木戸孝允と桂小五郎は同一人物!何度も改名したその理由は意外なものだった
幕末の志士として有名な桂小五郎と、明治維新のリーダ木戸孝允が別の人と思っている人も少なくないのではないでしょうか?学生の頃、教科書で習っているはずですが、木戸孝允と桂小五郎は同一人物です。
木戸孝允は、明治維新の頃に桂小五郎から木戸孝允に改名しているのです。また、木戸孝允は桂小五郎以外にも、何度も改名しています。
今回は、桂小五郎はなぜ木戸孝允に改名したのか?それ以外にどんな名前を使用していたのか?改名の理由についても解説していきます。
目次
木戸孝允と桂小五郎は同一人物!
倒幕派の長州藩の志士として有名な剣豪「桂小五郎」と、明治維新に欠かせない政治的リーダー維新の三傑とも称される「木戸孝允」は、同一人物です。
どちらも魅力的な人物であるが故に、別の人と思っている人も少なくないのではないでしょうか?
また、木戸孝允の別名は桂小五郎だけではないんです。木戸孝允は何度も改名しており、その名前は「木戸貫治」や「和田小五郎」など、はっきりと分かっているだけでも5つほどあります。
【木戸孝允が改名した名前の一覧】
- 和田小五郎(わだごろう)
- 桂小五郎(かつらこごろう)
- 木戸貫治(きどかんじ)
- 木戸準一郎(きどじゅんいちろう)
- 木戸孝允(きどたかよし)
桂小五郎はなぜ木戸孝允に改名したのか?
桂小五郎は、なぜ木戸孝允へと改名したのでしょうか。そこには明治維新が大きく関わっています。
倒幕派の長州藩の志士であった桂小五郎は、藩命で京に上ります。その後、長州藩が幕府と対立を深めるに伴い、桂小五郎も幕府に追われ身となっていきました。
桂小五郎は、京付近での潜伏生活を経た後、長州藩の代表として表舞台に戻る際に、長州藩主の毛利敬親から「木戸」を賜り、改名しています。
幕府が指名手配中の桂小五郎を長州藩の統率者とするのは問題があるので、長州藩のリーダーとなるため「桂小五郎」から「木戸孝允」に改名し、別人になったというわけなんです。
木戸孝允が何度も改名した理由は?
木戸孝允には、何個もの名前があります。一生のうちに何度も改名をしているのです。
【木戸孝允が何度も改名した理由】
- 和田小五郎(わだごろう)
- 桂小五郎(かつらこごろう)
*和田家から桂家へ養子になった - 木戸貫治(きどかんじ)
- 木戸準一郎(きどじゅんいちろう)
*幕末で追ってから逃れるために、別人になる必要があった - 木戸孝允(きどたかよし)
*法令に従って戸籍登録をする必要があった
幕末から明治にかけての時代、幕府から朝廷への政権交代や、日本最大の内乱「西南戦争」そして、法律や制度が整備されていく中で、何度も名前を変えたのは、木戸孝允だけではなさそうですよね。
木戸孝允が使った名前一覧。偽名も沢山使っていた?
木戸孝允は生涯で10以上もの名前を使ったと言われています。公的に使われた名前もあれば、一時的に身を隠すために使われた偽名もあります。
【木戸孝允が生涯で使った名前一覧】
- 和田小五郎(わだこごろう):~8歳頃まで
- 桂小五郎(かつらこごろう):8~33歳頃まで
- 木戸貫治(きどかんじ):33歳の頃
- 木戸準一郎(きどじゅんいちろう):33~40歳頃まで
- 木戸孝允(きどたかよし):40歳頃~
【木戸孝允が使ったとされる偽名一覧】
- 新堀松輔(にいほりまつすけ)
- 広戸孝助(ひろとこうすけ)
これだけ名前が変わると使ってる本人も、その周りもうっかり間違うこともあったかもしれませんね。
木戸孝允は「逃げの小五郎」とも呼ばれていた
木戸孝允(桂小五郎)の有名なあだ名といえば「逃げの小五郎」です。
しかし、このあだ名は、昭和に入ってから付けられたものなのはご存じでしょうか。
木戸孝允を「逃げの小五郎」と初めて表現したのは、歴史小説家の司馬遼太郎からと言われています。
司馬遼太郎は、短編小説集「幕末」の中に「逃げの小五郎」という短編小説を収録しています。
長州藩士の在京を禁じられた京都で、変名や変装をしながら情報収集と藩の復権工作を続けた木戸孝允(桂小五郎)を表す、実にキャッチーなあだ名は多くの人の心に残ったのでしょう。
過激派の長州藩士から慎重派な木戸孝允に対する不満はあったようですが、現存する記録や資料の中には「逃げの小五郎」との記述は確認されていません。
木戸孝允が木戸孝允になるまでの経緯を簡単に解説
いくつもの名前を持つ木戸孝允が、最終的に「木戸孝允」となるまでの経緯を解説していきます。
木戸孝允は養子になり桂を名乗るようになった
木戸孝允は、8歳の頃から「桂」を名乗るようになりました。理由は、「桂」の家に養子になったからです。それまでは、「和田」を名乗っていたようです。
ちなみに、養子先の「桂家」は生家の「和田家」のお向かいに住んでいた老夫婦でした。
ちなみに、木戸孝允が養子になってすぐに桂家の養父母が亡くなった為、生家の「和田家」に戻り、そこで育てられています。
木戸孝允は池田屋事件がきっかけで「木戸」を名乗るようになった
「桂」の後継ぎとなった木戸孝允が「木戸」を名乗るようになったきっかけが、「池田屋事件」です。新選組の活躍でも有名な事件ですよね。
この池田屋事件がきっかけで、桂小五郎は幕府側から追われる立場となってしまったのです。
桂小五郎はしばらくの潜伏生活を経た後、長州藩の統率者「木戸貫治」として表舞台に戻ってきます。
長州の代表は、幕府に敵認定されている「桂小五郎」ではなく、あくまで別の人物「木戸貫治」であるとするための名前を改名だったというわけです。
「木戸」姓は、主君である長州藩主の毛利敬親から贈られたものです。
ちなみに、潜伏生活の中で「新堀松輔」や「広戸孝助」などのいくつもの偽名を名乗っていたようです。
写真や映像もなく、伝達手段も限られていた時代ですから、名前を変えるだけで別人と認識されやすかったのかもしれませんね。
木戸孝允と名乗るようになったのは明治に入ってからだった
「木戸」の姓を賜った木戸孝允ですが、「貫治」や「準一郎」といった名前を用いている時期があったようです。
現代では、自分の名前は「名字」と「名前」の一セットだけですよね。
しかし、当時は「名前」がさらに「字(あざな):通称名」と「諱(いみな):本名」に分けられていたのです。「諱」を口にするのは、親などの親しい人だけで、通常は「字」を使用して個人を区別していたそうです。
現代でも、親しい人は「名前」、初対面や目上の方は「名字」と、多くの人が使い分けていると思います。形は変わったけれども、当時の感覚は現代の我々にも引き継がれているのかもしれません。
木戸孝允の「諱」が「孝允」であり、「字」が「小五郎」や「貫治」「準一郎」でした。貫治や準一郎は、比較的自由に取り扱えるものだったようですね。
明治に入り戸籍編成がされる際、「名前は諱か字のどちらか一方を名前とするべし」との法令が発布されました。1872年(明治5年)の「複名禁止令」です。
戸籍登録をする際、木戸孝允は諱の「孝允」を選びました。それ以降は「木戸孝允」となったというわけです。
ちなみに、伊藤博文は「諱」を、板垣退助は「字」を選んで、戸籍登録したそうです。
まとめ:木戸孝允と桂小五郎は同一人物!改名した理由には明治維新が大きく関わっていた
「木戸孝允」は「桂小五郎」が改名した同一人物で、改名した理由が別の人物となるためだったということは意外でした。
今回の内容をまとめると
- 木戸孝允と桂小五郎は同一人物だった。
- 木戸孝允は何度も改名をしていた。
- 桂小五郎が木戸に改名した理由には、明治維新が大きく関わっていた。
実際にあったかは定かではありませんが、幕府側が「桂小五郎では…?」と訝しんでいるのを、木戸孝允の周りの長州藩の志士たちが「木戸」という別人として一生懸命振舞っている場面を想像すると、面白いですよね。