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徳川家光がしたことを簡単に解説!江戸幕府の基礎を築くために何をした?

徳川家光(1604(慶長9)〜1651(慶安4))は、江戸幕府の第3代将軍で、江戸幕府を開いた徳川家康の孫です。そんな徳川家光は、江戸幕府の基礎を築き上げたと言われていますが、具体的にどのようなことをしたのでしょうか?

この記事では、徳川家光のしたことを簡単に解説していきます。

徳川家光がしたこと【幕政編】

徳川家光が将軍になった当時、まだ実権は父である徳川秀忠が持ち続けていました。大御所である秀忠の方が影響力や発言力が上だったのです。

そのため、秀忠が亡くなるまでは、徳川家光は最高権力者ではなく、名ばかりの将軍で、積極的に政治に関わろうとしませんでした。

しかし、徳川秀忠の死後、徳川家光は江戸幕府の基礎とも言えるような政策を次々に行っていきます。どのようなことをしたのでしょうか?ここでは、家光の幕政においてしたことを簡単に解説していきます。

【徳川家光が幕政で主にしたこと】

  • 幕府機構を確立した
  • 大名支配の強化
  • 参勤交代の制度化
  • キリスト教の弾圧、鎖国の完成
  • 田畑永代売買禁止令

幕府機構を確立した

徳川家光は、まず幕府機構の確立に着手しました。

父・秀忠との二元政治時代は、秀忠や家光の側近が幕政を行うといったように、役職がとても曖昧でした。

徳川家光は、その職務や職権などを明確に制度化したのです。

家光が決めた役職は以下のとおりです。

・老中(ろうじゅう)

老中は、2万5千石の譜代大名のみが就任することができる、幕府の役職の中では最高職にあたります。そして、将軍に直属しており、政務全般を統括します。

なお、家禄が要件を満たさなくても、優秀な人材であれば、老中格(老中に準ずる資格で政務に参与することができる)に就くことができました。

・若年寄(わかどしより)

若年寄は、幕府の役職の中では老中の次に高い役職で、少録の譜代大名から選ばれました。職務としては、全国の旗本や御家人の指揮を担当していました。

・奉行(ぶぎょう)

奉行は、旗本から任命され、老中の支配を受けました。また、職務によって様々な奉行職が設置されました。(道中奉行、普請奉行、遠国奉行、作事奉行など)その中でも、町奉行・寺社奉行・勘定奉行は「3奉行」と呼ばれ、評定所の構成員となっていました。

・大目付(おおめつけ)

大目付は、旗本が任命されました。職務としては、全国の大名、政務全般を観察することを担当していました。

・評定所(ひょうじょうしょ)

評定所は、幕府の最高司法機関でした。老中・町奉行・寺社奉行・勘定奉行で構成されます。後に、側用人や大目付なども加わりました。

このように、徳川家光は、将軍を頂点とする幕府機構を確立したのでした。

諸大名の改易・転封を行い、大名支配の強化をした

徳川家光は、将軍のさらなる支配強化を目指し、諸大名の改易や転封も積極的に行いました。

その代表的なところで言うと、肥後の加藤忠広が挙げられます。

加藤家は、忠宏の父・加藤清正がカリスマ的な存在感で藩内をまとめていましたが、その弊害で藩内の政治機構が不整備のままとなっていました。

そのため、清正が亡くなると、藩内はまとまらなくなり、幕府から2回も裁定を受けることになるのです。

しかし、それ以降も全く藩内がまとまることがなく、徳川家光は加藤家を改易処分としました。

このように、全国的に改易を行い、取り上げた領地の大部分は、徳川一門や譜代大名に与えられました。その結果、徳川家の大名支配がさらに強化されたのです。

【徳川家光に改易処分を受けた主な大名】

  • ・加藤忠広
  • ・徳川忠長
  • ・竹中重義

参勤交代の制度化をした

徳川家光は、徹底した主従関係構築のために、武家諸法度を改訂し、大名に対して参勤交代を義務付けました。

参勤交代とは、江戸とそれぞれの領地を1年交代で過ごすことです。

そして、正室と嫡子は江戸に常住しなくてはなりませんでした。

参勤交代の目的は主に3つです。

  • それぞれの領地と江戸を往復させることによって出費を強要し、財政を圧迫させ、必要以上に力をつけさせないようにすること
  • 嫡子を江戸に常住させることによって、幕府に対して精神的な結びつきを持つようにさせること
  • 諸大名が謀反を起こさないように、正室と嫡子を人質としてとっておくこと

参勤交代自体は、徳川家康の時代からあったのですが、その時はこれほどまでに厳格なものではなく、諸大名が自発的に行っているものがほとんどでした。

それをきちんと制度化することによって、徳川家光は大名支配強化を図ったのです。

キリスト教を弾圧し、鎖国を完成させた

徳川家光は、家康・秀忠がしてきたように、さらなるキリスト教の弾圧をしていき、ついに鎖国を完成させました。

鎖国をした目的は以下のとおりです。

  • 当時外交をしていたスペインやポルトガルは、世界各地に植民地を作っており、貿易を足がかりとして日本も植民地にされる危険性があるため、それを防ぐこと
  • キリスト教の神の前ではみな平等という精神は、主従関係を重視する封建制度と相容れなかったため、それが広がるのを防ぐこと

徳川家光は、鎖国をして、長崎の出島以外では外国との貿易を禁止しました。

また、貿易国も、オランダ・明・朝鮮の3カ国に限定し、日本人が海外に行くことも禁止しています。

これにより、幕府は外国の植民地にされるリスクを減らすことができ、さらに思想の統制の強化もしていきました。

田畑永代売買禁止令を出した

1641年〜1642年に、寛永の飢饉が起こります。

これによって、困窮した農民たちは次々に自分の田畑を売りにだす必要に迫られました。こうして、貧しい農民はますます貧しくなり、裕福な農民はより裕福になるという、農民間の経済格差が加速していったのです。

この状況を打破するために、徳川家光は田畑永代売買禁止令を制定して、田畑の売買を禁止しました。

こうすることにより、農民間の広がる経済格差を止め、一揆の増大や治安悪化の防止に成功しました。

徳川家光がしたこと【家族編】

幕政においては、幕府の基礎を築くという偉大な貢献をした徳川家光でしたが、その家族には、見る人によってはひどいと感じるようなことをしていました。

一体何をしてしまったのでしょうか?ここでは、徳川家光が家族に対してしたことを簡単に解説していきます。

徳川家康を崇敬しすぎたあまり、幕府の財政破綻のきっかけを作った

徳川家光は、祖父である徳川家康のことを大変崇敬していました。その理由としては、

  • 3歳のときに罹った大病が、徳川家康の薬のおかげで回復したこと
  • 体調の悪い時に、夢枕に徳川家康が立つと翌朝にはすっかりと回復していたこと
  • 両親が弟の忠長を贔屓していたのに対し、徳川家康が口添えしてくれたおかげで将軍になれたこと

以上のことなどが挙げられます。

そのため、家康が祀られている日光東照宮を生涯で10回も訪れていたり、莫大な資金を投入して日光東照宮の大規模改築を行ったりしています。

また、徳川家光は死ぬときまで肌身離さずお守りを持っていたと言われています。

そのお守りには、

「二世ごんげん(権現)、二世将軍」

「生きるも 死ぬるも 何事もみな 大権現様次第に」

このように書かれた紙が入っていたそうです。

ここで言う権現とは、東照大権現のことを指しており、つまり家光の祖父である徳川家康の神号を指しています。

さらに、徳川家光は遺言で、

「私が死んだ後も魂は徳川家康の祭られている日光山にまいりて、仕えまつらんと願うゆえに、遺骸を慈眼堂のかたわらに葬るように」

と家臣に命じました。

崇敬する家康の近くに埋葬してくれと頼んだわけですね。

こうして、家光の遺骸は東叡山寛永寺に移された後で、日光の輪王寺に葬られました。

また、この時、家光は自分の廟所は仏式で、荘厳は決して東照宮のそれを超えないようにと厳しく命じたと言われています。

このように、家光は生涯家康に感謝しながら、家康のためにと様々なことに幕府の資金を投入してきました。

その結果、幕府の財政は逼迫することになってしまうのです。

この家光の後先考えない行動は、幕府の財政破綻のきっかけとなったとも言われています。

弟の徳川忠長を処分した

徳川家光の弟である徳川忠長は、両親から溺愛されており、利発だったので、次期将軍になるのではないかと考える家臣や大名は多くいました。

しかし、家康の一声で次期将軍は家光で確定し、忠長は元服する前に甲府藩主となりました。
ここだけ見たら、何も問題はなかったかのように思いますが、ここから問題が起きます。

忠長は、徳川家光が3代将軍に就任すると、次第に言動が横柄になっていき、問題行動が目立つようになりました。

駿府を拝領した際には、父・秀忠に

「100万石をくれるか、大坂城主にしてほしい」

という嘆願書を送るなどして、秀忠からも呆れられる始末です。

この問題行動は、忠長を溺愛していた母・江が亡くなると、さらにエスカレートしていきます。

家康が元服した浅間神社で「猿狩り」を行ったり、自分が乗っていた駕籠の担ぎ手を取るに足らない理由で殺害したりしていました。

家光は、弟ということで、これらの問題行動の数々を大目に見ていました。

しかし、決定的なことが起こります。

忠長は、こともあろうことか、大事な家臣を
「火を焚けと命じたのに火をつけられなかったから」
という理由のみで殺してしまうのです。

これには、さすがの家光も看過できず、忠長に甲府蟄居を命じました。

なお、この際、秀忠は激怒し、忠長を勘当、その処分を家光に任せています。

家光は、秀忠の存命中は気を使って、秀忠に蟄居以上の処罰は与えませんでした。

しかし、秀忠の死後は、すぐに改易し、幕命により自刃させたと言われています。

家光のこの判断は、

「身内であろうと何か問題を起こしたら処罰をきちんと下す」

という、ある種、見せしめのような意味合いもあったのかもしれません。

正室の鷹司孝子を冷遇していた

徳川家光の正室は、関白・鷹司信房の娘である鷹司孝子でした。

この当時、幕府と朝廷の関係はとても険悪で、それを少しでも緩和するためにとの、いわゆる政略結婚だったのです。

しかし、徳川家光は男色で女嫌いだったことや、公家自体を嫌っていたことなどから、孝子を冷遇します。

結婚後、孝子は御台所でありながら大奥を追い出され、江戸城内の中の丸で軟禁のような生活を強いられるのです。

それに加えて、その後御台所の称号を剥奪され、「中の丸様」と呼ばれるようになってしまいます。

また、徳川家光は孝子に先立って死去するのですが、孝子にはわずか50両しか相続されませんでした。

さらに、当時の風習として、正室に子がいない場合は、側室の子を正室の子として扱うのが普通でしたが、家光はそれも拒否しており、孝子は後に将軍となる家綱、綱吉との養子縁組はされませんでした。

ここまで冷遇され続けた孝子でしたが、家光の死後は出家し、家光の菩提を弔う日々を送ったと言われています。

孝子にとって、唯一の救いだったのは、家綱が孝子のことを母親のように慕ってくれていたことでしょう。徳川家綱は、実母に次ぐ扱いで孝子のことを厚遇したそうです。

孝子が何を思っていたのかはわかりませんが、彼女がこの冷遇を耐え忍んだことで、幕府と朝廷の関係改善に一役買ったのは間違いありません。

徳川家光の功績に対する評価は?

徳川家光は、それまで曖昧だった幕府の職務や職権を規定したことで、幕府内の職制を整備しました。それが、将軍を頂点とする幕府組織の基盤を作ったとして評価されています。

また、参勤交代の制度化などを通して、諸大名の支配強化を行ったことで、幕府による不安定だった全国支配を盤石なものにしました。

その点で、幕府が約260年も続いたのは、家光のおかげとも言えるでしょう。

しかし、鎖国を完成させたのには一長一短あります。

鎖国をしたことによって、日本は諸外国に植民地化されることへの予防や、独自の文化を確立できました。

その一方で、海外の進んだ技術・科学・医療・文化を取り入れることができなくなり、あらゆる分野で諸外国に遅れをとってしまいました。その遅れは、後に明治初期の辺りでつけを払わされることになります。

そして、家光は家康を崇敬するあまり、日光東照宮の改築工事を何度も行いました。

その出費が幕府の財政破綻のきっかけを作ったとも言われています。

このように、多少のマイナス評価もありますが、家光は幕藩体制を確立させたとして評価されています。

まとめ:徳川家光は幕府機構の確立や参勤交代などを行い、江戸幕府の基礎を築いた

徳川家光は、幕府機構の確立や参勤交代の制度化などを通して、それまで不安定だった幕府による全国支配を盤石なものにしました。つまり、幕藩体制を確立したのです。しかし、その一方で、幕府の財政破綻のきっかけを作ってしまうなどの、先のことを考えない行動もしていました。

今回の内容をまとめると、

  • 徳川家光はそれまで曖昧だった幕府の職務や職権を規定して、幕府内の職制を整備した
  • 徳川家光は、参勤交代や、改易、転封を行うなどして、全国の諸大名の支配強化をした
  • 徳川家光は、キリスト教の弾圧をして、鎖国を完成させた
  • 徳川家光は、日光東照宮の度重なる大改築の出費で、幕府の財政破綻のきっかけを作った

幕府の財政を傾けるまで出費を惜しまなかったところを見ると、徳川家光がいかに徳川家康のことを崇敬していたのかが伺えます。
江戸幕府の基盤を作った人物が、幕府衰退のきっかけを作っていたというのは、なかなか皮肉なものですね。

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