楠木正成は「悪党」だった?悪党から忠臣への変遷を簡単に解説!
楠木正成(1294(永仁2)~1336(建武3)は、鎌倉時代末期から南北朝時代まで活躍した武士です。
その生涯を後醍醐天皇に捧げた楠木正成は、忠臣として有名ですが、実は後醍醐天皇に仕える前は「悪党」だったと言われているのです。
この記事では、楠木正成はなぜ悪党と呼ばれたのか?悪党から忠臣への変遷を簡単に解説していきます。
目次
楠木正成は「悪党」だった?その生涯を簡単に解説!
楠木正成が悪党と呼ばれていたのはなぜなのでしょうか?
まずは楠木正成の年表を見ながら、その生涯を簡単に解説していきます。
楠木正成の年表を簡単に解説!
楠木正成:1294(永仁2)~1336(建武3):享年 不明(出生年に諸説あるため)
父:楠木正遠 母:不明
妻:不明
子:楠木正行、楠木正時、楠木正儀
楠木正成は、その出生がはっきりとしていないことが多く、いつ活躍し始めたのかも、何歳で死んだのかも明らかになっていません。
そのため、ここではきちんと記録として残されている活躍をご紹介していきます。
【楠木正成の年表】
- 1322年(元亨2年)
北条高時・六波羅の命により渡辺右衛門尉・保田荘司・越智四郎を討伐 - 不詳
後醍醐天皇主宰の宋学研究会に所属する - 1331年(元弘元年)
後醍醐天皇が討伐のため笠置山に入り、楠木正成も参戦
元弘の乱が起きる - 1332年(元弘2年)
後醍醐天皇が隠岐に流される
同時に、楠木正成は京で生きているのではないかと噂される
→正成の動向が掴めないため、花園上皇が六波羅に参集命令を出させる
→正成は潜伏から戻り再挙し、下赤坂城を攻略 - 1333年(元弘3年)
河内国にて井上入道を撃破
千早城の戦いが始まる
→六波羅探題が滅亡したため、千早城の戦いは終結
後醍醐天皇が建武の新政を始める
→正成は河内・摂津の国司に任じられる - 1335年(建武2年)
延元の乱が起きる
→足利尊氏と朝廷が決裂することになり、楠木正成は近畿に待機 - 1336年(建武3年)
楠木正成は官軍として京で足利軍と戦う
湊川の戦いにて敗戦し、自害
楠木正成が「悪党」と呼ばれていたのはなぜ?
楠木正成が悪党と呼ばれていたのはなぜでしょうか?
現代では、悪党というと悪いことばかりしている人のことを想像するかもしれません。
しかし、この時代の悪党とは、朝廷や幕府の支配下にない人々のことを指していました。
つまり、楠木正成はどこにも属さないフリーの武士であったということですね。
悪党は、様々なものの支配下になかったため、年貢の納入を拒んだり、荘園内の秩序に従わなかったりしていました。
楠木正成は河内一帯の悪党を束ね、他の悪党と同じように幕府にとっては問題となる行為を繰り返していたようです。しかし、狭い土地を耕しながら暮らしていた地元の人たちからは、無慈悲な年貢の取り立てから守ってくれる者だと慕われていました。
つまり、地元の人達にとっては、楠木正成は悪党ではなくヒーローだったと言えるでしょう。
楠木正成の一族・楠木家は実は関東出身の御家人だった?
その出身が明らかになっておらず、謎の多い楠木正成ですが、主に河内国の地侍であったという説が一般的です。
しかし、実は関東出身の御家人だったという説も存在します。
武士の姓は出身地を表す場合が多いですが、楠木という地名は河内には見ることが出来ず、駿河(現在の静岡県)に見出すことが出来ます。
また、鎌倉幕府の初代将軍である源頼朝が上洛する際に、伴の中に楠木四郎という人物がいたことがわかっています(名前以外の詳細は不明)。
このことから、楠木一族の出身は関東よりなのではないかということなのです。
また、楠木正成自身も天皇方に付く前は、幕府の命を受け、畿内を中心として各地へと出兵しています。
以上のことから、楠木一族は元々関東出身の御家人か得宗被官(執権・北条氏の家臣)で、何代か前に河内に所領を与えられ移り住んだと考えられているのです。
楠木正成と後醍醐天皇の関係はいつから?
楠木正成は生涯を通して後醍醐天皇に忠義を尽くしました。
楠木正成と後醍醐天皇の関係はいつから始まったのでしょうか?
ここでは、2人の関係について詳しく解説していきます。
楠木正成と後醍醐天皇の出会いは、夢によるお告げ
楠木正成と後醍醐天皇の出会いのエピソードについては、『太平記』に記された夢のお告げによるものが有名です。
後醍醐天皇は、鎌倉幕府打倒のために1331年(元弘元年)に元弘の乱を起こします。
しかし、戦況はあまりよくなく、後醍醐天皇は笠置山に籠城することに…。
その時、後醍醐天皇は夢を見ます。
その夢は、
『広い庭の宴席で自分の席を探していると、上座が空いていた。すると美しい童子が現れて、「南に枝を伸ばした大きな木の下にある上座があなたの席です」と言う。』というもの。
目を覚ました後醍醐天皇は、「木」に「南」で「楠」という文字になることに気づき、
「楠というものを頼るべし」という、神のお告げに違いないと考えました。
そこで、該当者を探させたところ、該当したのが楠木正成ただ一人だったのです。
後醍醐天皇から声をかけられ、笠置山に参内した楠木正成は、
「弓矢取る身の面目、これに過ぎるものはありません」(武人としてこれほど名誉なことはない)
と臣下になることを快諾しました。
このとき楠木正成は、
「戦いに敗れてもこの正成さえ生きていれば、必ずご運は開けるでしょう」
と後醍醐天皇に忠誠を誓ったと言われています。
楠木正成はその生涯を後醍醐天皇に捧げた
後醍醐天皇に忠誠を誓ってからというもの、楠木正成はどんなに不利な戦況になろうとも、後醍醐天皇を裏切ることなく戦い続けました。
その中でも最も有名なのが、楠木正成の最後の戦でもある「湊川の戦い」です。
湊川の戦いとは、後醍醐天皇の建武の新政に不満を持った足利尊氏との戦でした。
この戦が始まる前、知略に優れた正成は尊氏のことを高く評価し、後醍醐天皇に足利尊氏と手を組んだほうがいいと進言します。
しかし、後醍醐天皇はこれを受け入れず、そのまま戦いに突入してしまったのです。
戦が始まってからも、楠木正成は正面からまともにぶつかれば負け戦になると察して、後醍醐天皇に一旦京を出て比叡山に隠れることを提案します。
足利尊氏軍が入京したところを包囲して、兵糧攻めすればまだ勝機があると踏んだのです。
しかし、メンツを気にした後醍醐天皇は、またしても楠木正成の進言を却下。
主のためにこれだけ進言をしているにも関わらず、拒否されたのでは普通ならさっさと見限ってしまうことが多いでしょう。
しかし、楠木正成は負け戦だとわかった上で、後醍醐天皇に従って湊川の戦いへと挑んだのです。
そして、後醍醐天皇のために戦い抜き、最後は戦に破れ「七生報国」の言葉を残し自害しました。
楠木正成はなぜ「忠臣」として有名になったのか
忠臣として名高い正成ですが、なぜ忠臣として有名になったのでしょうか?
ここでは、正成が忠臣であるが故のエピソードをご紹介していきます。
楠木正成の「忠臣」ぶりを表す、最後の言葉「七生報国」
正成の忠臣ぶりを表す言葉として語られるのが「七生報国」という言葉です。
これは、湊川の戦いに敗れて自害することを決めたときに、楠木正成とその弟の楠木正季が語った言葉です。
意味としては、
「七回生まれ変わっても、朝敵を滅ぼして国のために報いたいと思う」というもの。
これと合わせて楠木正成の辞世の句は、
罪深き悪念なれどもわれもかように思うなり。いざさらば同じく生を替へてこの本懐を達せん
現代訳:
罪業の深い救われない考えだが、私もそのように思う。さぁ、それでは同じように生まれ変わって、このかねてからの願いを果たそうではないか
というものであり、何度生まれ変わっても後醍醐天皇のために活躍してみせるという気概を感じることが出来ます。このようなところから、楠木正成は忠臣として有名になったのです。
楠木正成の銅像が皇居前にあるのはなぜ?
現在、皇居前に楠木正成の銅像がたてられています。
この楠木正成の銅像は、1904年(明治37年)に高村光雲と後藤貞行が彫ったものです。
なぜ皇居前に正成の銅像があるのでしょうか?
室町幕府が開かれたとき、楠木正成は逆賊として扱われていました。
しかし、後世になると、楠木正成の子孫である楠木正虎が嘆願したおかげで、正親町天皇から朝敵を免じられています。
さらに、江戸時代にもなると水戸藩によって、実は南朝こそが正統なのだとする見方が現れてきました。
その見方が表立ち、明治時代には「楠木正成は天皇に忠義を尽くした正義の人」として扱われるようになります。
皇国史観を掲げ、挙国一致を目指した大日本帝国の国策として採用するのにちょうどよかったのかもしれません。
全国民に対して、「楠木正成のように天皇のために忠義を尽くす人物になってほしい」という気持ちを込めて、銅像が建てられたのです。
楠木正成は、明治政府以降の思想にも大きな影響を与えた
明治政府は国民を天皇の大義名分のために統制していました。
そのため、戦死を覚悟の上で、大義のために戦場へと赴いた楠木正成の姿が注目され、「忠臣の鏡」「日本人の鏡」として讃えられるようになったのです。
子供達には、修身という教育で楠木正成のことを見習うようにという教えも見られました。
また、太平洋戦争中には、楠木正成の家紋である「菊水の紋」が作戦名の由来になったこともあります。
「菊水作戦」というのですが、これは太平洋戦争末期に、沖縄に来航する連合国軍に対して特攻攻撃を仕掛けるという作戦でした。
特攻攻撃をするということは、当然帰ってこれる確率は低いです。
しかし、後醍醐天皇に忠義を尽くし戦死していった楠木正成のように、兵たちも国に尽くすのだという思いが作戦名に込められていました。
そして、実際多くの兵が七生報国をスローガンに死んでいったのです。
このように、明治政府以降の思想にも、楠木正成は大きな影響を与えていました。
楠木正成は、なぜ神社に祀られるようになったのか?
現在、楠木正成は様々な神社で祀られています。
代表的なところでは、湊川神社(兵庫県)、楠木神社(群馬県)、吉水神社(奈良県)などがあります。
これらの神社の中でも筆頭となるのが湊川神社です。
そもそもなぜ、楠木正成は湊川神社に祀られるようになったのでしょうか?
まず、湊川の地は、楠木正成が湊川の戦いによって戦死した場所です。
そのため、遺体はこの地に葬られ、地元の人々によってその塚は大事に祀られてきました。
そして、江戸時代になると、楠木正成のことを評価する藩が出てきます。それが水戸藩です。
尊王思想の強かった水戸藩は、楠木正成のことをとても高く評価し、湊川の楠木正成の遺体が眠っている場所にお墓を建てたのです。
その石碑に「嗚呼忠臣楠子之墓」と書かれていたので、多くの人に楠木正成の墓がそこにあるということが知れ渡りました。
さらに幕末になると、神として祀ろうという動きも見られました。
尾張藩の徳川慶勝が「楠公社」の建立を朝廷に進言していましたが、これは明治維新前後の混乱により頓挫してしまいます。
明治になり国も治まった頃、明治天皇が楠木正成の精神を国民にあまねく伝えていきたいとお考えになられました。そこで、1872年(明治5年)に正成を祀る湊川神社が完成したのです。
楠木正成と足利尊氏の関係性は?
楠木正成と足利尊氏は同時代に生きて、事あるごとに交わってきました。
時には同時に倒幕をしたり、またある時には敵同士で戦ったことも…。
ここでは、楠木正成と足利尊氏の関係性を詳しくご紹介していきます。
楠木正成と足利尊氏は同時に倒幕を行った
楠木正成と足利尊氏の出会いは、後醍醐天皇が倒幕のために起こした笠置山の戦いです。
そのとき、楠木正成は後醍醐天皇方、足利尊氏は幕府軍方についていたため敵でした。
傘沖山の戦いは、幕府軍の勝利だったのですが、少人数で大軍に挑み、奇想天外な戦術を繰り出してきた楠木正成のことを、足利尊氏は脳裏に刻み込むことになります。
その後、千早城の戦いにて、二人はまた敵同士で戦うことになる予定でした。
しかし、ここで足利尊氏が幕府を見限って天皇方につくことになります。
楠木正成を攻め入る予定だった2万5千もの兵によって、京の六波羅探題が攻め落とされ都は制圧されるのです。
足利尊氏の寝返りによって、戦いに勝利した後醍醐天皇は新政権樹立のために京へと凱旋します。
それに楠木正成もついていったため、そこで足利尊氏との再会を果たします。
その後、楠木正成は天皇の護衛という最高の名誉を与えられ、尊氏も勲功第一とされました。
こうしてライバルで敵同士だった二人は、後醍醐天皇の下で晴れて仲間になるわけです。
楠木正成は足利尊氏の力を認めていたが敵になった
後醍醐天皇の元で仲間となったはずの二人でしたが、再び敵となることになります。
その原因は、後醍醐天皇の建武の新政です。
建武の新政は天皇と公家中心の政治でした。そこに足利尊氏は不満を持ち始めたのです。
後醍醐天皇も、強力な力を持った尊氏が再び武家政権を樹立するのではないかと恐れていました。
そして、新田義貞討伐の命をきっかけに、ついに尊氏が後醍醐天皇に反旗を翻し出兵してきます。
このとき、足利尊氏のことを高く評価していた楠木正成は、足利尊氏と手を組むことを後醍醐天皇に進言します。
しかし、それを後醍醐天皇は拒否。そうして楠木正成は負け戦になることを察していながらも、後醍醐天皇のために足利尊氏と戦うことを決意します。
結果、楠木正成は敗北し、自害することになりました。
楠木正成の自害を知った足利尊氏は、楠木正成の首を「むなしくなっても家族はさぞや会いたかろう」といって、丁寧に遺族に返還したと言われています。
このことから、足利尊氏自身も楠木正成のことをきちんと評価していたということが伺えますね。
まとめ:楠木正成は悪党出身だが、後醍醐天皇の忠臣としてその生涯を生き抜いた
この時代の悪党とは、犯罪などの悪さを行う人たちのことを指すのではなく、朝廷や幕府の支配下にいない人たちのことを指しました。そして、楠木正成は河内国一帯の悪党を束ねる、地元の人達から慕われていた悪党であったということがわかりましたね。
今回の内容をまとめると、
- 楠木正成は出生から活躍するようになるまでの間、何をしていたのかなど詳細が不明
- 楠木正成は河内国の悪党であったという説が有力である
- 楠木正成は、悪党だったが地元の人々には慕われていた
- 楠木正成は、後醍醐天皇に仕え生涯忠義を尽くした
- 楠木正成は忠臣として有名になり、後世にも影響を与えた
いくら悪党で幕府側にとっての問題行動を起こしていたとしても、地元の人達を守るような行動をしていた楠木正成。他人のために動けるその姿は、後醍醐天皇のために命をかけてしていた行動の下地がすでにできあがっていたということかもしれませんね。