板垣退助はお札になっていた?選ばれた理由は何?発行されていた期間は?
板垣退助(1837(天保8)〜1919(大正8))は、明治維新の元勲で、自由民権運動の指導者として活躍しました。東アジアで初となる帝国議会を樹立し、「国会を創った男」としても知られています。
そんな板垣退助は、お札の肖像として選ばれていました。
なぜ板垣退助はお札に選ばれることになったのでしょうか?
この記事では、板垣退助のお札について簡単に解説していきます。
目次
板垣退助のお札は百円札
板垣退助がお札になっていたのは、百円札というお札でした。
今ではほとんど見ることのないお札ですが、どのようなお札だったのでしょうか?
ここでは、板垣退助の百円札について簡単に解説していきます。
板垣退助のお札はいつからいつまで発行されていた?
板垣退助の百円札は、1953年(昭和28年)12月 1日から、1974年(昭和49年)8月1日の間に発行されていた紙幣です。
現在は、すでに発行自体は停止されていますが、法律上は現在でもお金として使用できる「現行紙幣」となっています。
この百円札は、表面に板垣退助の肖像が描かれており、裏面には国会議事堂が描かれていました。
自由民権運動に注力していた退助だからこそのデザインだったのでしょう。
板垣退助の百円札は3種類あった?
板垣退助の百円札は、3種類存在していました。
発行時期によって、「最初期」「前期」「後期」と分けることができるのです。
見分け方としては、主にお札に記載された記番号(お札に印刷されているアルファベットと数字の組み合わせのこと)を確認します。
先頭のアルファベット1桁なら最初期、先頭のアルファベット2桁で紙幣の色が茶褐色なら前期、それが全体的に白っぽい色なら後期となります。
板垣退助はなぜお札に選ばれた?
なぜ板垣退助が百円札の肖像として採用されたのでしょうか?
それには、理由がいくつかありました。
ここでは、板垣退助がお札に選ばれた理由について簡単に解説していきます。
お札の選定基準は?
お札には大きく2つの選定基準が存在します。
- 日本国民が世界に誇れる人物で、教科書に載っているなど、一般によく知られていること
- 偽造防止の目的から、なるべく精密な人物像の写真や絵画を入手できる人物であること
つまり、一般的によく知られていて、顔立ちに特徴のある人が選ばれるわけです。
現在までにお札の肖像になった人物は、板垣退助含めて全部で17人います。
どの人物も、有名で顔に特徴のある人達ばかりです。
- 神功皇后
- 岩倉具視
- 板垣退助
- 高橋是清
- 菅原道真
- 伊藤博文
- 和気清麻呂
- 福沢諭吉
- 武内宿禰
- 新渡戸稲造
- 藤原鎌足
- 夏目漱石
- 聖徳太子
- 野口英世
- 日本武尊
- 樋口一葉
- 二宮尊徳
また、ここに2024年度を目処に、新しいお札が発行され、肖像になる人物も新たに3人
増える予定となっています。
- 渋沢栄一
- 津田梅子
- 北里柴三郎
板垣退助はお札の選定基準を満たしていた?
板垣退助はそのお札の選定基準を満たしていたのでしょうか?
まず、見た目に関してですが、板垣退助の顔の特徴といえば、なんといってもひげです。
顎の下に二方向に分かれる大きなひげは、なかなか他の人にはないものです。
さらに、自由党を創ったり、国会を開設したりと、国民への認知度も十分にありました。
そのため、見た目は十分に選定基準をクリアしていると言っていいでしょう。
また、世界に誇れるような功績があったかどうかという点ですが、そこに関しては何が評価されたのかははっきりと判明していません。
しかし、評価されたのはおそらく退助が生涯取り組んでいた自由民権運動でしょう。
板垣退助は、欧州を視察し、その仕組みなどを日本にも取り入れようとしました。
そして、国内には国会の開設を求め、国外へは不平等条約の撤廃等を求めました。
板垣退助が、今の政治の根本の部分を作ったと言っても過言ではないのです。
世界の先進国に追いつけるように、日本を変えていった、それほどのすごいことをやり遂げた人物ですから、十分世界に誇れる人物だと言えます。
以上の観点から、板垣退助はお札の選定基準を満たしていたと言えるでしょう。
百円札には他にも種類があった?
板垣退助が採用されていた百円札ですが、実は板垣退助の他にも種類がありました。
百円札自体は、1872年から1974年までの間に発行されてきた紙幣でした。
その間、発行された百円札は合計11種類存在します。
- 明治通宝百円券:1872年〜1899年
- 旧百円券(大黒札):1885年〜1939年
- 改造百円札(メガネ百円、メガネ鎌足):1891年〜1939年
- 甲号券百円札(紫百円、裏紫百円):1900年〜1939年
- 乙号券百円札(聖徳太子一次百円札):1930年〜1946年
- い号券百円札(聖徳太子二次百円札):1944年〜1946年
- ろ号券百円札(聖徳太子三次百円札):1945年〜1946年
- A号券百円札(聖徳太子四次百円札):1946年〜1956年
- 【最初期】B号券百円札(板垣退助百円札):1953年〜1974年
- 【前期】B号券百円札(板垣退助百円札):1953年〜1974年
- 【後期】B号券百円札(板垣退助百円札):1953年〜1974年
このうちのA号券とB号券は現在でも使用可能となっています。百円札には、板垣退助の他に、大黒天や藤原鎌足、聖徳太子の紙幣があったのです。
まとめ:板垣退助は自由民権運動の功績によりお札に選ばれた
板垣退助は、日本を世界と対抗できるような先進国にするために、現代の日本の政治環境の根本をしっかりと創り上げた人物でした。
その板垣退助が注力してきた自由民権運動は世界に誇れるようなものであり、その功績からお札の肖像に選ばれたのでしょう。
今回の内容をまとめると、
- 板垣退助は百円札の肖像に選ばれていた
- 板垣退助の百円札は3種類存在していた
- 板垣退助は、その特徴的な顔立ちと、世界に誇れる功績によってお札に選ばれた
今現在を生きる私達が、国会議員を選挙で選び、自分たちの意志を政治に反映できるようになったのは、ひとえに退助のおかげと言っても過言ではないでしょう。
それを認識できる百円札が、今はほとんど見られなくなってしまったのは残念なところですが、見かけることがあれば、板垣退助の功績について今一度考えてみるのもいいかもしれません。