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岩倉具視の死因は?日本初のがん告知?国葬?最後の言葉はなんだった?

岩倉具視(1825(文政8)〜1883(明治16))は、幕末から明治初期にかけて活躍した政治家です。

「維新の十傑」の1人にも数えられており、欧米諸国を視察した「岩倉使節団」なども有名です。

そんな岩倉具視の死因は何だったのでしょうか?

この記事では、岩倉具視の死因や最後の言葉について簡単に解説していきます。

岩倉具視の死因は?

岩倉具視は病死したと言われています。

なんの病気だったのでしょうか?

ここでは、岩倉具視の死因について簡単に解説していきます。

岩倉具視は病死?日本で初めてがん告知をされた?

岩倉具視は病死でした。死因は「がん」だと言われています。

1883年(明治16年)の5月のこと。

岩倉具視は京都に滞在しており、そこで急に喉の痛みを訴え始めます。

これを聞いた明治天皇は、東京帝国大学医学部で教授をしていたドイツ人医師・エルヴィン・フォン・ベルツに診断を命じました。

すると、ベルツは、岩倉具視が食道がん(咽頭がんという説も有り)にかかっていると診断します。

そして、このことを岩倉具視本人にきちんと伝えるのです。

これが、日本の歴史上、記録に残っている初めての「がん告知」だと言われています。

岩倉具視の子孫は現在まで続いている?

岩倉具視は、妻たちとの間に10人の子供を儲け、その子孫は現在まで続いています。

子孫は非常に多く、政治家や学者、作家、芸能人など多方面で活躍しています。

また、その中には、俳優の加山雄三さんや女優の小桜葉子さん、喜多嶋舞さんなどの有名人もいらっしゃいます。

\ 岩倉具視の子孫については、こちらの記事で詳しく解説しております /

岩倉具視の最後の言葉は?最後はどうだった?

岩倉具視はがんによって、志半ばで亡くなりました。

そんな岩倉具視は晩年どのように過ごしていたのでしょうか?
また、最後の言葉はなんだったのでしょうか?
ここでは、岩倉具視の最後の様子について簡単に解説していきます。

岩倉具視の最後の言葉は?

岩倉具視には、いわゆる辞世の句のような最後の言葉は残されていません。

しかし、岩倉具視はがんを告知された際、ベルツに「後数週間だけ命を延ばしてほしい」と訴えたそうです。

その理由は、参議の伊藤博文に遺言を残したいからということでした。

当時、伊藤博文はヨーロッパに滞在し、憲法の調査を行っていました。

そのため、岩倉具視の容態を連絡したとしても、すぐに帰国することは困難な状況でした。

「なんとか伊藤に面会したい!」という岩倉具視の迫力に押され、ベルツは余命幾ばくもないことを知りながら、全力を尽くすことを約束したそうです。

しかし1883年(明治16年)7月、努力の甲斐なく、ベルツは岩倉具視に最期が近いことを告げます。

すると、岩倉具視は、参議の井上馨を呼び寄せるように依頼。

井上馨は伊藤博文と苦楽を共にした親友でした。
そのため、井上馨に伊藤博文への遺言を託そうと考えたのです。

ベルツはこのときの様子を自身の日記に記しています。

「岩倉公は井上参議に、声が枯れているからと、側近くひざまずくよう促した。

 (中略)

 そして死までのわずかの時間、遺言を一語一語耳打ちし、苦しそうにしながらもゆっくりと伝えたのであった」

そして、岩倉具視は、その日のうちにこの世を去ることになりました。

ちなみに遺言を託された伊藤博文は、岩倉具視の葬儀も終わった8月に帰国したと言われています。

最後の最後まで、岩倉具視は、自身の大願である「日本国独自の憲法制定」実現のために動いていたのでした。

岩倉具視の最後は、東京の自宅で療養していた

岩倉具視は晩年、体調を崩して熱海で療養していました。

西南戦争が終わると、日本国内では、武力ではなく、言論の力で政府を動かそうとする国民運動(自由民権運動)が活性化し、明治政府は窮地に立たされてしまっていました。

そこで、岩倉具視は、ゆっくりしていられる状況ではなくなり、公務に復帰することになります。

しかし、復帰したのも束の間、岩倉具視は京都御所保存計画のために京都に滞在していた際、とうとう飲食が困難になり、喉の痛みを訴え始めるのです。

そして、ベルツからがんを告知されました。日本初のがん告知です。

自身ががんに侵されていることを知った岩倉具視は、船で東京へと戻り療養を始めます。

その後、岩倉具視が重篤であることを知った明治天皇が、岩倉邸を訪れた際は、岩倉具視は身体を支えられていましたが、正装にて拝謁したのでした。

しかし、さらにその後皇后様が訪問された際は、ひざまずくことすらできないほど衰えてしまっていたのです。

最期、岩倉具視が危篤に陥った際にも、明治天皇は岩倉邸へと駆けつけます。

岩倉具視に明治天皇が容態を聞くと、

「陛下の万歳をただ祈るのみ」

ただこれだけ言って、静かに合掌、これが明治天皇への最後の挨拶となりました。

ちなみに、岩倉具視の臨終を看取ったベルツは、

「その鋭くて線の強い死に顔は、生前同人が有していた鉄の意志を十分に具現していた」

以上のように感慨深く語っていたそうです。

岩倉具視の墓はどこにある?

岩倉具視は、体調を崩したため自宅で療養していましたが、そのまま病状が悪化し亡くなってしまいました。

それでは、そのお墓はどこにあるのでしょうか?

ここでは、岩倉具視のお墓について簡単に解説していきます。

岩倉具視の墓は2ヶ所存在する?

岩倉具視の墓は2ヶ所存在します。

1つ目は、京都の洛北の果て、岩倉にあります。

実相院の近くで、蟄居時代に使用していた邸宅の庭にあるのです。

こちらの墓には、遺髪のみが納められています。

幕末の最も苦しかった時期に、その地域の人々によって守り、育まれたことを大事に思って、遺髪が納められたそうです。

【岩倉具視の墓(岩倉具視幽棲旧宅)】

住所:京都府京都市左京区岩倉上蔵町100

入場料:400円

開館時間:午前9時〜午後5時

休館日:水曜日、年末年始

駐車場:有り

2つ目は、東京南品川の浅間台にあります。

こちらには遺体が納められています。

どちらの墓も、入り口は頑丈な錠前と戸で閉ざされています。

【岩倉具視墓】

住所:東京都品川区南品川5-16-22

こちらは一般の参拝は認められていません。

岩倉具視は日本で初めて国葬された?

岩倉具視の葬儀は、亡くなってから5日後に行われました。

そして、岩倉具視の葬儀は、国費をもって葬儀が執り行われる「国葬」となりました。

1878年(明治11年)に亡くなった大久保利通は、「準国葬」という扱いだったため、岩倉具視が日本で初めての国葬ということになったのです。

生前、岩倉具視は

「自分の葬儀は、自分の父の葬式にかかった費用(三千円:現在の価値で約6千万円)を超過しないように」

と周囲に伝えていました。

しかし、実際にかかった費用は、三万円(現在の価値で約6億円)と、約10倍の費用になってしまったそうです。

まとめ:岩倉具視の死因はがん、日本で初めて告知され、初めて国葬された

岩倉具視は、晩年体調を崩し、食事が喉を通らなくなり、日本で初めてがん告知されました。
そしてそこから回復することなく、がんで亡くなります。
岩倉具視の葬儀は、国葬にて執り行われ、こちらも日本で初めてのことでした。

今回の内容をまとめると、

  • 岩倉具視の死因はがん
  • 岩倉具視の子孫は現在まで続いている
  • 岩倉具視は、日本で初めてがん告知された
  • 岩倉具視は、日本で初めて国葬された
  • 岩倉具視は、死ぬ間際まで日本独自の憲法制定実現に向けて尽力していた

がんで苦しいにも関わらず、日本独自の憲法制定実現のために尽力していた姿からは、いかに岩倉具視が憲法制定を強く願っていたのかを伺わせてくれますね。

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