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岩倉使節団の目的は?メンバーは誰がいた?結果は?日本に与えた影響は?

岩倉使節団は、1871年(明治4年)〜1873年(明治6年)の約2年間に渡り、明治政府が派遣した遣欧米使節団です。

岩倉具視を全権とし、政府首脳陣や留学生などを含む総勢107名で構成されていました。

岩倉使節団は何故、欧米に派遣されたのでしょうか?

この記事では、岩倉使節団の目的やメンバー、日本に与えた影響などを簡単に解説していきます。

岩倉使節団の目的は何?

岩倉使節団は、1871年から約2年に渡り、諸外国を訪問しました。
それでは、何の目的があって欧米各国を訪問していたのでしょうか?
ここでは、岩倉使節団の目的を簡単に解説していきます。

岩倉使節団とは?

岩倉使節団とは、1871年(明治4年)から1873年(明治6年)にかけて、明治政府が派遣した遣欧米使節団です。岩倉具視が大使だったことから、「岩倉使節団」と呼ばれています。

岩倉使節団が訪れた国は、全部で12カ国(アメリカ、イギリス、フランス、ベルギー、オランダ、ドイツ、ロシア、デンマーク、スウェーデン、イタリア、オーストリア、スイス)でした。

岩倉使節団の行程は?

【岩倉使節団の行程表】

  • ・1871年12月23日
    岩倉使節団、出国
  • 1872年2月15日
    アメリカのサンフランシスコに到着
  • 1872年3月11日
    ワシントンでアメリカと条約改正交渉開始
  • 1872年7月22日
    アメリカとの交渉打ち切り
  • 1872年8月17日
    ロンドンに到着
    イギリス、フランス、オランダ、ベルギーを経てドイツへ
  • 1873年3月9日
    ベルリンに到着
  • 1873年3月15日
    ドイツの宰相・ビスマルクと食事
    ロシア、デンマーク、スウェーデン、イタリア、オーストリア、スイスを経て日本へ
  • 1873年9月6日
    途中、東南アジアの植民地にも立ち寄り帰国(長崎着)

岩倉使節団の目的は主に3つあった?

岩倉使節団の目的は主に3つありました。

1.条約締結国を歴訪した際、各国の元首に天皇の国書を奉呈し、聘問の礼をとること

2.条約改正協議期限間近のため、その延期も含めて改正打診の予備交渉を行うこと

3.欧米諸国の制度・産業・文化の調査・研究を行うこと

以上の3つの中で、最も重要とされていたのが、2つ目の条約改正予備交渉でした。

江戸幕府は、諸外国と不平等条約を結んでおり、明治政府がそれを引き継いだ形になっていました。

明治維新後、明治政府はそれらを改正するために交渉をしてみたのですが、どの国からも同意を得られることはありませんでした。

しかし、日米修好通商条約13条では、「1872年7月4日以降、必要に応じて条約の内容を見直す」という取り決めがありました。

それは、ヨーロッパ各国との条約でも同様です。

そこで、明治政府は1872年7月4日以降にすみやかに条約を改正するために、使節団を派遣し、事前に明治政府の意向を打診し、予備交渉を行うことにしたのでした。

また、そうすることによって、欧米諸国と対等な関係を築き、国際社会の中で日本の存在感を示そうともしていたのです。

岩倉使節団は条約の改正に失敗した?

岩倉使節団は、まずアメリカとの条約改正交渉を始めます。

しかし、そこでまず、アメリカの国務長官から全権委任状の不備を指摘されます。

アメリカからすれば、本当に日本の代表かどうかわからないのですから、当然のことと言えば当然のことですよね。

そのため、大久保利通と伊藤博文は一時帰国し、天皇から委任状をもらう必要がありました。

このため、一時帰国しアメリカに再び戻ってくるまでの間は、約4ヶ月もかかり、岩倉使節団は思わぬところで足止めを食らうのです。

さらに、この際アメリカは不平等条約を改正するどころか、それを拡大する案を日本に提示してきていました。つまり、日本は完全に舐められていたわけです。

しかし、アメリカからの歓迎ムードに流された上、西洋通の伊藤博文らから勧められ、岩倉具視はこの提案を受け入れようとします。

「アメリカ人が日本で行動しやすくなれば、日本の文明開化もより加速するだろう。ましてや、こんなに歓迎してくれて仲良くなったアメリカが、日本に酷い改正内容を提示するわけがない」

と考えていたわけですね。

ここで、救世主が現れます。

駐日ドイツ公使・フォン・ブラントです。

フォン・ブラントは帰国途中にワシントンに寄り、使節団と面会し「片務的最恵国条項」の意味を伝えます。

この日本が諸外国との条約において取り決めていた「片務的最恵国条項」とは、「日本が条約締結国とのいずれか一国との間で、ある取り決めをしたら、それは他の国にも認められる」というものです。

つまり、アメリカに譲歩したならば、日本は他国にも同様の権利を求められることになるというわけです。

各国別個に判断できないことを知った使節団の面々は、アメリカとの改正の交渉を打ち切ることに決めます。

ちなみに、ヨーロッパ諸国からも、

「不平等条約を改正したいのであれば、自国の法律を国際法に沿った内容にしてからにしろ」

と突っぱねられてしまっています。

こうして、岩倉使節団の目的の1つである条約改正は失敗に終わるのです。

岩倉使節団のメンバーは誰がいた?

岩倉使節団は、岩倉具視を全権として総勢107名いました。

その中には、どのような人たちがいたのでしょうか?

ここでは、岩倉使節団のメンバーについて簡単に解説していきます。

岩倉使節団のメンバーはどのような構成だった?

岩倉使節団は、総勢107名いたと言われており、大きく3つのグループに分かれていました。

1.使節の本隊(大使、副使及び随員からなる24名)

2.各省派遣の理事官と随員(出発時で26名、現地参加組や後発隊を合わせると38名)

3.随行する留学生(官費、私費、お付きも含めた約60名)

大使には、岩倉具視、副使には木戸孝允や伊藤博文、大久保利通、山口尚芳が任命されています。

また、使節には薩長が中心で、書記官などには旧幕臣が選ばれていました。

岩倉使節団の中の有名な人物は?

岩倉使節団の中には、多くの留学生がいました。その中には、帰国後、政治・経済・科学・教育・文化など様々な分野で活躍し、日本の文明開化に大きく貢献した人物が多くいます。

その中でも、特に有名な人物を簡単に紹介していきます。

・津田梅子

岩倉使節団の中で最年少だったのが、津田梅子です。

参加当時、なんと6歳でした。そんな幼い津田梅子が岩倉使節団に参加することになったのは、父親・津田仙の影響がありました。

津田仙は、幕府の遣米使節の通訳として1867年にアメリカへと渡っていました。

その際に、アメリカの農業や男女平等の様子を目の当たりにしたのです。

この経験があったため、津田仙は、娘の梅子を渡米させることにしました。

津田梅子は、「開拓使派遣留学生」の一員として、約11年もの間アメリカに滞在します。

そして、日本とアメリカの女性の地位の差を思い知ったのです。

その後、津田梅子は日本の女性の地位向上や自立を追求し始めます。

「日本婦人米国奨学金制度」を設立したり、「女子英学塾」を創設したりし、日本人女性の活躍の第一歩を踏み出しました。

現在では、その功績が認められ、2024年に新しくなる日本銀行券の5千円の肖像に選ばれています。

・団琢磨

団琢磨は、14歳のときに、福岡藩主・黒田長知の随行員として岩倉使節団に参加しました。

渡米した団琢磨は、鉱山学を学び始めます。

日本にある鉱山資源を掘り起こして、日本を富ませたいという気持ちがあったようです。

帰国後は、工部省に入省し、准奏任官として三池鉱山局の技師となり、その後は三池鉱山が三井に買収されたのをきっかけに、団琢磨は三池炭鉱社事務長に任命されます。

そして、経営に成功した団琢磨は、そのまま三井財閥の総帥となりました。

団琢磨が在任中に、三井財閥はどんどん発展していき、新たに製鉄、製鋼、造船、化学肥料など様々な分野で産業を興し、日本の発展に貢献しました。

・金子堅太郎

金子堅太郎も、団琢磨同様、黒田長知の随行員として岩倉使節団に参加しました。アメリカ滞在中は、演説術に興味を持って勉強し、大学の討論会ではその演説の巧みさが評判となったくらいでした。

帰国後は、ハーバード大学のロースクールに通っていた知識を買われ、大日本帝国憲法の起草に参画します。その後、日本法律学校(現在の日本大学)の初代校長に就任するなどしました。

・中江兆民

中江兆民は、岩倉使節団の留学生として、1872年から約2年間フランスに滞在。

滞在中は、法律学、史学、哲学などを学ぶ傍ら、ヴォルテール、モンテスキュー、ルソーなどの著作に親しみ、自由民権思想の基礎を築きました。

帰国後は、急進的自由主義に立つ『東洋自由新聞』を創刊し主筆となり、自由民権論を唱えます。その後、フランスのルソーの社会契約・人民主権論を紹介したことから、「東洋のルソー」と評されるようになるなど、自由民権運動に理論的影響を与えました。

岩倉使節団の結果は?日本に与えた影響は?

岩倉使節団は、条約改正交渉が主な目的でしたが、結局それは失敗に終わってしまいました。

それでは、その結果、岩倉使節団は日本に何か影響を与えたのでしょうか?

ここでは、岩倉使節団が日本に与えた影響について簡単に解説していきます。

留守政府が様々な法律を制定した?

岩倉使節団には、岩倉具視や大久保利通など、明治政府の首脳陣が参加していました。

そのため、その間明治政府は日本に残った人たちで動かすこととなりました。

このときの政府のことは「留守政府」と呼ばれています。

留守政府は、大隈重信や西郷隆盛、井上馨などがその任に当たりました。

岩倉使節団は、留守にするに当たって、留守政府との間に約定を締結し、調印。

その内容とは、

「内地の事務は、岩倉たちが帰国後大いに改正するつもりであるから、特別は新しい改正はしない」

というものでした。

しかし、廃藩置県後の内治政務の統一を目的とした政策の実行は認められたことから、留守政府は様々な政策を実施していきます。

実施した政策は、学制、徴兵令、地租改正、司法制度、宗教政策、身分制改革など多岐にわたりました。そして、一気に様々な政策を実施したことにより、国内の社会不安は高まっていったのです。

日本の近代化を急速に進めた?

岩倉使節団が条約改正交渉に失敗した要因の1つとして、日本の近代化が遅れていたからということがありました。

さらに、諸外国を実際に訪問して回ることによって、いかに日本の文明が遅れているのかということを痛感するのです。日本も諸外国のように近代化しなければならないと岩倉たちは焦ります。

回った国の中で、岩倉たちが特に参考にしたのは、ドイツでした。

ドイツは、日本と非常に国体が似ていました。当時のドイツは国のトップに皇帝がいましたが、政治の全権は皇帝から任じられていた宰相が担うという仕組みでした。

新興国でありながら、日本と国体が似ており、そして、近隣のフランス・イギリス・ロシアといった強国と対等にやり合っている姿は、まさしく岩倉たちが求めていたものだったのです。

特に大久保利通と伊藤博文は、ドイツの宰相・ビスマルクに大変感銘を受けました。

大久保利通は、帰国後内務卿と参議を兼任し政府の指導者となり、自らとビスマルクを重ねていました。

伊藤博文は、ビスマルクを真似て葉巻を吸うようになり、周りから「日本のビスマルク」と呼ばれるくらいビスマルクを強く意識していたようです。

また、大日本帝国憲法もドイツの憲法を参考に制定されています。

このように、ドイツだけではなく、様々な国のいいところを盗みながら、日本は近代化を急速に進めていったのでした。

まとめ:岩倉使節団は日本の近代化を急速に進めるきっかけとなった

岩倉使節団は、江戸時代に結ばれた不平等条約の改正の予備交渉をすることが主な目的でした。

しかし、日本は近代化していなかったため、諸外国から舐められてしまい、条約改正することはできませんでした。しかし、その経験は、日本の近代化を急速に進めるきっかけとなりました。

今回の内容をまとめると、

  • 岩倉使節団は、1871年(明治4年)から1873年(明治6年)の約2年にかけて、明治政府が派遣した遣欧米使節団である
  • 岩倉使節団は、総勢107名だった
  • 岩倉使節団の主な目的は、不平等条約改正の予備交渉をすることだったが、日本が近代化していなかったため、改正交渉は失敗に終わる
  • 岩倉使節団が諸外国を訪問した経験は、日本の近代化を急速に進めるきっかけとなった

もし、片務的最恵国条項の意味を知らずに、そのままアメリカの提示する条件を飲んでいたら、多くの国から下に見られることとなり、今のような日本はなかったかもしれません。

そう考えると、そこで踏みとどまった岩倉使節団は、ファインプレーだったと言わざるを得ませんね。

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