勝海舟の功績は?!性格は?どんな人だった?エピソードを交えて解説!
新政府軍の西郷隆盛と交渉し、江戸城を無血開城に導いた勝海舟。
勝海舟は、江戸城を戦火から守った立役者ですが、その他にも多くの功績を残しています。
今回は、激動の幕末を生きた勝海舟にはどんな功績があるのか?性格はどうだったのか?どんな人物だったか?について、まつわるエピソードとともに解説していきます。
目次
勝海舟の功績を簡単に解説!
勝海舟は、江戸城を無血開城に導いた人物として歴史に名を残しています。
しかし、海舟の功績はそれだけではありません。
【勝海舟の功績】
- 勝海舟は幕臣でもあり、明治政府でも活躍した
- 勝海舟は、江戸城無血開城の立役者
- 勝海舟は、日本海軍の基礎を作った
今回は、江戸時代から明治時代という波乱の時代を股にかけ活躍した人物・勝海舟が成し遂げた功績を解説します。
勝海舟は幕臣でもあり、明治政府でも活躍した
勝海舟は(1823年(文政6年)~1899年(明治32年))は、江戸本所(墨田区)の貧しい旗本の家に生まれました。
決して恵まれた環境ではありませんでしたが、剣術と勉学に励み、1853年(嘉永6年)にペリーが来航した際に、
「海防意見書」という国を守るための意見書を提出し、幕府に才能を見出されました。
その後、大西洋を横断しアメリカを視察したり、神戸海軍奉行を務めるなど幕臣として活躍しています。
勝海舟は、1867年(慶応3年)徳川慶喜が大政奉還を行い、戊辰戦争が勃発した際には、新政府軍のリーダーだった西郷隆盛と相談して江戸城を無血開城に導きました。
明治新政府ができた後も、明治新政府で元老院議官や枢密顧問官を歴任しています。
勝海舟は、江戸城無血開城の立役者
1867年(慶応3年)、徳川慶喜が大政奉還を行い、翌年には明治新政府が誕生しました。
しかし、朝廷が幕府から役職や領地を取り上げたことを引き金に、戊辰戦争が勃発。新政府軍と旧幕府軍が戦うことになりました。
結果は旧幕府軍が惨敗し、徳川慶喜は江戸城へ逃げ戻ったのです。
新政府軍は旧幕府軍を攻撃するため、江戸へ進軍していました。
もしこのまま、新政府軍による攻撃が始まれば、江戸は戦火に包まれることになります。
これを回避しなければならないと思った勝海舟は、新政府軍のリーダーであった西郷隆盛と話し合い、無事、江戸城を無血開城に導いたのでした。
勝海舟は、日本の海軍の基礎を作った
勝海舟は、1853年(嘉永6年)「海防意見書」という国を守るための意見書を提出し、幕府に才能を見出されました。
そして、1855年(嘉永7年)には、長崎海軍伝習所(幕府の海軍教育施設)の伝習生に命じられ、オランダ人から最新の航海術を学びました。
1859年(安政5年)、江戸へ戻った勝海舟は37歳で軍艦操練所教授方頭取となり、日本の海軍の基礎を築いいていったのです。
勝海舟はどんな人だった?
江戸幕府では幕臣として活躍し、明治新政府でも数々の要職に就いた勝海舟はいったいどんな人物だったのでしょうか。
その生い立ちや、海舟の人生を変えた出来事を紹介します。
- 勝海舟は、貧しい旗本の家に生まれた
- 黒船の来航で頭角を現し、幕府の役人になった
- 勝海舟は、日本人で初めて太平洋を横断し、アメリカへ渡った
勝海舟は、幼少期はとても貧しかった
勝海舟は、江戸本所(墨田区)の旗本の家に生まれました。
武士の身分ではありましたが、決して裕福な家庭ではなく、それでも幼少期は剣術の稽古に励んでいたそうです。
その暮らしは天井板をはがして薪にするほどだったそうです。
そんな暮らしの中でも、海舟の父・勝 小吉は剣術の先生に
「金を払わぬ代わりに海舟を住み込みで働かせるので、弟子にしてやってほしい」と頼んだといわれています。
そんな父の期待に応えるべく、子供時代の勝海舟は稽古や勉強に励み、1843年(天保14年)、直心影流という流派の免許皆伝を貰っています。
勝海舟の人生の転機は黒船来航
剣術に打ち込んでいた勝海舟は、その努力を認められ、師匠・島田虎之助から
「剣術はもう教えることはない。外国と張り合うために蘭学を始めなさい。」
とアドバイスをもらいます。
勝海舟は早速、蘭学に取り掛かり、18巻もある蘭和辞書を必死に書き写したそうです。
勉学にいそしんでいた海舟でしたが、1853年(嘉永6年)にアメリカのペリーが開国を求めて日本にやってきます。
この時、勝海舟が幕府に提出した「海防意見書」という国を守るための意見書は、日本は開国して貿易を行い、富を増やすべきであること、その富で軍備を増強すべきであることが書かれていました。
これを高く評価され、幕府の役人に登用されることになったのです。
勝海舟は自らの手でチャンスをつかんだ、努力の人物でした。
勝海舟は、日本人で初めて太平洋横断した
1860年(万延元年)、「日米修好通商条約」を結ぶために、日本からアメリカに使節を送ることになりました。
「咸臨丸」という蒸気船に約90人の日本人が乗り込み、アメリカを目指しました。
この咸臨丸の艦長となったのか、勝海舟でした。
海舟は日本人で初めて大西洋を横断した人物になったのです。
実際には、勝海舟は船酔いがひどく全く何もできなかったという話もありますが、日本人といして初めて太平洋を横断したのは事実です。
勝海舟の性格がわかるエピソードをご紹介
勝海舟は、江戸の町を守るため、新政府軍のリーダーである西郷隆盛と話し合い江戸城を無血開城に導きました。
実は、徳川幕府が亡くなった後も、徳川家のためにいろいろと奔走していたのです。
勝海舟は努力を怠らない根気強い性格を持ち合わせていましたが、その一方で短気な一面もあったそうです。
機嫌が悪いときには、家族を家から追い出すほどだったと言われています。
しかし、長崎海軍伝習所のオランダ人教官は、勝海舟について「ほがらかで親切な人物」と評しています。
勝海舟は、激しい一面と穏やかな一面を持った、人間味ある人物だったのでしょう。
勝海舟は、徳川の領地や江戸城の返還のために動いていた?
勝海舟は、江戸城開城をめぐり西郷隆盛と会談をしていました。
その際、勝海舟は徳川家を残し、領地の維持するという条件を引き出そうとしていました。
そして、一度新政府軍に明け渡した江戸城も返してもらうことを狙っていたそうです。
結局、その要求は通りませんでしたが、徳川家の部下として奔走していたことがわかります。
勝海舟は、旧徳川の家臣たちを自腹で支えていた
勝海舟は明治新政府でも様々な要職に就いていました。
そんな中でも、勝海舟が力を入れていたのは旧幕府関係者の名誉回復でした。
勝海舟が尽力したことで、徳川慶喜は1898年(明治31年)に明治天皇に謁見することを許され、朝敵の名の汚名を返上できたのです。
他にも、苦しい生活を送っていた旧徳川の家臣たちを助けるために、自腹を切って家臣の生計を支えていたとも言われています。自腹を切って旧家臣たちを支えてくれる勝海舟を見て、徳川家はこっそり支援したとも言われています。
また、1880年(明治13年)には、徳川一族から積立金を集めて保晃会という会を設立し、日光東照宮の保存も行っています。
勝海舟と坂本龍馬のエピソードは、実は作り話?
坂本龍馬も勝海舟と並ぶ幕末の偉人です。
そんな二人の出会いは、坂本龍馬が勝海舟を斬る覚悟で会いにいったが、結果として坂本龍馬が弟子入りしたという説があります。
このエピソードは勝海舟自身が語っていたことなのですが、どうやら真実ではないようです。
勝海舟は、事実よりも大げさに物事を話すことがよくあったと言われています。
勝海舟と坂本龍馬は、実際は越前国福井藩(福井県)16代藩主であった松平春嶽の紹介で出会っています。
松平春嶽は、坂本龍馬のことを目にかけており、勝海舟に紹介状を渡したと言われています。
坂本龍馬と勝海舟の出会いの話が、勝海舟の作り話だったとはいえ、坂本龍馬が勝海舟を尊敬していたことは事実。坂本龍馬は、勝海舟のことを「日本第一の人物」だと姉への手紙に残しています。
まとめ:勝海舟は、幕臣でありながら明治政府でも活躍し、多くの功績を残した
勝海舟は江戸城を無血開城に導き、幕府が無くなってからも徳川家のために尽力していました。
さらに明治新政府でも数々の要職を歴任しています。
今回の内容をまとめると
- 勝海舟は、貧しい家庭に生まれながらも、努力を重ねて幕府の役人になった
- 勝海舟は、オランダ人から最新の航海術を学び、日本の海軍の基礎を作った
- 勝海舟は、日本人で初めて太平洋を横断し、アメリカへ渡った
- 勝海舟は、明治政府でも活躍し、旧幕府関係者の名誉回復に努めた
- 勝海舟と坂本龍馬の出会いは、松平春嶽の紹介だった
激動の幕末を幕臣として過ごし、その後時代が明治に変わっても役人として活躍した勝海舟は、日本の発展のため、旧主君のために奔走していたんですね。