平清盛が太政大臣になったのはいつ?なぜなれたのか簡単に解説!
平清盛は平安時代末期の武将で、武士として初めて太政大臣(だじょうだいじん)に任命されました。
政治の中心が貴族だった時代、貴族以外の人物が太政大臣に任命されたことは極めて異例な事でした。
平清盛の働きは、後の武家政権を作るきっかけとなったのです。
今回は、平清盛が太政大臣になったのはいつか?なぜ太政大臣になれたのか?当時の時代背景や処世術などを併せて解説していきます。
目次
平清盛が太政大臣になったのはいつ?
平清盛は、1167年(仁安2年)に、武士として初めて太政大臣を任命されました。
太政大臣は、政治のトップとなる名誉ある役職です。
最高の権力と地位を手に入れた人物だけが、太政大臣になることができるのです。
当時の天皇は憲仁親王でしたが、後白河上皇が院政を敷いていました。
つまり、平清盛は、後白河上皇に評価され、太政大臣になったといってもよいかと思います。
当時の平清盛の年齢は50歳でした。
平清盛が太政大臣になれた理由を簡単に解説
平清盛は、いきなり太政大臣になれたたわけではありません。
政略結婚などで地位を固め、昇進を重ね、平清盛は太政大臣に上り詰めたのです。
平清盛が太政大臣に上り詰めるまでの様子を、年表形式で簡単に説明していきます。
【平清盛が太政大臣に上り詰めるまでの軌跡】
・1156年(保元元年)
保元の乱が勃発。平清盛は、後白河天皇方に付き、勝利しました。播磨守、大宰大弐となります。
・1159年(平治元年)
平治の乱が勃発。平清盛は、後白河上皇の近臣である信西方に付き、勝利します。
勝利後、清盛は武士の第一人者として朝廷の軍事力・警察力を掌握し、急速に政治的地位を高めていきます。
当時、二条天皇と後白河上皇が政治的な対立を深めていました。
平清盛は天皇と上皇の双方に仕えることで、磐石の体制を築いています。
※二条天皇に仕える
平清盛の妻 平時子が二条天皇の乳母だったので、天皇の乳父として後見役となり、検非違使別当・中納言になる。
※後白河上皇に仕える
院庁の別当になる。
・1161年(応保元年)
後白河上皇と平滋子(平清盛の妻「平時子」の妹)の間に第七皇子「憲仁親王(後の高倉天皇)」が誕生。
上皇派の家臣たちが「憲仁親王」の立太子を画策し、激怒した二条天皇に排除されます。
平清盛はすかさず二条天皇の御所に武士を宿直させて警護をすることで、二条天皇支持の姿勢を明確にしました。
これにより、政界からの排除を回避できただけでなく、二条天皇の厚い信任を得ることにも成功します。
平清盛は、院政を停止させられた後白河上皇にも、蓮華王院(三十三間堂)を造営する配慮をみせています。
この頃、関白の「藤原基実」に平清盛の娘「盛子」を嫁がせ、摂関家とも緊密な関係を結んでいます。
・1165年(長寛3年)
二条天皇が亡くなり、生後7か月の六条天皇が天皇になります。
六条天皇は幼少であったため、「藤原基実」が摂政として政治を主導することになり、平清盛も「藤原基実」の義父として大納言に昇進します。
・1166年(永万2年)
藤原基実が急死し、後白河上皇の院政が復活します。平清盛は、「藤原基実」の私的家領を後家の「盛子」に相続させることで、摂関家領を管轄とします。
憲仁親王が立太子すると平清盛は春宮大夫、内大臣となります。
・1167年(仁安2年)
平清盛は太政大臣に任命される。
平清盛の太政大臣になるまでの年表からは、数々の政治権力の争いを、巧みに潜り抜け、地位をどんどん高めていっている様子が感じられますね。
平清盛が太政大臣になったきっかけ「保元の乱」
平清盛が太政大臣になったきっかけは、1156年(保元元年)に起きた「保元の乱」とも言えます。
保元の乱は、後白河天皇と崇徳上皇の対立によって勃発したと言われています。
平清盛は、後白河天皇側として参戦、源義朝も仲間として参戦しています。
平清盛の叔父は崇徳上皇軍として従軍しています。つまり、保元の乱は、源氏も平氏も同じ氏の中でも後白河天皇軍と崇徳上皇軍に分かれて戦ったというわけです。
戦いでは、後白河軍による崇徳軍の拠点への夜襲が上手くいき、後白河天皇の勝利に終わりました。
この戦いでの功績を認められ、平清盛は播磨守に任命されます。
播磨守とは播磨国の受領国司で、天皇の近臣が任命される役職でした。
保元の乱によって、武士の政治的な地位は向上したのです。
平清盛が権力を強めるきっかけとなった「平治の乱」
保元の乱から3年後、今度は天皇の近臣らによる権力争いが勃発します。平治の乱です。
この平治の乱で勝利したことにより、平清盛の権力が高まっていくのです。
保元の乱後の平清盛は、後白河天皇の近臣の僧 信西と協力関係を築き上げていました。
信西と平清盛が権力を強めている事を危惧した後白河天皇の側近である藤原信頼は、褒美が少ないことに不満を抱いていた源義朝に近付いて、信西と平清盛を倒すように仕向けたといわれています。
源義朝は、平清盛が京の都を留守にした時を見計らって兵を挙げ、後白河上皇と二条天皇を幽閉してしまいます。
この時、信西も逃げきれずに自害に追い込まれました。
事件を知った平清盛は京に戻り、後白河上皇と二条天皇を救出します。
上皇と天皇が救出されたことで、貴族達も平清盛の味方となり、源義朝の軍勢に勝利するのでした。
平治の乱の後、藤原信頼は処刑され、源義朝も家来の裏切りで命を落とします。
この戦いが初陣だった源頼朝も捕らえられ、伊豆国に流刑されてしまいます。
こうして平治の乱の後、源義朝を失った源氏は大きく衰退し、平氏一強の時代に突入していったのです。
平清盛は政略結婚を積極的に行った
平清盛は、地位を固めるための政略結婚を積極的に行っていました。
【平清盛の行った政略結婚の代表例】
- 継室「平時子」=二条天皇の乳母→二条天皇の後見人となった
- 継室「平時子」の妹「平滋子」=後白河上皇の妻→上皇と親戚になった
- 娘(三女)の「徳子」=高倉天皇の妻→天皇の義父になった
- 娘(四女)の「盛子」=関白の藤原基実の妻→摂政の補佐となった
- 娘(六女)の「完子」=関白の藤原基通の妻→摂関家との関係を強めた
平清盛の継室である平時子も、二条天皇の乳母であり、その縁で二条天皇の後見人になることに成功します。
後白河上皇にも妻 平時子の妹である平滋子を嫁がせていますし、高倉天皇に娘の徳子を嫁がせ安徳天皇が生まれています。
また、関白の藤原基実に娘の盛子を嫁がせています。
この政略結婚によって、藤原基実が摂政として政治を主導する際、平清盛も補佐として政治の中枢での存在感を高めることに成功したのです。
また、藤原基実が亡くなった際、私的家領は妻の盛子が相続し、摂関家領を平氏の管轄としたことも、政略結婚の成果の一つといえるでしょう。
ちなみに、藤原基実の息子である藤原基通にも娘の完子を嫁がせています。
藤原基実の前妻との子どもですので、血は繋がっていないとはいえ甥と叔母が結婚したことになります。
それだけ、平清盛が摂関家との緊密な関係を望んでいたということなのでしょうね。
平清盛は、自分自身の結婚も含めて、政略結婚を積極的にして地位を固めていったのです。
【平清盛の子供の一覧】
- 長男:平重盛
- 次男:平基盛
- 三男:平宗盛
- 四男:平知盛
- 五男:平重衡
- 六男:平維俊
- 七男:平知度
- 八男:平清房
- 長女:坊門信隆室
- 次女:藤原成憲室、後花山院兼雅室
- 三女:平徳子
- 四女:平盛子
- 五女:藤原信親室、後冷泉隆房室
- 六女:平完子
- 七女:御子姫君
- 八女:廊御方
- 養子:平清貞
- 養子:平清邦
平清盛は武士として初めて太政大臣になった
平清盛は、武家出身者としては、初めて太政大臣になった人物です。
これは、歴史的にみてもとても大きな出来事といえるでしょう。
なぜ武士が太政大臣になったことが、大きな出来事といえるのか?
太政大臣は、政治のトップの役職です。
そのような役職に武士が就任したという事は、武士の政治的な地位が向上したことを示しています。
つまり、平清盛が太政大臣になったという出来事は、有能な一人の人物の功績というだけでなく、武士が台頭する時代の幕開けを示す出来事であるといえるのではないでしょうか。
平清盛が就任するまで、太政大臣に就任したのは公家や皇族だけでした。
初代の太政大臣は天皇の息子が就任していますし、平清盛が就任するまでの歴代の太政大臣の役職は、公家の藤原氏の関係者によってほぼ占められていました。
平清盛が活躍していた頃の武士は、政治における地位は高くありませんでした。
武士はあくまで武に特化した存在であり、政治的な権力を持つのは天皇や公家だったからです。
武士である平清盛が太政大臣に就任したことは、当時としても驚きの出来事だったに違いありません。
太政大臣とはどんな役職?今ででいうと何?
太政大臣は、律令制における政治の最高機関「太政官」の長官のこと指す役職名です。
太政大臣は名誉職であり、ふさわしい人物がいた時のみ就任できるものでした。
太政大臣はふさわしい人物は「世の中の手本となるような人格者」であるとされており、適任者がいない場合は空席のままにされているものでした。
なお、太政大臣の定員は1名だけで、同時期に複数の太政大臣は存在しません。
つまり、太政大臣はめったに存在しない役職だったのです。
めったに存在しないからこそ、太政大臣に任命された人物は、最高の地位と権力を得た存在であることを示されたのです。
太政大臣は現代日本では、何に当たるものなのでしょうか?
ピッタリとあてはまるものを見つけるのは難しいですが、
太政大臣の政府のトップのという部分に注目するならば、当てはまるものは内閣総理大臣。
また、名誉職の部分に当てはまるものは、衆院議長が近いのかもしれません。
そして、「世の中の手本となるような人格者」に当てはまるならば、国民栄誉賞が相当するともいえるでしょう。
つまり、それら全てを組み合わせたものが、太政大臣であるとしても良いかもしれませんね。
武士で太政大臣になった人物は誰?
武家出身者で、生きている間に太政大臣となれたのは、日本の歴史の中では、平清盛・足利義満・豊臣秀吉・徳川家康・徳川秀忠・徳川家斉のわずか6名だけです。
【武士で太政大臣になった人物と任命された年】
- 平清盛…1167年(仁安2年)に任命。武家出身者で初めて太政大臣になった人物。
- 足利義満…1393年(明徳4年)に任命。室町幕府の第3代将軍。
- 豊臣秀吉…1586年(天正14) に任命。安土桃山時代の戦国武将。天下統一を成し遂げた。
- 徳川家康…1616年(元和2年)に任命。江戸幕府の初代将軍。
- 徳川秀忠…1623年(元和9年)に任命。江戸幕府の第2代将軍。
- 徳川家斉…1827年(文政10年)に任命。江戸幕府の第11代将軍。
武士として太政大臣になったのはわずか6名だけだったことからも、太政大臣は貴重な役職であることが伺えますね。
まとめ:平清盛は1167年、武士として初めて太政大臣になった
平清盛は、武士として初めて太政大臣になった人物で、武士の地位を格上げした人物だったんですね。
今回の内容をまとめると
- 平清盛は1167年、武士として初めて太政大臣になった
- 平清盛は持ち前の処世術の上手さで太政大臣に上り詰めた
- 太政大臣になった武士は6名だけである
太政大臣という役職は、本当に限られた人物しか就くことができない職で現在では総理大臣に相当するようなものです。
天皇と上皇が権力争いをしている難しい朝廷の環境内で、太政大臣まで上り詰めることができたのは、平清盛のもつ処世術の高さが絶対必要だっただろうなと感じました。