伊藤博文は大の女好きだった!?天皇にも注意された、異常なエピソードをご紹介
伊藤博文1841年10月16日(天保12年9月2日)〜 1909年(明治42年10月26日)は、明治時代に4度にわたり、内閣制度発足以降の内閣総理大臣を務めた人物です。
初代内閣総理大臣となり、その後も何度も総理大臣となった伊藤博文は、実は、大の女好きであったと言われています。その女好きは、天皇にも注意をされたほどの異常なものです。
今回は、伊藤博文の女好きに関するエピソードをご紹介していきます。
目次
伊藤博文は大の女好きだった
日本の初代内閣総理大臣の伊藤博文は、大の女好きでした。
その伊藤博文の異常なまでの女好きは、当時のマスコミでも大きく取り上げられ、彼の派手な女性関係をさかんに書きたて、1902年には『恋の伊藤博文』という本も出版され、女遊びにまつわるエピソードが多数掲載されていています。
その度が過ぎる女遊びは天皇陛下からも注意を受けるほどで、人妻であろうと戦時中だろうと、構わず女遊びを繰り返していたそうです。
そんな伊藤博文の女好きのエピソードの中から、いくつか紹介していきます。
【伊藤博文の女好きエピソード】
- 伊藤博文の女好きを現した呼び名は「ほうき」
- 伊藤博文の女好きは、奥さん泣かせ
- 伊藤博文は、女好きすぎて離婚した?
- 伊藤博文を支えた妻 梅子の苦労は?
伊藤博文の女好きを現した呼び名は「ほうき」
女好きで知られた伊藤博文のあだ名は「ほうき」。
「掃いて捨てるほど女がいる」という意味です。
なんでも、「自分は金もいらなければ家もいらない。ただ女遊びが出来れば良いのだ。」とか、
「千人の女性と関係を持ったことがある」と、豪語していたとか。
そんな伊藤博文にも、生涯を共にする妻がいました。
しかし、その妻との出会いもまた女好きな伊藤博文らしいエピソードが沢山残っています。
伊藤博文の女好きは、奥さん泣かせ
伊藤博文はプライベートでも波乱万丈で、生涯で2度結婚をしています。
1863年(文久3年)に入江すみ子と結婚。
すみ子は松下村塾の先輩で秀才としても知られている入江九一の妹です。
しかし、1866年(慶応2年)に二人は離婚。離婚の原因は伊藤博文の浮気だったようです。
伊藤博文は、すみ子と離婚後、小梅と名乗っていた芸者 梅子と再婚をしています。
梅子との再婚後も相変わらず女遊びをやめることがなかった伊藤博文ですが、奥さん泣かせではあったが、夫婦仲は決して悪くなかったといいます。
伊藤博文は、女好きすぎて離婚した?
伊藤博文は、最初の妻である「すみ子」との結婚後も女遊びはやめられず、ますますエスカレートしていったようです。
ついには小梅という芸者との間に子供ができ、そのことが原因ですみ子とは離婚。
その後、この芸者と再婚しました。
伊藤博文と離婚から2年後、すみ子も長州藩主の長岡義之と再婚しましたが、その時の仲人が前夫の伊藤博文だったようです。
再婚するときの仲人が元夫って、、なんとも不思議な感じですよね。。。
伊藤博文を支えた妻 梅子の苦労は
2度目の妻となる梅子は、芸妓となって「小梅」を名乗っていた1864年(元治元年)頃、イギリスからの帰国間もない伊藤博文と出会います。
出会った当初、伊藤博文は最初の結婚をしており、梅子との間に子供ができたことから、最初の妻と離婚後、梅子と再婚をしたそうです。
伊藤博文と梅子の間には二男四女がおり、さらには養子も一人とっています。
夫婦仲も決して悪くなかったようですが、伊藤博文の女遊びは相変わらずだったようです。
そんな伊藤博文を、妻の梅子は文句も言わずに献身的に支えたといいます。
七人の子供のうち、長女と次女だけが梅子との実子であり、長男と次男、三女と四女はそれぞれ女中や芸者、庶子との間に生まれた子であり、梅子は彼らを立派に育てあげました。
特に女中との間に生まれた長男の伊藤文吉は、内閣総理大臣秘書官、外務書記官、貴族院議員などを歴任し、また日本鉱業(株式会社ジャパンエナジーの前身)の社長も務めました。
また、梅子は伊藤博文が身請けした13歳の芸者・小雄の世話までしていたといいます。
梅子はまさに、良妻賢母で伊藤博文を支え続けた女性です。
伊藤博文が家に芸者を連れ込んだ際には、芸者たちを丁寧にもてなし、さらには手土産に反物まで持たせていたというエピソードも残っています。
しかし、そんな梅子も結婚当初、伊藤博文の女遊びに激怒したことがあったそうです。
それは1868年(明治元年)伊藤博文が兵庫県知事に就任した時のこと。
なんと、その時に福原遊郭料理屋兼宿泊業を営む千崎弥五兵の娘 お仲に手を出し、頻繁に通うようになったといいます。その事実に梅子が気が付き大激怒。
というのも、この年に次女の生子が生まれており、伊藤博文はしばらくお仲との関係を断っていました。
梅子に激怒され、しばらくはおとなしくしていた伊藤博文ですが、やがて関係は元通りに。
梅子は井上馨に頼み込み、お仲を兵庫県の巡査と結婚させたといいます。
そんな梅子も苦労も知らず、女遊びをやめることはありませんでした。
結婚当初は読み書きすらまともにできなかった梅子でしたが、伊藤博文が内務省長官に任命されるようになると、文字の読み書きや英語、社交ダンスや和歌などを必死で覚え、自宅を訪問する外国人をもてなしたと言います。
総理大臣になった際には、首相官邸の舞踏会で流暢な英語を披露し、和歌も皇后とやり取りするくらいの腕前だったと言われ、聡明で努力家の女性であったようです。
1909年(明治42年)10月26日、伊藤博文が暗殺された時、梅子は
「国のため 光をそえてゆきましし 君とし思へど かなしかりけり」
と詠み、一切涙を見せることなく、最後まで愛する夫を敬ったといいます。
伊藤博文の女好きがわかるエピソードごご紹介
1902年に出版された「恋の伊藤博文」という本の中で、伊藤博文の異常なまでの女好きエピソードが紹介されています。
- イギリス留学中、女遊びにお金を使いすぎ、帰国させられそうになった
- 高熱でうなされている時に芸者を寝かせていた
- 日清戦争の講和の途中、清国の代表 李鴻章が狙撃されたと報告を受けた時も芸者と過ごしていた
など、エピソードには事欠きませんが、首相を務めるほどの大物政治家が、公然と芸者を連れて遊び歩くなど、留学中だろうと戦時中だろうと、不倫だろうと、平然と女遊びを繰り返していたといいます。
伊藤博文は女好きは、イギリスでも顕在
伊藤博文の女遊びは日本国内だけではとどまりません。
伊藤博文の女好きは、1863年(元治元年)、伊藤博文が長州藩士として、イギリスに留学した時でも健在だったといいます。
この時、伊藤博文に与えられた役目が、イギリスの人情風俗や文明の程度を調査することで、ほかの留学生にくらべて資金を多く与えられたといわれています。
当時の攘夷運動の志士たちのあいだでは女遊びは盛んに行われていたようで、伊藤博文もその資金をもって現地の色町(風俗街のようなもの)に入り浸っていたと言います。
ところが、伊藤博文の金遣いがあまりに度が過ぎたため、他の留学生のあいだでも問題になり、帰国させるべきであるという声が上がりました。
しかし、井上馨らが仲介に入ってくれたことにより、事なきを得たと言われています。
伊藤博文の女好きは、若い頃から健在だったんですね。
伊藤博文は芸者と結婚した
伊藤博文は、二度目の結婚で芸者だった梅子と結婚しています。
梅子と出会った当初、伊藤博文は前妻がいましたが、梅子との間に子供ができたのをきっかけとして、前妻と離婚し梅子と再婚しました。
長門国(山口県)で生まれた梅子は芸子「小梅」という名で、亀山八幡宮の茶屋で働いていました。
当時、滅亡の危機に直面していた長州藩は、幕府の命令に従おうとする「俗論派」と勅い攘夷主張の「正義派」が対立。
留学の経験があり「開国論者」であった伊藤博文は、どちらの派閥にも加わらず、両者の意見に反対の立場を示していました。
そんな中伊藤博文は、正義派の井上闇多が俗論派の襲撃にあったことを知り、命の危険を感じるようになりました。
行方をくらますことを考え、その時に逃げ込んだのが梅子が働く亀山八幡宮でした。
伊藤博文は、自分をかくまってくれた梅子の美しさにすっかり惚れ込んでしまい、妻がいる身にもかかわらず不倫関係に。そうして、梅子は伊藤博文との子を宿したのです。
梅子が父親の借金のかたとして身売りされることを知った伊藤博文は、梅子を身請けするために、妻と離婚をし梅子と再婚をしました。
身売りされるのを知って、結婚したという話だけをピックアップすると、すごく素敵な話ですね。
伊藤博文は結婚後も、芸者遊びをやめられなかった
伊藤博文の唯一の楽しみは、忙しい公務の後に贅沢に芸者遊びをすることでした。
そのため、子供にお金を残したり、豪邸に住んだり、高価な骨董品などを買い集めたりなど、そんなことには一切興味がなく、芸者遊びのために派手にお金を使っていたようです。
元芸者だった梅子との結婚後も、伊藤博文の芸者遊びは相変わらずでしたが、どんなに女遊びをしようと、梅子はそれを咎めることはありませんでした。
伊藤博文が家に芸者を連れ込んだ際には、芸者たちを丁寧にもてなし、さらには手土産に反物まで持たせていました。
社交の席で必要な専門的な知識と教養を備え持っていた梅子は、伊藤博文は絶大な信頼を寄せていました。
女好きで、どんなに女遊びを繰り返しても、生涯梅子と離婚することはありませんでした。
伊藤博文は人妻でも気にしない
「自分は金もいらなければ家もいらない。ただ女遊びが出来れば良いのだ。」
という名言まで残した人物です。
しかし、伊藤博文の女好きは芸者遊びだけではとどまりませんでした。
伊藤博文が手を出した女性の中には、岩倉具視の娘である戸田極子もいました。
岩倉具視と言えば、岩倉使節団のメンバーとして1871年(明治4)11月から1873年9月にかけて、約1年10か月、共に米欧12か国を歴訪した人物です。
戸田極子は、旧大垣藩主の戸田氏共伯爵に嫁いでいた”人妻”です。
古くからの友人であった井上馨によって鹿鳴館外交パーティーが行われ、伊藤博文も参加。
この時、博文は明治維新の功労者である岩倉具視の三女である戸田極子に惚れ込み、すでに既婚者であるにも関わらず極子を誘い出し、関係を結ぼうとします。
しかし、そのことがマスコミにばれていしまい、伊藤博文は総理を辞職する羽目となってしまいました。
騒動直後に極子の夫 戸田氏共伯爵が異例の大出世を果たしたことから、伊藤博文が権力を使って問題を沈静化したのではないかと問題視されたようですが、真相は不明です。
伊藤博文は、日中戦争中も芸者遊びをしていた
日清戦争は、1894年(明治27年)7月25日から1895年(明治28年)4月17日にかけて日本と清国の間で争われました。
李氏朝鮮の地位確認と朝鮮半島の権益を巡る争いが原因となって引き起こされ、日清講和条約(下関条約)の調印によって、日本側の勝利で終結した戦争です。
この戦争時、伊藤博文は首相という立場にありながらも、女遊びを繰り返していたと言われています。
当時、なるべく清に近く、鉄道が通っていた広島県に滞在していた伊藤博文は、現地の芸者と遊びまわっていたそうです。
そして、日清戦争の講和の途中、清国の代表・李鴻章が狙撃されたと報告を受けた時も芸者と過ごしていました。
歴史的に大きな出来事のさなかであっても、伊藤博文の女好きは変わらなかったようです。
しかし、芸者といる総理に報告した人も、微妙な空気感だったでしょうね。
伊藤博文の女好きは、天皇に注意されても止まらなかった
一国の首相という立場にありながも、スキャンダルなど気にもせず公然と女遊びを繰り返していた伊藤博文。
伊藤博文のあまりにも酷い女遊びは、当時の天皇陛下(明治天皇)の耳にも入りました。
天皇陛下から「少しおとなしくしてはどうか!!」とお咎めを受けます。
そこで少しはおとなしくなるかと思いきや、伊藤博文は天皇陛下にこう言い放ちます。
「隠れてこそこそ女遊びをしている連中もいるが、私は堂々と女遊びをしているだけです」
堂々と女遊びをしているのだから、問題ないだろうという開き直り発言で天皇に物申したのです。
陰でこそこそするのはあまり推奨しませんが、妻子のいる身で、しかも総理大臣が堂々と女遊びをしていると公言するなんて、今では考えられないことですね。
まとめ:伊藤博文の女好きは、現代であれば大スキャンダルになるほどだった
伊藤博文の女好きは、一種の病気だったのかもしれませんね。
現代にこんな首相がいたら、大スキャンダルになるくらいの問題行為です。
しかも、開き直って天皇に物申すとは本当に驚きです。
今回の内容をまとめると
- 伊藤博文は最初の妻とは芸者遊びが原因で離婚していた
- 芸者遊びで知り合った二度目の妻との間に子供ができ、身請けを理由に前妻と離婚し再婚した
- 伊藤博文の女好きは日清戦争のさなかだろうが、留学中だろうが人妻だろうがおかまいなしだった
- 女遊びの度が過ぎて、明治天皇からお叱りを受けるが、堂々と開き直る発言をした
- 妻 梅子は、伊藤博布の女遊びを一切咎めることはせず、生涯にわたって伊藤博文を支え続けた
自由奔放な伊藤博文を一切咎めることなく、自身は首相の妻としてふさしくなるための努力を一切惜しまず、生涯にわたって伊藤博文を支え続けた妻 梅子。
そこまでして、夫を支え続けたということも驚きですね。