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明治天皇の家系図を簡単に解説!子孫は現在まで続いてる?すり替え説も?

明治天皇(1852(嘉永5)〜1912(明治45))は、日本の第122代天皇です。

倒幕及び攘夷派の象徴として、近代日本の指導者と仰がれました。

在位中、国力を伸長させた英明な天皇と謳われ、「大帝」と称えられています。

そんな明治天皇の子孫は続いているのでしょうか?

この記事では、明治天皇の家系図を見ながら、その子孫について簡単に解説していきます。

明治天皇の家系図をわかりやすく解説!

明治天皇の家系図

明治天皇の家族構成は?

【明治天皇のプロフィール】

明治天皇(めいじてんのう)1852年(嘉永5年)〜1912年(明治45年):宝算61歳(満59歳)

父:孝明天皇/母:中山慶子

皇后:昭憲皇太后

典侍:葉室光子、橋本夏子、柳原愛子、千種任子、園祥子

子:稚瑞照彦尊、稚高依姫尊、薫子内親王、敬仁親王、嘉仁親王(大正天皇)、韶子内親王、章子内親王、静子内親王、猷仁親王、昌子内親王、房子内親王、允子内親王、輝仁親王、聡子内親王、多喜子内親王

明治天皇は、1852年に京都石薬師の中山邸にて、孝明天皇と中山慶子の間に生まれます。

第二皇子でしたが、1860年には正式に皇太子と定められ、准后・九条夙子の実子とされました。

その後、1871年に一条美子(後の昭憲皇太后)を皇后に冊立します。

さらに、典侍も5人(葉室光子、橋本夏子、柳原愛子、千種任子、園祥子)を迎えています。子供は全部で15人(5男10女)でした。

明治天皇と昭憲皇太后はよきパートナーだったが子供はいなかった?

明治天皇の皇后である昭憲皇太后は、18歳で天皇の女御となり、20歳のときに皇后になりました。

女性にあだ名をつけて呼ぶことが好きだった明治天皇に、皇后は鼻が高かったことから「天狗さん」と呼ばれていたと言われています。

ここから仲の良さが伺えるでしょう。

昭憲皇太后と明治天皇の間に、子供はできませんでしたが、昭憲皇太后は教養を身につけており、聡明で和歌の心も持ち合わせていました。

そのため、明治天皇にとって最高の話し相手となり、精神的に支える良きパートナーとなっていたのでした。

明治天皇の子孫は現在まで続いている?

明治天皇は、皇后との間に子供はできませんでしたが、典侍との間になんと15人もの子供を授かりました。
その子孫は現在まで続いているのでしょうか?

ここでは、明治天皇の子孫について簡単に解説していきます。

明治天皇は15人の子供を授かったが、成人したのは5人のみ?

明治天皇の子供は典侍との間に、全部で15人(5男10女)いました。

【明治天皇と葉室光子の子供】

 ・稚瑞照彦尊

【明治天皇と橋本夏子の子供】

 ・稚高依姫尊

【明治天皇と柳原愛子の子供】

 ・薫子内親王

 ・敬仁親王

 ・嘉仁親王(大正天皇)

【明治天皇と千種任子の子供】

 ・韶子内親王

 ・章子内親王

【明治天皇と園祥子の子供】

 ・静子内親王

 ・猷仁親王

 ・昌子内親王

 ・房子内親王

 ・允子内親王

 ・輝仁親王

 ・聡子内親王

 ・多喜子内親王

このうち、成人するまで成長したのは、典侍・柳原愛子と園祥子が産んだ5人(1男4女)でした。その他の明治天皇の子供達は、死産か早世してしまっています。

子孫には今上天皇やオリンピック委員会の会長も?

明治天皇の子で成人まで生き残ったのは、5人でした。

そのうち、柳原愛子が生んだ皇子・嘉仁親王は大正天皇に即位し、現在の皇室に繋がっています。

また、園祥子が生んだ皇女の1人である昌子内親王の系譜には、日本オリンピック委員会の会長を務めた竹田恆和氏や、その子で作家、憲法学者の竹田恒泰氏がいます。

明治天皇は実はすり替え説がある?

明治維新の象徴となっていた明治天皇ですが、実は別人とすり替えられていた説があるのです。

誰がいつ、どのような目的ですり替えたのでしょうか?

ここでは、明治天皇のすり替え説について簡単に解説していきます。

攘夷志士によって孝明天皇の暗殺と明治天皇のすり替えが行われた?

明治天皇が即位した頃行われていた明治維新。

実は、これは南朝の復興と正当性を証明するために行われたという説があります。

後醍醐天皇が足利尊氏に逐われて吉野に逃げ込み開いた朝廷のことを「南朝」といい、4代約56年間続きました。

しかし、足利義満が将軍になった際に、南朝と北朝が統一されます。

そして、このとき、南朝の流れを汲む皇子が長州藩に逃れ、居を構えて住んだと言われています。

そのため、長州藩には皇統の血筋が幕末まで脈々と流れることになるのです。

幕末になると、「南朝こそが正統である」とする水戸学が盛んになり、これが全国に普及します。

すると、その影響を受けた攘夷志士(主に長州藩の人々)は南朝復活を望むようになるのです。

そして、これを実行に移したのが、南朝方武将・菊池氏の末裔を自称する・西郷隆盛と、南朝復活の鍵を握ると公言していた勝海舟、あとは公武合体派の公家・岩倉具視の3人です。

3人は手を組んで、北朝の末裔である孝明天皇を毒殺し、南朝皇統の末裔・大室寅之介と明治天皇を入れ替えて即位させました。

こうして、皇統を南朝へと戻したといわれています。

これを裏付ける決定的な資料は今の所ないため、真偽は不明ですが、これが本当だとしたら大変なことですね。

明治天皇がすり替えられたとする証拠は?

明治天皇のすり替え説の証拠は、主に2つあります。

・皇位継承した14歳のときと、即位の礼を行った16歳のときでは、体つきが大きく異なること

これは、あくまで実際の明治天皇を見た人たちの感想の域をでず、証拠となるような写真は残されていないようです。

・フルベッキ集合写真に明治天皇と同じ人物が写っているということ

フルベッキ集合写真とは、オランダの宣教師であるグイド・フルベッキが佐賀藩で開いていた、「致遠館」という英語塾に通っていた子供たちが写っている写真です。

岩倉具視の子供である岩倉具定、岩倉具経の2人が入学した際に集合写真を記念に撮っていました。

そこに、明治天皇と同じ顔の人物が写っているというのです。

フルベッキ集合写真は、長崎で撮られたものであるため、本来であれば明治天皇が写っているわけがありません。また、明治天皇は写真嫌いでとても有名でした。

このことから考えても、明治天皇が写真に写っているわけがないのです。

このように、証拠としては少し弱いのですが、全くありえないと否定する根拠もありません。

当時、天皇に謁見できる人物は限られていたようですし、すり替えられていたとしても気付けなかった可能性は十分にあり得るでしょう。

まとめ:明治天皇は皇后との間に子はできなかったが、側室との間にたくさんの子供が生まれた

明治天皇は、皇后・昭憲皇太后との間に子供はできませんでしたが、典侍たちとの間に15人もの子供を授かりました。しかし、そのうち成人したのは5人しかおらず、さらに男児は1人だけでした。

その成人した子、それぞれが子孫を残しており、現在まで明治天皇の血は続いています。

今回の内容をまとめると、

  • 明治天皇は皇后との間に子供はできなかった
  • 明治天皇と典侍たちとの間に子供は15人できたが、そのうち成人したのは5人のみだった
  • 明治天皇の子供で、成人した子それぞれが子孫を残しており、現在まで明治天皇の血は受け継がれている

明治天皇の子で宮家を創設できるのは、大正天皇のみでした。
そのため、後継に不安が残っていましたが、大正天皇は4人もの男児に恵まれたので、皇統の血脈は耐えることはありませんでした。

本当に子供を授かること、成人するまで育てきることの難しさを感じますね。

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