水戸光圀の家系図を簡単に解説!子孫は現在も続いてる?水戸徳川家とは?
水戸光圀(1628(寛永5)〜1701(元禄13))は、江戸時代前期に活躍した水戸藩の第二代藩主です。
ドラマ『水戸黄門』などでその名前を聞いたことがある人も多いでしょう。
その水戸光圀の子孫は現在も続いているのでしょうか?
この記事では、水戸光圀の家系図を見ながら、その子孫や、水戸徳川家について簡単に解説していきます。
目次
水戸光圀の家系図をわかりやすく解説!
水戸光圀の家族構成
水戸光圀(みとみつくに)/徳川光圀(とくがわみつくに)
水戸光圀(みとみつくに)/徳川光圀(とくがわみつくに)
1628年(寛永5年)〜1701年(元禄13年) 享年:74歳
父:徳川頼房 母:久昌院
正室:近衛尋子
側室:親量院
子供:松平頼常
水戸光圀(徳川光圀)は、1628年(寛永5年)に水戸徳川家当主・徳川頼房の三男として生まれました。
若い頃は、兄を差し置いて世子に決まってしまったが故に複雑な思いを抱え、不良になってしまうなどしていたようです。
1652年(承応元年)に側室・親量院との間に頼常が生まれますが、その子は生まれた翌年には光圀の兄である頼重の高松城に送られ、そこで育てられることになります。
その後、1654年(承応3年)に尋子を正室に迎えましたが、尋子は結婚して5年後に亡くなってしまいます。そのため、2人の間に子供はできませんでした。
水戸光圀は生まれることを許されなかった?
水戸光圀は父親である頼房から生まれることを許されていなかったという話があります。
なぜかというと、母親である久子が、光圀を妊娠したときに正室ではなかったからです。
久子は元々奥付きの老女の娘だったのですが、出入りするうちに頼房の寵愛を受けるようになり、久子は光圀の兄である頼重を妊娠するのですが、
「水になすように(水子にするように)」
と、頼房は堕胎を要求するのです。
しかし、久子の両親は命令に従わずに出産をさせました。
そしてその後、光圀も妊娠するのですが、同様に頼房は堕胎を要求します。
しかし、やはり久子はこれを拒否し光圀を生むことにするのです。
久子が要求を飲んでいたら、光圀はいなかったかもしれないということですね。
水戸光圀は正室・尋子しか愛さなかった?
水戸光圀は正室を迎える前に一人だけ側室がいました。
しかし、その側室との間に生まれた子は生まれてすぐに兄の下へ送り、
子が13歳のときに初対面を果たしますが、親しみの様子を見せなかったとされています。
その後、正室・尋子を迎えますが、たったの5年のみの結婚生活となり、子供をもうけることはできませんでした。
普通であれば、その後また継室などを迎え子孫を残そうとするのですが、
光圀はそれをせず、生涯正室は尋子一人だけとしたのです。
このことから、光圀は尋子のことのみを一途に愛していたことが伺えます。
水戸光圀は水戸黄門ではない?
水戸光圀というと、ドラマでお馴染みの水戸黄門だと考える人が多いでしょう。
しかし、実際は異なる人物なのです。
確かに水戸黄門のモデルは水戸光圀ですが、水戸光圀は水戸黄門のような行動はしていません。
例えば、水戸黄門は諸国を漫遊していましたが、光圀は江戸と水戸を往復したほかは、日光参詣と鎌倉に旅したくらいだったそうです。
つまり、光圀は水戸黄門のモデルであったけれど、本人ではないということですね。
水戸光圀の子孫は現在まで続いている?
水戸光圀の子供は側室との間に生まれた頼常だけであったと言われています。それでは、その子孫は現在まで続いているのでしょうか?ここでは、光圀の子孫について簡単に解説していきます。
水戸光圀の血筋は途絶えた?
水戸光圀は、その生涯で頼常一人だけしか授かることができませんでした。
そして、その頼常は子供を2人授かりますが、2人とも先立たれてしまいます。
そのため、光圀の血筋はここで途絶えてしまったということになります。
水戸徳川家は現在まで続いている
水戸光圀は水戸藩二代目の藩主です。
そのため、本来であれば光圀の血筋が途絶えてしまったら、水戸徳川家も途絶えてしまうはずです。
しかし水戸徳川家は現在まで続いています。
それは、水戸藩三代目藩主を実子ではなく、養子である綱條に継がせたからです。
そして、この綱條は、光圀の兄である頼重の子供になります。
光圀の子・頼常は高松藩二代目藩主に、兄の頼重の子・綱條は水戸藩三代目藩主になりました。
どうしてお互いの子供を交換して藩主を継がせることになったのでしょうか?
それは、光圀が兄である頼重を差し置いて水戸徳川家の家督を継いでしまったことに、負い目を感じていたからだと言われています。
自分の次の代を頼重の子に譲ることにより、水戸藩を頼重の血統にしようとしたのでしょう。
そして、その後綱條から続く水戸徳川家は、そのまま順調に続き、現在は十五代当主に徳川斉正氏がなっています。
徳川斉正氏は、東京海上日動火災保険の執行役員をなさっている他、徳川ミュージアムの理事長や、サッカークラブの水戸ホーリーホック後援会会長を務めるなど、多岐にわたって活躍されています。
水戸光圀の出身の水戸徳川家とは?
光圀は水戸徳川家の出身です。
この水戸徳川家とはいったいどのような家なのでしょうか?
ここでは、水戸徳川家について簡単に解説していきます。
水戸徳川家とは、徳川御三家の1つ
水戸徳川家とは、徳川御三家の1つです。
徳川御三家とは、江戸時代において絶対的権力を持っていた徳川将軍家に次ぐ家格を持ち、徳川姓を名乗ることや、三つ葉葵の家紋の使用を許されていた別格の家のことを指します。
徳川御三家は、
- 尾張徳川家
- 紀伊徳川家
- 水戸徳川家
の三家があります。
この中でも、水戸徳川家は他の二家に比べると格下であったという話もありますが、一般的には御三家として扱われています。
水戸徳川家には支系がある?
水戸徳川家には、御連枝と呼ばれる支系がありました。
簡単に言えば分家のようなものです。
水戸徳川家の御連枝には、
- 讃岐国高松藩の高松松平家
- 陸奥国守山藩の守山松平家
- 常陸国府中藩の府中松平家
- 常陸国宍戸藩の宍戸松平家
の4家がありました。
水戸徳川家は、この4家と相互に養子のやり取りをしながら、支え合ってきました。
そして、このおかげで他家から養子を迎えずに済んだため、現在まで頼房の血統を残すことに成功したのです。
まとめ:水戸光圀の血筋は途絶えてしまったが、水戸徳川家は現在まで続いていた
水戸光圀の子供は一人しかおらず、その子も子供を授かりましたが早くに亡くし、光圀の血筋は途絶えてしまっています。
今回の内容をまとめると、
- 水戸光圀は側室との間に子供を一人もうけたが、その子は兄の頼重の高松城へと送ってしまった
- 水戸光圀は、正室は尋子だけしか持たず、2人の間には子供はできなかった
- 光圀の子・頼常は子供をもうけたが、早くに亡くしてしまい、光圀の血筋は途絶えてしまった
- 水戸徳川家は、兄である頼重の子・綱條が後を継ぎ、現在まで続いている
水戸光圀が当主を務めていた水戸徳川家は、兄である頼重の子・綱條が後を継いだことにより、現在まで続いています。
水戸黄門のモデルとして、有名な水戸光圀の血が途絶えているのは、少し残念ですが、水戸徳川家が現在も続いているのは、歴史ロマンがありますね。