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西郷隆盛の首や遺体はどこへ?墓地に眠るのは本物?偽物?発見したのは誰?

西郷隆盛の首や遺体はどこへ?墓地に眠るのは本物?偽物?発見したのは誰?

西郷隆盛:1827(文政10)~1877(明治10)は幕末から明治にかけて活躍した薩摩出身の武士です。西郷は西南戦争で味方に介錯されその命を絶ちました。西郷隆盛の首と遺体はどこに行ったのでしょうか?また、西郷隆盛の墓と言われている場所には、本物の西郷隆盛の首や遺体が眠っているのでしょうか?この記事では、西郷の首や遺体はどこへ行ったのか?墓地に眠ってるのは本物なのかについて解説していきます。

西郷隆盛の遺体はどこにある?

西郷隆盛は西南戦争の際に、味方に介錯され、その命を絶ちました。西郷隆盛の首は、政府軍の手によって実は見つけ出されていたのです。ここでは西郷隆盛の遺体がどうなったのかを詳しくご紹介していきます。

西郷隆盛の首を発見した男

西郷隆盛は西南戦争で善戦しますが、戦況が不利になり最後には鹿児島の城山という場所に立て籠もります。そこで周りを政府軍に囲まれてしまい、自分の最後を悟り仲間に介錯を頼むのです。

西郷隆盛の首は一旦土中に隠されますが、政府軍による捜索の末見つけ出されてしまいます。
西郷隆盛の首を見つけたのは、加賀藩士で、陸軍所属の千田登文せんだのりふみです。そして、参謀の山縣有朋やまがたありともによって検分が行われ、寺の墓地に丁寧に葬られることになります。

しかし、「西郷生存説」などが流布されたことによって、その首の行方は不明とされ、見つかっていた胴体も偽物なのではないかとの噂が広まりました。それを否定したのが、2014年に発見された千田登文が陸軍に提出するために書いた「履歴書」です。これは、金沢市にある千田の実家から発見されました。内容としては以下のようなものです。

「西郷ノ首ナキヲ以テ、登文二探索ヲ命ゼラル」

「探索ヲナシタル二、果シテ門脇ノ小溝二埋メアルヲ発見シ、登文、首ヲ●(もたら)シテ、浄光明寺二到リ山県(有朋)参軍、曾我(祐準)少将に呈ス」

このように、発見時のとても詳しい様子が書かれていたのです。この履歴書のおかげで、西郷隆盛の首はきちんと発見されていて、丁寧に埋葬されていたことが明らかになったのでした。

西郷隆盛の遺体は、西郷の死後どうなった?

西郷隆盛の首は丁寧に埋葬されていたことがわかっていますが、胴体はどうなったのでしょうか?実は、西郷隆盛の胴体もきちんと発見されています。発見したのは陸軍の佐竹義方さたけよしかたです。佐竹は西郷隆盛のいた城山正面岩崎谷の攻撃を担当していました。佐竹らは遺体を見つけ、それを浄光明寺へと運びました。その後、検分が行われそれが西郷隆盛のものであると確認されたのです。

西郷隆盛の首が眠っている墓地はどこにある?

西郷隆盛の首も胴体も見つかって、浄光明寺(現:南洲墓地)に運び込まれ、検分が行われました。その後当時、鹿児島県令であった岩村通俊いわむらみちとしが、山縣有朋らに許可を取り、浄光明寺の境内に安置されていた西郷軍160名の遺体を丁寧に埋葬したとされています。西郷軍は賊軍として扱われている身でしたが、岩村は県民感情を重要視し、このような行動に出たのでしょう。

また、1881年(明治14年)になると、西郷軍の生き残りである河野主一郎こうのしゅいちろうが釈放されます。河野は西南戦争の際に九州各地で戦死した西郷軍約1800名の遺骨を集め、南洲墓地を整備しました。こうして、1883年(明治16年)に南洲墓地は現在の形が完成するのです。

西郷隆盛の最後の姿を簡単に解説

西南戦争で戦況が不利になると、西郷隆盛は鹿児島へと戻り、城山に籠もります。しかし政府軍に囲まれ、西郷隆盛は股と腹部に銃弾を受けてしまい自分の最後を悟るのです。そして、近くにいた別府晋助べっぷしんすけ
「晋どん、晋どん、もう、ここらでよか」と言い、介錯を頼みます。

将士が跪いて見守る中、西郷隆盛は跪坐し襟を正し、遥かに東方を拝礼しました。遥拝が終わり、切腹の準備が整ったところで、別府によって介錯されその生涯を閉じます。別府は介錯する際に、「ごめんなったもんし(お許しください)」と叫んだそうです。

明治に入り、特権を排除された士族たちの思いとともに西南戦争を戦った西郷隆盛は、自らの命と引き換えに戦争を終わらせたのです。

西郷隆盛の最後の姿に関しては、こちらの記事でも詳しく解説しております。

>>西郷隆盛の死因は腫れ物?西南戦争での最後の様子と最後に残した言葉とは?>>

西郷隆盛の遺体を見分けれたのはなぜ?

介錯され、首と胴体が分かれてしまった西郷ですが、首のない胴体をどうして見分けることが出来たのでしょうか?見分けるポイントとしては、3点ありました。
【西郷隆盛の遺体を見分けれた方法】

  • 幼少期の右腕の古傷
  • 病気による巨大な陰嚢水腫
  • 右大腿部の銃創

・幼少期の右腕の古傷
西郷隆盛は11歳のときに、ケンカの仲裁に入り、右腕を刀で切られて骨折してしまったことがあります。その傷の後遺症で肘が曲がり、刀が握れなくなってしまいました。そのため、武芸の道を断念し、学問に励んだそうです。この傷が見分けるポイントの1つとなりました。

・病気による巨大な陰嚢水腫
西郷隆盛は沖永良部島へと島流しをされた際、本当にひどい環境での暮らしを強いられました。そして、バンクロフト糸状虫という寄生虫に侵され、リンパ系に大きなダメージを受ける風土病・フィラリア感染症を発症してしまいます。
その後遺症から、皮膚や皮下組織が象の皮膚のように硬くなる象皮病を併発し、肥大化してしまった陰嚢水腫に苦しめられました。晩年は、巨大化した陰嚢が邪魔で馬に乗れなくなり、籠で移動していたくらい大変だったようです。

・右大腿部の銃創
西郷隆盛は、城山で政府軍に囲まれた際に銃弾を受けてしまっています。その銃弾による傷が、西郷隆盛だと確認するポイントとなったようです。

西郷隆盛にまつわる伝説

西郷隆盛は様々な人から愛され、そして英雄視されていました。そのためか、西南戦争で死んだとされていたはずが、いつの間にか西郷隆盛の生存説が噂されるようになりました。ここでは、西郷隆盛生存説にまつわるエピソードをご紹介していきます。

西郷隆盛はロシアに逃げ延びた?

西郷隆盛生存説が正しかったとした場合、西郷隆盛はどのようにして生き延びたのでしょうか?
有力な候補として挙げられていたのが、ロシアに逃げ延びた説です。逃げ延びたルートとしては、城山陥落の前々夜、重囲を脱出して串木野の嶋平浦から和船で甑島に渡り、そこからロシアの軍艦に乗り込みウラジオストック港に上陸したというもの。そして、西郷隆盛はロシア兵営に身を隠し、ロシア兵の訓練を始めます。

しかし、1884年(明治17年)頃、黒田清隆が欧州巡回の際にこのことを耳にして、密かに西郷隆盛を訪ねてきたのです。そこで2人は日本の将来について語り合い、やがて帰朝することを約束します。西郷隆盛がロシア政府にこのことを申し出たところ、西郷が去ってしまうことは惜しいが、故国を思う気持ちを察し、それならば軍艦で護送しようということになりました。

1891年(明治24年)にロシアのニコライ皇太子が日本を訪問することになっていたので、それに合わせて帰国するのではないかという新聞記事まであったそうです。しかし、これを受けて大津事件が発生します。大津事件とは、来日したニコライ皇太子が滋賀県で、警備していた津田三蔵巡査に切りつけられてしまった事件です。

この津田がニコライ皇太子を切りつけた理由には、西郷隆盛生存説が絡んでくると言われています。西郷隆盛がニコライ皇太子とともに帰国すると、西南戦争で政府軍として功績をあげていた津田は、「自分の勲章が剥奪されるのではないか?」と不安になってしまったのです。
この大津事件は、どれだけ西郷生存説が信じられていたのかということが伺えますね。

西郷隆盛は星になった?

ロシアに逃げ延びた説以外にも、西郷隆盛にまつわる噂は流れていました。
それは、西郷が星になったというもの。
西南戦争が起こった1877年(明治10年)、火星の大接近があり、最接近時には距離5630万km、光度-2.5等あまりまで輝いていました。当時の人はこれが火星であるとは知らずに、
「急に現れた異様に明るい星の赤い光の中に、陸軍大将の正装をした西郷隆盛の姿が見えた」
と噂し始めるのです。噂は瞬く間に広まり、人々は火星のことを「西郷星」と呼ぶようになりました。

ちなみに、西郷星の周りではもう1つ目立つ星が、近づいたり離れたりしていました。この星を見た人々は、この星は西郷隆盛の信奉者である桐野利秋きりのとしあきではないかと考え、「桐野星」と名付けます。この星の正体は土星でした。

まとめ:西郷隆盛の首は、遺体とともに南洲墓地に埋葬されている

西郷隆盛の首は、西郷生存説によって一度行方不明になったと言われていました。しかし、千田登文の履歴書が見つかったことにより、西南戦争後すぐに首も遺体も見つかっていたことがわかり、きちんと南洲墓地に埋葬されました。
今回の内容をまとめると、

  • 西郷隆盛は、西南戦争の際に別府晋助によって介錯された
  • 西郷隆盛の首と遺体は西南戦争後すぐに政府軍によって見つけられた
  • 西郷隆盛の首と遺体は、当時の鹿児島県令・岩村通俊らによって南洲墓地に埋葬された
  • 西郷隆盛の首のない遺体を見分けたポイントは、古傷と巨大化した陰嚢水腫と銃創
  • 西郷隆盛の死後、西郷生存説が噂された

当時の人々は、一際輝く星を西郷星と名付けました。それは、人々がいかに西郷のことを英雄視し、愛していたのかということが伺えますね。

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