黒田官兵衛の子孫は現在も続いてる?家系図で簡単に解説!日銀総裁も?
黒田官兵衛(1546(天文15)〜1604(慶長9))は、戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した武将です。
豊臣秀吉の参謀として有名で、竹中半兵衛と並んで「両兵衛」と呼ばれていました。
また、2014年の大河ドラマ『軍師官兵衛』では、岡田准一さんが演じられていたことでも話題となりました。
そんな黒田官兵衛の子孫は現在も続いているのでしょうか?この記事では、黒田官兵衛の家系図を見ながら、その子孫について簡単に解説していきます。
目次
黒田官兵衛の家系図をわかりやすく解説!
黒田官兵衛の家族構成
【黒田官兵衛のプロフィール】
- 黒田官兵衛(くろだかんべえ)
- 別名:黒田孝高/黒田如水
- 1546年(天文15年)〜1604年(慶長9年) 享年:59歳
- 出身地:播磨国(現在の兵庫県)
- 父:黒田職隆
- 母:お岩
- 正室:櫛橋光
- 子:長政、熊之助
- 養子:一成、松寿丸
黒田官兵衛は、1546年(天文15年)に黒田職隆の嫡男として、播磨国の姫路にて生まれました。
その後、黒田官兵衛は22歳のときに櫛橋光を正室として迎えます。
黒田官兵衛はこの時代の武将としては珍しく、側室を全く持ちませんでした。
つまり、正室・光だけを妻とした愛妻家だったと言われています。
そんな2人の間には、長政、熊之助という2人の子供が生まれましたが、熊之助は1597年(慶長2年)に朝鮮で戦死してしまいます。
黒田官兵衛の後を継いだのは嫡男の長政でした。
黒田官兵衛の子孫は現在も続いている?
黒田官兵衛と正室・光との間には子供を2人もうけました。
その黒田官兵衛の子孫は現在まで続いているのでしょうか?
ここでは、黒田官兵衛の子孫について簡単に解説していきます。
黒田官兵衛の先祖は天皇?
黒田官兵衛の先祖は天皇だという話があります。
黒田官兵衛の出身でもある黒田氏のルーツは、第59代宇多天皇にはじまる近江の佐々木源氏の流れで、京極氏を称した氏信の孫の源判官宗清が近江の黒田邑に住んだことからだと言われています。
つまり、遡っていくと、黒田官兵衛の先祖には宇多天皇がいるということですね。
ちなみに、黒田邑に住んでいた黒田氏は代々京極家に仕えますが、宗清の5代の孫・高政が軍令違反で黒田邑にいられなくなってしまい、1511年(永正8年)に備前邑久郡の福岡邑に移ったのでした。
この福岡邑に住んでいたことから、黒田官兵衛の子である長政は、福崎に築城をする際にその場所を「福岡」に改名したと言われています。
黒田家はお家騒動があった?
黒田官兵衛の黒田家には実は、加賀騒動、伊達騒動とともに日本の「三大お家騒動」と呼ばれるくらい大きなお家騒動がありました。それが黒田騒動です。
これは、黒田官兵衛の孫である2代目藩主黒田忠之の代での出来事でした。
黒田忠之の父である黒田長政は、忠之の短気で粗暴な性格が藩主に向かないと考え、弟の長興に家督を継がせようとしていました。
しかし、栗山大膳という古参の筆頭家老が長政を説得した結果、結局家督は順当に忠之になってしまいます。
こうして忠之は大膳に大きな恩ができたのですが、忠之にとって大膳は藩運営に口を出してくる煙たい存在でしかありませんでした。
そこで忠之は大膳のことを無視して、自分の意のままになる側近を家老にして重用。
当然、忠之と大膳の関係は険悪になっていきます。
そして、1632年(寛永9年)に、大膳がついに「忠之に謀反の気配がある」と幕府に訴え出てしまいます。その結果、福岡藩は一度改易となってしまいましたが、藩祖以来の功績を考慮されて再度取り立てられるという形式的な処分に終わり、忠之もお咎めなしでした。
しかし、大膳は陸奥国の南部藩に飛ばされてしまいました。
幕府も巻き込んだ騒動を起こしてしまった黒田家。これをきっかけに九州における大名権力が黒田家ではなく、次第に熊本の細川家に移っていったそうです。
黒田官兵衛の子孫は途絶えてしまった?
黒田官兵衛から長政に続き、その後も順調に子孫が続いていっていたと思われていましたが、それも途中で途絶えることになってしまうのです。
途絶えることになってしまった要因は、5代目当主・黒田宣政となります。
この宣政は元々体が弱く、政務を執ることができませんでした。
また、子供にも恵まれなかったため、支藩の直方藩主の子で従弟にあたる黒田継高に家督を譲ることにしたのです。
継高に家督を譲ったため、福岡藩は継続できましたが、官兵衛の直系の子孫は途絶えることになってしまいました。
さらに、継高に譲って安泰かと思われた矢先、継高が次期当主として期待していた息子たちは次々と亡くなっていってしまいます。
今度は黒田家の血統の跡継ぎが途絶える大ピンチに陥ってしまうのです。
そこで黒田一門は話し合いの結果、一橋徳川家から婿養子をとり、8代将軍吉宗の孫に当たる治之を7代目藩主とすることにしました。
福岡藩の永続を優先した苦渋の決断でした。
黒田家現当主は東京生まれの不動産会社社長?
黒田官兵衛の直系の子孫は途絶えてしまいましたが、黒田家自体は家督を絶やさぬために養子を迎えるなどして現代まで継続させてきました。
現当主は16代目当主・黒田長高さんが務めてらっしゃいます。
長高さんは、なんと不動産会社を立ち上げ社長をされています。
その会社の名前は、祖先にちなんで「如水興産株式会社」だそうです。
如水とは、黒田官兵衛が出家した後の名前ですね。
黒田官兵衛の子孫にはどんな人がいる?
黒田官兵衛の直系の子孫は途絶えてしまいましたが、黒田家は現在まで続いていました。
現在まで続いた黒田家の子孫の中には様々な偉業を成し遂げた人物がいます。
ここでは、特に有名な子孫をご紹介していきます。
黒田官兵衛の子孫|本草学研究者 黒田斉清・黒田長溥
黒田官兵衛から数えて11代目にあたる黒田斉清と12代目の黒田長溥は、本草学で名を挙げることになりました。
本草学とは、薬用となる動植物を調べる学問で、現代の言葉では博物学に近く、江戸時代には盛んになり、大名の間でも流行っていました。
特に斉清は、江戸時代の愛物産家(=博物愛好家)番付では、東の前田利保に対し、西の黒田斉清と言われていたそうです。
この2人の影響もあり、その後も黒田家は代々、博物愛好、鳥類研究の家系が続くことになります。
15代目の長禮は、日本で初めて鳥の研究で学位を取得し、近代日本鳥類学草創期に大きな貢献をします。
さらに、16代目の長久も日本を代表する鳥類学者として戦後の日本鳥類学の中心人物として活躍しました。
黒田官兵衛の子孫|日銀総裁 黒田東彦
日銀の総裁である黒田東彦氏も、黒田官兵衛の子孫であるという話もあります。
これは、黒田日銀総裁が三重県総務部長をしていたときに、藤岡和美氏が三重県久居市長をされており、家族ぐるみのお付き合いをしていたそうです。
「ご先祖は戦国時代の智将、九州の黒田藩主・黒田官兵衛(後に如水)と伺っています」
と和美氏がブログで書かれているのです。
そのため、黒田日銀総裁は官兵衛の子孫であると言っても間違いないでしょう。
まとめ:黒田官兵衛の直系の子孫は途絶えてしまったが、黒田家は現在まで続いている
黒田官兵衛は2人の子孫を残すことに成功したものの、5代目当主の黒田宣政が病弱で子供を残すことができなかったため、直系の子孫は途絶えてしまいました。
しかし、その後養子を迎えるなどして、黒田家自体は現在まで続いているのでした。
今回の内容をまとめると、
- 黒田官兵衛は側室をもたず、正室を1人しか持たなかったくらいの愛妻家だった
- 正室・光との間には2人の子供を授かった
- 5代目当主・黒田宣政が病弱で子供ができなかったため、官兵衛の直系の子孫は途絶えた
- 黒田家自体は養子を迎えるなどして現在まで続いている
- 黒田家の子孫には、本草学研究者や日銀総裁が存在する
家を存続させるためにたくさんの妻を持つのが当たり前の時代に、正室一人しか持たなかったというところに、黒田官兵衛の愛を感じます。
しかしながら、そのせいで子供があまりおらず、直系の子孫が途絶えてしまったのではないかと思うと少し残念でもあります。