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木戸孝允の名言集|生き様が伝わる名言から、最後の言葉まで解説!

木戸孝允の名言集|生き様が伝わる名言から、最後の言葉まで解説!

「維新の三傑」の一人に称される木戸孝允きどたかよしは、明治維新の指導者として、幕末から明治時代にかけて活躍しました。明治維新前は、桂小五郎かつらこごろうの名前で長州藩志士として活躍していました。
剣の達人だっただけでなく、学芸にも秀でていた木戸孝允は、生涯にいくつもの名言を残しています。木戸孝允の残した言葉の数々は、志を持って活動し続けた木戸孝允の生き様を伝えてくれているように思います。

今回は、木戸孝允が残した代表的な名言4つと、木戸孝允の最後の言葉を簡単に紹介していきます。

木戸孝允の名言1|事をなすのは、その人間の弁舌や才智ではない。人間の魅力なのだ

事をなすのは、その人間の弁舌や才智ではない。人間の魅力なのだ

現代訳:
何かを成し遂げる人はどのような人間だろうか。話しぶりが上手な人間ではない。物事によく気がつき、巧みに処理できる知的能力の持ち主でもない。ヒトとしての魅力がある人間なのである。

【名言誕生の背景】
この名言は、司馬遼太郎著「竜馬がゆく」の中で、桂小五郎(木戸孝允)が、初めて坂本竜馬に出会った際に言ったの台詞です。
「事をなすのは、その人間の弁舌や才智ではない。人間の魅力なのだ。私にはそれがとぼしい。しかしあなたにはそれがある。と私はみた。人どころか、山でさえ、あなたの一声で動きそうな思いがする。」

謙遜でも、お世辞でもなく、坂本竜馬の人間力を冷静に捉えたこの台詞は、木戸孝允の物事を俯瞰的に捉える冷静さや、奢らず周囲と友好的な関係を築ける人間性を実に良く表しているものに感じます。

この言葉は、実際に桂小五郎(木戸孝允)が言ったものではなく、司馬遼太郎が作成したもののようですが、台詞の冒頭部分を抜き出したものが桂小五郎(木戸孝允)の名言として、多くの人の心に残り続けています。

木戸孝允の名言2|才才を恃み愚は愚を守る

才子(さいし)は才(さい)を恃(たの)み 愚(ぐ)は愚を守る

現代訳:
もともと頭はたらきが優れ、要領の良い子は、自分の才能を当てにして努力を怠るが、元々は利口ではない子は、自分が愚かであることを謙虚に認め、努力する。

この内容から、「いくら能力があっても、謙虚さと日々の努力がなければ大成しない」・「最初は劣っていても、謙虚に日々努力を続ければ大成できる」などとして捉えられています。

【名言誕生の背景】
漢字だらけのこの名言は、木戸孝允が作った漢詩「偶成」の最初の一文です。
漢詩の全文は、以下の通りです。

偶成(ぐうせい)
才子恃才愚守愚(さいしはさいをたのみ ぐはぐをまもる)
少年才子不如愚(しょうねんのさいしは ぐになるにしかず)
請看他日業成後(こうみよ たじつぎょうなるのち)
才子不才愚不愚(さいしはさいしならず ぐはぐならず)

現代訳:
たまたまできた詩
才子は自分の才能をたよりに努力を怠るが、愚者は自分の愚かさを自覚して努力する。
若いころは才子であるより愚者の方がよいのだ。
見たまえ。将来、何かを成し遂げた後は
才子は才子ではなく、愚者は愚者ではなくなっていることを。

木戸孝允は漢詩の才も優れていました。十代の頃から、長州藩主の毛利敬親の前で即興の漢詩を披露し、褒章を受けたといわれています。この漢詩は全体を通して「愚」を反復して韻を踏んでいるのが特徴的な作品となっています。漢詩に馴染みの薄い現代人でも、声に出して読んでも心地よく、意味もとりやすい馴染みやすい詩であると感じます。

木戸孝允の名言3|人の巧を取って我が拙を捨て、人の長をとって我が短を補う

人の巧を取って我が拙を捨て、人の長をとって我が短を補う

現代訳:
人として成長するため、他者に学びを求め、周りの人の優れたところ取り入れ、柔軟な心で自分の至らないところを補うことが大切です。

転じて、
「人は誰しも長所も短所もあるのだから、それぞれが集まって、協力し、補い合うことが大切である」と捉えられることもあります。

【名言誕生の背景】
幕末に桂小五郎(木戸孝允)が、吉田松陰に送った手紙の中に残されていた一文です。
木戸孝允は17歳の頃、萩の藩校「明倫館」で吉田松陰から山鹿流兵法を学びました。吉田松陰は木戸孝允のもつ高い素質を認め、「事をなすの才あり」と評価しています。木戸孝允も松下村塾の門下生ではありませんでしたが、吉田松陰に対し、生涯門人の礼をとり尊敬し続けたといわれています。
そんな二人が交わした手紙の中に書かれていた言葉であると思いながらかみしめると、更に感慨深いものになるのではないでしょうか。

木戸孝允の名言3|大道行くべし、又何ぞ防げん

大道行くべし、又何ぞ防げん

現代訳:
人の行くべき道を行くべきだ。何もその道を妨げられはしないのである。
(自分の信念を持ち、どんなことがあっても自分の進みたい道を進みなさい)

【名言誕生の背景】
「木戸孝允文書」の中にある名言です。
木戸孝允文書は、昭和初期に発行され、木戸孝允の日記や手紙をまとめた全8冊からなる書籍です。長州藩出身者の特性の一つが、「書き魔である」といわれています。
長州出身の木戸孝允(桂小五郎)も例外ではなく、『木戸孝允文書』には、亡くなる直前まで書き続けていた日記や2千通を超える手紙が収められているそうです。木戸孝允は、手紙や日記の中に心情を記すタイプだったようです。
この名言からも、冷静沈着で理性の人といわれる木戸孝允ですがその心には、熱く燃える誠意が在り続けていることを感じることができるのではないでしょうか。

木戸孝允の最後の言葉

【木戸孝允の最後の言葉】
「西郷、もう大抵にせんか」

木戸孝允が亡くなった1877年(明治10年)は西南戦争が勃発した年です。木戸孝允は、西南戦争の勃発を、京都で知りました。明治天皇の行幸に従うために、体調不良を我慢して東京から京都へ赴いていのです。

木戸孝允は、日に日に悪化する自分の体に、先は長くない事を感じていたのかもしれません。「どうせ死ぬならば、西郷に説得して、討たれるなら大往生である。」と、西郷討伐の総大将として自ら名乗りを上げたそうです。
西郷討伐の総大将でありながら、倒すことではなく説得することを目的にしていた点からも、生涯一度もヒトを切ったことがないと言われる木戸孝允の人間性を感じることができるでしょう。病に侵されていても、木戸孝允はつまらない意地を張って戦うことを嫌う合理的な思考を持ち続けていたのですね。
しかし、木戸孝允の病気は悪化の一途を辿り、京都から出兵することなく、大久保利通に手を握られながら亡くなるのでした。
その際、昏睡状態だった木戸孝允が突然、「西郷、もう大抵にせんか」と呟いたといわれています。
もしかしたらその時の木戸孝允の意識は、西南戦争に赴き、西郷隆盛を説得していたのかもしれません。明治政府と西郷側の両方を案じる言葉です。木戸孝允は最後の最後まで、熱い情熱を持って日本のために献身した人物だったのですね。

まとめ:木戸孝允は名言もイケメンで、その言葉からは生き様が感じられる

木戸孝允の容姿端麗なイケメンだったことが有名ですが、木戸孝允の名言もイケメンでした。男性も女性も惚れ惚れする人間的な魅力を持った人物だったようです。
今回の内容をまとめると、

  • 木戸孝允の名言からは、木戸孝允の生き様が垣間見える
  • 木戸孝允は、吉田松陰からも認められるほどの才覚の持ち主だった
  • 木戸孝允は、「書き魔」。文章に感情を込めて書くタイプの人間だった
  • 木戸孝允が書き残したメモや日記は、「木戸孝允文書」として残された
  • 木戸孝允は、病状を押して西郷隆盛を説得しようとしたが、それは叶わず、最後の言葉で西郷を叱咤した

熱い情熱を心に持ちながらも、俯瞰的に物事を観察し、冷静な判断を下せる人物であり、お酒が好きで手紙魔で、遊んで騒ぐのも好きな愛妻家。名言を通して木戸孝允の人間像や生き様を味わうことができたように感じます。

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