起きたと言えるのでしょうか?
それは、この計画の共犯者の中に、「改易」で路頭に迷っていた牢人(仕事を失った武士のこと)が多数いたことから伺えます。
牢人たちは、家光によって主君が改易された結果、雇い主を失い、貧しい暮らしを強いられました。
そのため、当然その怒りの矛先は家光、もしくは江戸幕府に向かうわけです。
このように、徳川家光がしきりに改易や転封を行った結果、仕事を失った武士が増え、その武士たちの怒りが爆発し、幕府転覆の危機に陥ったわけです。
由井正雪の乱を受けて幕府は政治の方針転換をした?
徳川家光による高圧的な政治のせいで、江戸幕府は転覆計画をたてられてしまうような状態になっていました。
このままでは、いずれ本当に転覆させられてしまうかもしれません。
そこで、幕府は考えを改め、4代将軍・家綱の代からは「改易」や「転封」の数が激減するのです。
そして、武力で統治するよりも、法制度や儀礼・道徳といった手段で統治していこうという流れが生まれ始めます。
つまり、徳川家光の死後、幕府は政治の方針転換をして、少し優しい政治になったのでした。
まとめ:徳川家光はその生涯で度々大病に罹患し、最後は脳卒中で亡くなった
徳川家光はとても病弱で、その生涯で度々大病に罹患していました。そして、最後には脳卒中で亡くなってしまいました。また、祖父である徳川家康をとても崇敬しており、自身の墓を徳川家康の墓の近くに建てさせています。
今回の内容をまとめると、
- 徳川家光は病弱で度々大病に罹患していた
- 徳川家光の死因は脳卒中
- 徳川家光は、徳川家康のことを崇敬しており、徳川家康について書かれたお守りを常に肌身離さず持っていた
- 徳川家光は、遺言で自身の墓を徳川家康の墓の近くに建てさせた
徳川家光は、病弱ながらも将軍になれたのは祖父のおかげだと感謝し、生涯家康のことを崇敬していました。そして、その証として家康が祀られている日光東照宮を、莫大な資金をかけて大規模改築しています。家光がこうして改築をしていなかったら、現在も有名な観光地として栄えていなかったかもしれませんね。