岩倉具視は何した人?年表で簡単に解説!功績は?性格はどうだった?
岩倉具視(1825(文政8)〜1883(明治16))は、幕末から明治初期にかけて活躍した政治家です。「維新の十傑」の1人にも数えられており、欧米諸国を視察した「岩倉使節団」なども有名です。
¥そんな岩倉具視は、具体的に何をした人なのでしょうか?
この記事では、岩倉具視の年表を見ながら、その功績や性格などについて簡単に解説していきます。
目次
倉具視は何した人?
岩倉具視は明治維新の立役者として大活躍しました。
しかし、それ以外の場所でも色々と活躍していたのです。
ここでは、岩倉具視の年表を見ながら、何した人なのかを解説していきます。
岩倉具視の年表
【岩倉具視のプロフィール】
岩倉具視(いわくらともみ) 1825年(文政8年)〜1883年(明治16年) 享年:59歳
出身地:山城国京都(現在の京都府南部)
父:堀河康親/母:吉子
正室:岩倉誠子
継室:岩倉槇子
側室:吉田花子、家女房
子:具義、具定、具経、道倶、増子、伊豆子、極子、治子、静子、寛子
【岩倉具視の年表】
- 1825年(文政8年):0歳
堀河康親と吉子の第二子として生まれる(幼名:周丸(かねまる)) - 1838年(天保9年):13歳
岩倉具慶の養子となり、名前を「具視」とする
従五位下に叙せられ、昇殿を許されるようになる - 1853年(嘉永6年):28歳
関白・鷹司政通の下で歌道を学ぶ - 1854年(安政元年):29歳
孝明天皇の侍従となる
従四位下に叙せられる - 1857年(安政4年):32歳
従四位上に叙せられる
天皇の近習となる - 1858年(安政5年):33歳
日米修好通商条約締結に反対し、意見書「神州万歳堅策」を孝明天皇に内奏する - 1860年(万延元年):35歳
公武合体策として、孝明天皇の妹・和宮の将軍家への降嫁に賛同する上申書を提出する - 1861年(文久元年):36歳
正四位下に叙せられ、和宮に随行して江戸へ下行する - 1862年(文久2年):37歳
朝廷内の尊王攘夷派の台頭により辞官、落飾して蟄居する
洛北岩倉村の藤屋藤五郎の廃屋を借りて幽棲する - 1864年(元治元年):39歳
大工藤吉の居宅を購入し移り住む - 1865年(慶応元年):40歳
政治活動を再開する - 1866年(慶応2年):41歳
政治活動が活発となり、幕府の命により桑名藩に監視される - 1867年(慶応3年):42歳
坂本龍馬・中岡慎太郎・大久保利通などが岩倉邸に訪問してくる
洛中帰住が許され、王政復古に尽力する - 1868年(明治元年):43歳
新政府の議定兼輔相となる - 1871年(明治4年):46歳
外務卿、右大臣に命じられ、特命全権大使として欧米各国を歴訪する - 1873年(明治6年):48歳
帰国後、太政大臣代理となり、西郷隆盛の意見を退け、征韓論を排する - 1874年(明治7年):49歳
赤坂喰違坂にて暴漢に襲われ負傷する - 1882年(明治15年):57歳
菊花大綬章を受ける - 1883年(明治16年):58歳
京都に戻り御所保存の計画を立てる
病が悪化し死去(享年:59歳)
国葬の礼を賜り、正一位太政大臣を追贈される
岩倉具視のしたことは?功績を簡単に解説!
岩倉具視は、下級公家の出身でしたが、最終的に正一位太政大臣まで登りつめました。
それは、岩倉具視の数々の功績があったからこそです。
それでは、岩倉具視は何をしたのでしょうか?
ここでは、岩倉具視の功績を簡単に解説していきます。
王政復古の実現をした?
大政奉還後、明治天皇はまだ15歳の即位したばかりで、政治のノウハウがわかるはずもなく、朝廷首脳部は徳川慶喜のいいなりとなってしまっていました。
そこで岩倉具視は
「このままではまた徳川慶喜が実権を握ることになってしまう」
と危惧し、「王政復古の大号令」案を奏上するのです。
王政復古の大号令は、幕府や摂政・関白を廃止し、総裁・議定・参与の三職を置くなどといった内容のもので、1868年1月3日に明治天皇により発せられます。
これにより、長く続いていた武家政治が終りを迎え、天皇中心の政治になりました。
欽定憲法制定の方針を定めた?
欽定憲法とは、君主が定めた憲法のことです。
日本においては、大日本帝国憲法がこれにあたります。
岩倉具視は、自由民権運動の機運が高まっていた明治時代において、天皇中心の国家をより盤石なものにするためには、どうしても天皇が定めた成文憲法が必要だと考えました。
そのため、1881年に井上毅に命じて、日本の憲法をどのようにすべきかを示す「大綱領」を作成させます。
この内容の多くは、大日本帝国憲法に取り入れられており、岩倉具視は間接的に日本最初の憲法制定に関わっていたということになります。
日本鉄道を設立させた?
岩倉具視は欧米各国を歴訪した後、急速な日本の近代化を目指すべきだと主張していました。
中でも特に力を入れていたのは、日本に鉄道を普及させることでした。
1872年にはすでに新橋〜横浜間が開通していましたが、西南戦争などの内乱も起こり続け、政府は非常に貧乏となっており、鉄道を作る暇や資金がありませんでした。
そこで岩倉具視は、
「国が作れないなら、民間が作ればいいではないか」
として、政府内の政治家の寄付や実業家の協力を得て、1881年に日本鉄道を設立します。
日本鉄道は、今のJR東日本の東北本線、山手線、常磐線、高崎線の元となりました。
鉄道導入に反対する勢力もいましたが、岩倉具視はその勢力に向かって、
「天子様のご先祖は京都にある。鉄道が開通すれば、お墓参りが簡単になる。それを邪魔するとは、天子様への考動を妨げ、国の大本を揺るがすことだ!」
と一喝したそうです。
このような一言が言える岩倉具視がいたからこそ、日本の鉄道開通は進み、今の交通網に発達するに至ったわけですね。
岩倉使節団の大使となった?
岩倉使節団とは、1871年から2年に渡って明治政府が派遣した遣欧米使節団です。
岩倉具視は46歳のときに、岩倉使節団の特命全権大使として欧米に向かいました。
その主な目的は、かつて日本が結んだ不平等条約の改正でした。
しかし、日本の文化がまだ進んでいないことを理由に、交渉は失敗に終わってしまいます。
ここで、岩倉具視は、西洋文化の必要性を痛感し、急速に日本の近代化を進めていくきっかけとなりました。
岩倉具視が団長だった、岩倉使節団の目的はなんだった?
先程もお伝えしたように、岩倉具視は「岩倉使節団」というものの大使となりました。
この岩倉使節団とは何をした団体なのでしょうか?
また、メンバーには誰がいたのでしょうか?
ここでは、岩倉使節団について簡単に解説していきます。
岩倉使節団は何をした?
先程もお伝えしたように、岩倉使節団とは、1871年から2年に渡って明治政府が派遣した遣欧米使節団です。この使節団の目的は、大きく分けると3つありました。
1.条約締結国を歴訪した際、各国の元首に天皇の国書を奉呈し、聘問の礼をとること
2.条約改正協議期限間近のため、その延期も含めて改正打診の予備交渉を行うこと
3.欧米諸国の制度・産業・文化の調査・研究を行うこと
以上の3つの中で、最も重要とされていたのが、2つ目の条約改正予備交渉でした。
そうすることによって、欧米諸国と対等な関係を築き、国際社会の中で日本の存在感を示そうとしていたのです。
岩倉使節団が訪れた国は、アメリカ、イギリス、フランス、ベルギー、オランダ、ドイツ、ロシア、デンマーク、スウェーデン、イタリア、オーストリア、スイスの全部で12カ国でした。このどれもが幕末に条約を結んだ国です。
しかし、結果的に、日本がまだ文化が進んでいないことを理由に、交渉は失敗に終わります。ここから、岩倉具視ら明治政府の首脳は、西洋文化の必要性を直々に痛感することとなり、日本の近代化を急速に進めていくことになりました。
また、使節団に同行した留学生たちも、欧米の知識や学問を持ち帰り、日本の成長に大きく貢献することになります。
岩倉使節団のメンバーには、誰がいた?
岩倉使節団は、総勢107名いたと言われおり、大きく3つのグループに分かれていました。
1.使節の本隊(大使、副使及び随員からなる24名)
2.各省派遣の理事官と随員(出発時で26名、現地参加組や後発隊を合わせると38名)
3.随行する留学生(官費、私費、お付きも含めた約60名)
大使には、岩倉具視、副使には木戸孝允や伊藤博文、大久保利通、山口尚芳が任命されています。使節には薩長が中心で、書記官などには旧幕臣が選ばれていました。
また、留学生には津田梅子なども参加していました。
岩倉具視はどんな人?どんな性格だった?
岩倉具視は、様々な功績があり、それが認められ、最終的に正一位太政大臣まで登りつめることになりました。
それでは、そんな岩倉具視はどんな人だったのでしょうか?
ここでは、岩倉具視がどんな人だったのかを、エピソードを交えながら簡単に解説していきます。
岩倉具視は日本が大好きだった
岩倉具視は、日本が大好きだったということがわかるエピソードがいくつか残されています。
まずは、岩倉使節団としてアメリカに渡ったときのことです。
他の多くの人は、洋服を着て断髪をした姿で訪れました。しかし、岩倉具視は断固として断髪をすることなく、髷と和服姿で渡航したのでした。
他にも、岩倉具視は、酒とタバコを好んでいました。
酒はもちろん日本酒を好んでおり、タバコも日本煙草を愛喫していました。
当時は、西洋煙草が流行っていましたが、岩倉具視は西洋煙草は口にしなかったといいます。
また、料理に関しても、岩倉具視は肉よりも魚や野菜を好んでおり、特に京都料理が大好きだったようです。
以上のことから、岩倉具視は、日本に対して強い思い入れがあったと伺えます。
岩倉具視は柔軟な対応力がピカイチだった
岩倉具視は、時代が変わるに連れて、その思想を柔軟に対応していきました。
幕府からの要望があった際は、和宮を降嫁させるために奔走しましたし、尊王攘夷派からの要望があった際は、倒幕に傾き王政復古の大号令を発令するなどしました。
他にも、元々憲法制定に反対派だったのにも関わらず、伊藤博文に重要性を説かれると、憲法制定を承認したなど、このように思想が180度変わるなんてこともありました。
時代に合わせて柔軟に対応できていたからこそ、幕末から明治時代において常に一線で活躍し続けることができたのでしょう。
岩倉具視は自宅を博打場にしていた
幕末では、岩倉具視のような下級公家や武士たちはお金に困ることが多く、いわゆるアルバイトのようなことをする必要がありました。
そこで、岩倉具視がどのようにしてお金を稼いでいたかと言うと、なんと自宅を賭博場にして生活費を稼いでいたのです。
賭博場ですから、ガラの悪い人たちも出入りしていました。
そのため、当然揉め事なども起きていたようです。
そのような環境に岩倉具視は身をおいていたので、勝負勘が養われ、さらに、ちょっとしたことでは動じないようになったのではないでしょうか。
岩倉具視は伝統も大事にしていた
日本の近代化のために、積極的に西洋の文化を取り入れていた岩倉具視でしたが、実は日本の古くからの伝統もとても大事にしていました。
その象徴とも言えるのが、岩倉具視が最後に手掛けた事業です。
それは、京都御所の保存でした。この当時、明治天皇はすでに東京に移り住んでおり、京都御所には誰も住んでいませんでした。
しかし、岩倉具視は千年以上続いてきた京の都の象徴をなんとか残したいと考えたのです。
先進的な考えを持っていた岩倉具視ですが、何でもかんでも外国に染まろうとするのではなく、伝統あるものは残そうとしていたのですね。その心には、日本を愛する気持ちがあったのでしょう。
岩倉具視は先見の明があり天皇からの信頼も厚かった
岩倉具視は先見の明があったため、天皇から厚い信頼を寄せられていました。
その先見の明を象徴する出来事は、戊辰戦争のときのことです。
岩倉具視は、薩長軍の一員として参戦していました。
薩長軍は、最初数で劣っていたため劣勢でしたが、次第に最新の銃を武器に巻き返し始めます。そして、この際、「錦の御旗」が翻ります。
この瞬間、薩長軍は官軍となったのです。
この錦の御旗なのですが、元々朝廷にあったもの、というわけではありません。
実は、岩倉具視が、いずれ幕府と戦うことになるだろうと考え、事前に作らせていたのです。現代と違い、当時この御旗を作ろうとしたら、手作業で作るため数ヶ月はかかってしまいます。
岩倉具視は、戊辰戦争が始まる数ヶ月前にはこのことを見据えて作らせ始めていたということになります。
薩長軍が官軍となると、旧幕府軍は賊軍とみなされました。
このことにより、旧幕府軍についていた藩が続々と寝返ったのです。
錦の御旗をきっかけに官軍が優勢となり、戊辰戦争に勝利することができたのでした。
こうしてみてみると、全ては岩倉具視の掌の上の出来事だったのではないかと思ってしまうくらい、岩倉具視の先見の明があったことがわかりますね。
このようなことがあったため、岩倉具視は孝明天皇から勅使という立場を与えられたり、明治天皇に亡くなる前日までお見舞いに来てもらったりしていました。
岩倉具視は紙幣になった
岩倉具視は、明治時代に入ってから、近代化を推進したり、重鎮して活躍していたこともあり、1951年から印刷が開始された500円札の肖像として選ばれました。その紙幣には、B号券とC号券と呼ばれる2種類のデザインが存在しています。
現在ではあまり馴染みがありませんが、平成初期までは500円玉よりも遥かに流通しており、非常に馴染みの深いお札でした。
ちなみに、これはまだ紙幣として有効なので、500円として使用することも、銀行で両替してもらうことも可能です。
岩倉具視の身長は?マッチョだった?
岩倉具視はマッチョだったのではないかという話がありますが、実際はどうだったのでしょうか?
岩倉具視の身長は約160cmくらいだったと言われています。
これは、当時の平均身長よりもやや低めでした。
そして、特にマッチョでだったわけではなかったようです。
それでは、なぜ岩倉具視がマッチョだという説が現れたのでしょうか?
それは、橋本エイジさんの漫画『ちるらん 新撰組鎮魂歌』(2012)の影響が大きいようです。この漫画の中で、岩倉具視は「禁中の怪物」と呼ばれ、筋肉マッチョで不気味なキャラクターとして描かれています。
あまりにもインパクトがある外見であったため、話題となったようです。
まとめ:岩倉具視は日本の文明開化に大きく貢献し、現代社会の基礎を築いた
岩倉具視は、明治維新後、岩倉使節団を通して、西洋文化を取り入れる必要性を痛感し、日本の近代化を急速に推進していきました。このときに整備されたものが、現代社会の基礎となっています。
今回の内容をまとめると、
- 岩倉具視は、王政復古の大号令を発令し、天皇中心の政治に戻した
- 岩倉具視は、岩倉使節団の大使として各国を歴訪し、西洋文化を取り入れる必要性を痛感した
- 岩倉具視は、帰国後に日本の近代化を急速に推進していった
- 岩倉具視は、欽定憲法だったり、日本鉄道であったりと、現代社会の基礎を築いた
断固として髷を断髪することなく渡米した岩倉具視でしたが、アメリカで見世物状態になっていたことに気付くと、舐められてはいけないと断髪を断行します。このようなところからも、岩倉具視がいかに柔軟な対応力を持っていたのかが伺えますね。