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高杉晋作の子孫の現在を家系図から辿ってみた。ベトナムにもいるって本当?

高杉晋作の子孫の現在を家系図から辿ってみた。ベトナムにもいるって本当?

吉田松陰の弟子として、幕末の歴史を大きく動かした高杉晋作。高杉晋作は、尊王攘夷派の志士として、日本を良くするために人生をかけて戦い抜きました。
高杉晋作の出身地、山口県では非常に人気のある人物です。
しかし、高杉晋作は29歳の若さで亡くなり、幕府の消滅と新しい時代の幕開けを見ることはありませんでした。
今回は高杉晋作の子孫はいるのか?家系図から辿って解説していきます。

高杉晋作の家系図を簡単に解説

高杉晋作の家系図

そんな高杉晋作には、妻の雅子との間に一人息子、高杉東一さんがいました。
高杉晋作は、長州藩(山口県)に生まれ、非常に厳しく育てられました。その甲斐もあり、10歳で藩校(藩が子弟を教育するために設立した学校)明倫館にて教壇に立ち、11歳で藩主・毛利敬親もうりたかちか(1819年(文政2年)~1871年(明治4年))の前で講義を行ったそうです。
その後、吉田松陰と出会い長州藩を率いて多くの人々に慕われる人物に成長しました。

高杉晋作の愛した女たち

高杉晋作は、師として吉田松陰よしだしょういん(1830年(文政13年)~1859年(安政6年))を非常に尊敬していました。
しかし、吉田松陰は1859年(安政6年)に処刑されてしまいます。
師と仰いでいた吉田松陰がなくなったという大きな失意の中、高杉晋作は父に薦められ結婚しました。
高杉晋作が失意の中、支えてくれた妻一筋だったのかと思いきや、実は妾もいたのです。
【高杉晋作の愛した女たち】

  • 高杉晋作の妻:高杉雅子
  • 高杉晋作の妾:おうの

高杉晋作の妻 雅子

尊敬していた吉田松陰が処刑された翌年の1860年(安政7年)、高杉晋作は父に勧められ結婚しました。
高杉晋作の過激な行動を家族が案じて「結婚すれば落ち着くのではないか」と思い、結婚を勧めたと言われています。
その結婚相手が雅子:1845年(弘化2年)~1922年(大正11年) です。
雅子は長州藩士・井上平右衛門の次女で、彼女は萩城下一の美人として評判の娘で、晋作と結婚した当初、雅子は16歳という若さでした。

結婚当時、高杉晋作は22歳。当時としては珍しくなかったかもしれませんが、現代から考えるとかなり若くして結婚しています。しかし、高杉晋作は結婚後は全国を飛び回って活動しており、自宅にいたのは2年にも満たなかったそうです。そんな慌ただしい結婚生活の中でも、子供に恵まれます。
子供は東一と名付けられ、高杉晋作が亡くなった後も雅子が女手一つで育てました。

高杉晋作の妾 おうの

高杉晋作には妻のほかに、一人の妾がいました。

妾の名前は、おうの:1843年(天保14年)~1909年(明治42年)です。おうのは下関の芸妓でした。

高杉晋作と、おうのがどうやって知り合ったのかは不明ですが、高杉晋作が四国に亡命していた際、おうのを伴っていたそうです。おっとりとした性格の女性で、病で臥せっていた高杉晋作を看病し、死後は尼になりました。
おうのと晋作の間には子供はいません。
実は、晋作がおうのと下関で暮らしていた時、妻の雅子が晋作の家を訪問したことがありました。
現代で考えるとかなりの修羅場です。高杉晋作も居心地が悪かったのか、下関の家から逃げ出してしまったそうです。激動の時代を生き抜いた高杉晋作でしたが、さすがに妻と愛人の鉢合わせには困ってしまったのでしょう。

高杉晋作没後、子孫たちはどうなった?

高杉晋作には妻、雅子との間に長男・高杉東一:1864年(元治元年)~ 1913年(大正2年がいました。

しかし東一が4歳のころ、高杉晋作は亡くなってしまいます。未亡人となった雅子は東一を育てながら高杉家を切り盛りしていました。
高杉晋作の息子・東一は、父の死後どうなったのでしょうか?
詳しく見ていきましょう。

高杉晋作の息子「高杉東一」さんは外交官として活躍した

その後、新しい時代が訪れ明治に入ると、東一とともに萩の家から東京の麻布に移り住みました。

ちょうどこのころ、明治政府から高杉家に爵位を送るという話が持ち上がりましたが、
「父の七光でもらうなら、いらない」
と言ってこの話を断っています。

東京に上京後、東一は一橋大学の前身である商法講習所で学び、その後、外交官となりました。
伊藤博文に従って海外に赴き、『英和新国民大辞典』の編集にも携わっています。
また、外交官となった後に結婚し、4人の子供に恵まれましたが、その内3人は早くに亡くなってしまいます。

【高杉東一の子供(高杉晋作の孫)】

  • 高杉暢子:?~1913年(大正2年)
  • 高杉治子:?~1897年(明治30年)
  • 高杉春太郎:?~1957年(昭和32年)
  • 高杉晋二郎:?~1911年(明治44年)

高杉東一さんの長男 春太郎氏が高杉家を継ぎました。
高杉春太郎さんは、戦時中は陸軍主計少尉として海外で活動し、戦後は商社マンとして活躍したそうです。春太郎氏の息子・勝氏(晋作から見て曾孫)は大成建設に務め、2010年に77歳でなくなっています。
現在の高杉家の当主は勝氏の息子・力氏(晋作から見て玄孫)です。

高杉力氏は、高杉晋作の遺品を山口県萩市と下関市に寄贈しています。

高杉晋作の子孫の現在は?

若くして亡くなってしまった高杉晋作の子孫は、現在も活躍しています。
【高杉晋作の子孫一覧】

  • 高杉東一 1864年(元治元年)~ 1913年(大正2年)
  • 高杉春太郎 ?~1957年(昭和32年)
  • 高杉勝 ?~(平成22年)
  • 高杉力
  • 高杉早苗?
  • 金田一蓮十郎?

高杉晋作の子孫がベトナムにいる?

実は、高杉晋作の子孫で海外で活躍している人がいます。それは益子早苗さん(旧姓・高杉早苗さん)。
高杉早苗さんはサイバーエージェントに務めていましたが、現在はベトナム・ホーチミン市でピザレストランを夫婦で経営されています。現在はホーチミンの他にハノイやダナンなどにも出店していて、合計22店舗のお店を経営中です。

お店の名前は「Pizza4P’s」。
Pizza4P’sのロゴは、先祖である高杉晋作の家紋「丸に武田菱」からアレンジしたものだそうです。

高杉早苗さんは、もとの職とはまったく違う分野で挑戦を続けています。

高杉晋作の辞世の句「おもしろきこともなき世をおもしろく」を実践している印象です。

Pizza4P’sのモットーは食を通じて世界中に笑顔を増やすことだとか。
高杉晋作と同じく、世の中を変えたいという気持ちがあるのかもしれませんね。

高杉晋作の子孫と言われる漫画家

他にも、漫画家の金田一蓮十郎さんが高杉晋作の子孫ではないかと言われています。
金田一さんは大阪出身の女性で、『ジャングルはいつもハレのちグゥ』で第3回エニックス21世紀マンガ大賞準大賞を受賞した人気漫画家です。金田一さんは以前、母方の祖父が高杉晋作の子孫であるとのツイートをされています。

https://twitter.com/ren10ro/status/19359291688?s=09
https://twitter.com/ren10ro/status/19359721968?s=09

今のところ、はっきりとした関係はわかっていないようですが、自分のルーツが高杉晋作にあるかもしれないなんて羨ましい限りです。

まとめ:高杉晋作の子孫は現在も健在。ベトナムでも活躍していた!

今回の内容をまとめると

  • 高杉晋作の息子・高杉東一は外交官となり『英和新国民大辞典』の編集もしていた
  • 高杉晋作の子孫である益子早苗さん(旧姓・高杉早苗さん)はベトナムでピザ屋さんを経営している
  • 人気漫画家・金田一蓮十郎さんも高杉晋作の子孫である可能性がある

高杉晋作の息子である高杉東一は外交官、孫である春太郎氏も海外で活動、子孫であるベトナムで活躍し、世界を舞台にして活躍しています。
やはり高杉晋作の新しい時代を切り開く力を受け継いだのでしょうか。


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