平清盛の伝説や祟りは本当?争いの歴史やゆかりの場所の逸話を交えて解説!
平清盛(1118(永久6)〜1181(治承5))は、平安時代末期の武将です。
平清盛は武士として初めて太政大臣に任命されたり、日本初の武家政権を打ち立てたりと様々な偉業を成し遂げています。そのせいか、平清盛にまつわる伝説や祟りの話はたくさん語り継がれています。
この記事では、平清盛の伝説や祟りは本当なのか?平清盛の争いの歴史やゆかりの場所なども交えて解説していきます。
目次
平清盛にまつわる伝説や祟り
平清盛にまつわる伝説や祟りは様々な話が存在しています。中には現実ではありえるのかどうか怪しい話もありますが、それほどまでに平清盛がすごかったという証拠かもしれません。
【平清盛にまつわる伝説や祟りの一覧】
- 日招き伝説
- 人柱禁止
- にらみ潮
- 平清盛は祟りで殺された?
日招き伝説
広島県呉市の南端にある警固屋と対岸の倉橋島の間に、音戸の瀬戸と呼ばれる海峡があります。
長さ約800m、幅約85mの潮の流れがはやいと有名な瀬戸です。
当時、平家の拠点は海沿いだったため、航路を主な交通手段としていました。
平清盛は厳島神社へ参拝するために開削することにします。
この時、平清盛は愛する巫女に
「ここを1日で開削すれば、あなたのお好きなようになさって」
というようなことを言われ、張り切って1日で終わらせようとします。
しかし、実際は工事は難航し、日が沈みかけても掘削作業が終わる気配がありません。
そこで、平清盛は山の岩の上に立ち、金の扇をかざして「返せ、返せ」と言いました。
すると、太陽が沈むこと無く、招き返されたのです。
平清盛が太陽を招き返したおかげで工事は1日で終わったと言われています。
当時の土木技術では1日で終わらせることなど不可能に近いです。
しかしながら、平清盛は太陽すらも操れてしまうくらいの大きな力を持っていたという証の伝説なのでしょう。
人柱禁止
当時、難しい工事や大きな工事を行う際には、神のご加護を得るために、生きた人間を神に捧げる、つまり人柱をたてて工事の完成を祈願していました。
しかし、平清盛は人命を尊重するために人柱をたてることを禁止します。
その代わりに、「一切経」を表面に書いた石(経石)を廃船に積んで船ごと沈めることにしました。
当時の人々は、神仏を敬い、祟りを恐れるのが当たり前。
そのため、平清盛のこの行為は非常識と取られてもおかしくない行為でした。
しかし、平清盛は非常に国際的かつ先進的な視点を持っていたため、迷信を排し、現実に寄り添った考え方を貫き通しました。
平清盛は、人の命を尊ぶ優れた政治家であったという現れなのかもしれません。
にらみ潮
平清盛が厳島神社に参拝に訪れた時のことです。
その際、厳島神社の神様が突然大蛇に変身して、平清盛に襲いかかってきました。
平清盛は音戸の瀬戸に逃げ込みましたが、向かい潮で船が進まなくなってしまいます。
自分で開削したにもかかわらず、自分のことを追い込んできた音戸の瀬戸に平清盛は腹を立て、潮を睨みつけると、潮がたちまち穏やかになり、大蛇から逃げることができたという伝説です。
平清盛は祟りで殺された?
平清盛の死因は、原因不明の高熱による「あつち死」と言われています。
その高熱の原因がわからなかったため、当時の人々は「平清盛は祟りで殺されたのだ」と考えていたようです。
平清盛が祟りで殺されたのだと考えられていた理由は、主に3つあげられます。
- 権力をほしいままにし、権益を独占したこと
- 後白河法皇と権力闘争をして追放したこと
- 東大寺・興福寺を焼き討ちしたこと
どれも権力者であれば当然のこととも言える行為なのですが、当時は先程もお伝えしたように祟りを信じる風潮があったために、この祟りの話も広まっていったのでしょう。
原因不明とされている高熱ですが、中にはマラリアやインフルエンザといった感染症だったのではないかとする説もあるようです。
平清盛の争いの歴史を簡単に解説
様々な伝説を生み出した平清盛ですが、どのような争いを経て権力を握っていったのでしょうか?
ここでは、平清盛の争いの歴史を簡単に解説していきます。
【平清盛の争いの歴史】
- 保元、平治の乱
- 鹿ヶ谷の陰謀
- 治承、寿永の乱(源平合戦)
保元・平治の乱
まずあげられるのが、保元・平治の乱です。
平清盛はこの争いを足がかりに中央政治に進出することになります。
この争いは、元々皇室と摂関家の内部抗争がきっかけで始まりました。
先の保元の乱では、平清盛は源義朝とともに後白河天皇の下で戦い、勝利を収めます。
しかし、その後の平治の乱では、保元の乱で味方であった源義朝と戦うことになってしまうのです。
源義朝が後白河上皇を裏切った結果、平清盛によって討伐され、源氏は壊滅的な打撃を受けました。
この時に、平清盛によって流刑にされたのが、源頼朝です。
2022年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、その流刑された源頼朝が描かれています。
そして、源氏は勢力を立て直すこともできず、この後しばらくの間、武家のトップとして平家が君臨し続けることになるのです。
また平清盛は、平治の乱の功績から武士の第一人者となり、朝廷の軍事力・警察力を掌握し、武家政権樹立の礎を築き上げました。
鹿ヶ谷の陰謀
保元・平治の乱で権力を握った平清盛は、その後太政大臣に任命されるなど、さらに勢力を拡大し、朝廷での権威を強めていきました。
その一方で、平家に対する不満を持つ声も膨れ上がりました。
その最も象徴的な出来事が、鹿ヶ谷の陰謀です。
この争いは、後白河上皇の側近である藤原成親が、後白河上皇を操り平家の打倒を謀りました。
しかし、平清盛はこれを鎮圧し、院政における院近臣の排除を行います。
この事件の後も、平家に対する反発の声は絶えなかったため、平清盛は後白河上皇を幽閉することにします。
そして、平家の権力をより一層強めるために、自身の孫である安徳天皇を即位させたのです。
こうして、平清盛は政治の実権を握るようになっていったのです。
治承・寿永の乱(源平合戦)
安徳天皇が即位したことに、強烈な不満を抱いた人物がいました。
その人物は、後白河上皇の子供である以仁王です。
安徳天皇が即位したことにより、自身の即位する望みが絶たれてしまったからです。
そこで、以仁王は源頼政と手を組み、打倒平氏を掲げて挙兵します。
ここから始まる争いが、治承・寿永の乱です。
後に鎌倉幕府を開くことになる源頼朝らが挙兵し、富士川の戦い以降、平家はどんどん敗戦を重ねていくことになります。
そんな中、平清盛も熱病を患い死亡してしまいます。享年64歳。
平清盛が死亡してからは、源氏が勢いを増し、平清盛の死後たったの4年で平家は滅亡することになります。
こうして、平清盛・平家の天下は終わりを迎え、鎌倉幕府へと移っていったのです。
平清盛のゆかりの場所
平清盛の伝説が垣間見える場所など、平清盛ゆかりの場所はいくつか存在しています。
ここでは、その平清盛のゆかりの場所を逸話などを交えてご紹介していきます。
【平清盛のゆかりの場所】
- 厳島神社(広島県)
- 能福寺「平清盛廟」(兵庫県)
- 音戸の清盛松(広島県)
厳島神社
所在地:広島県廿日市市宮島町1-1
日本三景の一つでもある宮島は、平清盛とゆかりの深い場所です。
なぜならば、平清盛はこの厳島神社の大改修を行ったからです。
厳島神社は世界でも珍しい、寝殿造りの海上社殿が存在しています。
平清盛は海の神様として知られていた厳島神社を深く信仰していました。そのため、大改修を行い厳島神社の権威を高めたのです。
また、宮島には厳島神社以外にも、平清盛の妻の亡骸が流れ着いたとされる場所に建立された「二位殿燈籠」や、平清盛の銅像などもあります。
能福寺(平清盛廟)
所在地:兵庫県神戸市兵庫区北逆瀬川町1-39
能福寺は、平清盛が得度(僧侶となるための出家の儀式)をした場所と伝えられています。
また、平清盛が京都で没すると、住職の円実法眼が清盛の遺骨をこの地に持ち帰って法華堂に納めたとも言われていますが、平清盛の遺骨の所在は確定されていないようです。
音戸の清盛松
所在地:広島県呉市警固屋
平清盛の開削した音戸の瀬戸の西側に「伝清盛塚」が存在します。
岩礁の上に石垣を築き小島にしたものなのですが、周辺49m余りのこの塚に覆いかぶさるようにクロマツが繁茂しているのです。
このクロマツのことを「清盛松」と呼んでいます。
この清盛松は1719年(享保4年)に、一度枯死し植え替えられたようです。
この松の色が悪くなると不吉の前兆であるとして、地元の人々が根本にたこのゆがき汁をそそいで、生気を取り戻させたという逸話も伝えられています。
まとめ:平清盛の伝説には清盛の人柄の良さが表されていた
平清盛は、鎌倉幕府と対立したこともあり、悪者であるというように語られることも少なくありません。(幕府を善とする風潮があったため)
しかし、伝説話からも垣間見えるように、平清盛自身は、とても頭の切れる人格者であったのではないでしょうか?
今回の内容をまとめると、
- 平清盛は、保元・平治の乱を経て中央政治に進出した
- 武士として初めて太政大臣に任命されるなど、強大な権力を手にしていた
- その権力の大きさを表しているかのような伝説話もたくさん生まれた
- 平清盛が不満を買いすぎて、祟りで殺されたのではないかという話もあった
- 伝説からみる平清盛は、人命を大事にし、従来の考えに囚われない、革新的な人物であった
平清盛は、捕えた敵将の子供を助命してしまうというような優しい面があり、日宋貿易に力を入れるなど政治家としても優秀な人物でした。
そのすごさは、きっと同時代の人には理解し難かったのでしょう。そのため、様々な伝説や祟りなどの話がうまれたのでしょうね。