北条時宗の家系図を簡単に解説!子孫は現在まで続いてる?北条早雲との関係は?
北条時宗(1251(建長3)〜1284(弘安7))は、鎌倉時代中期に活躍した鎌倉幕府第8代執権です。
鎌倉幕府執権職を世襲する北条氏の嫡流得宗家に生まれ、執権となり、モンゴル帝国の2度にわたる侵攻(元寇)を退けたことで有名です。
そんな北条時宗の子孫は現在まで続いているのでしょうか?
この記事では、北条時宗の家系図を見ながら、その子孫について簡単に解説していきます。
目次
北条時宗の家系図をわかりやすく解説!
北条時宗の家族構成は?
【北条時宗のプロフィール】
北条時宗(ほうじょうときむね):1251年(建長3年)〜1284年(弘安7年) / 享年34歳
出身地:相模国鎌倉(現在の神奈川県)
父:北条時頼/母:葛西殿
正室:堀内殿
子:貞時
北条時宗は、1251年(建長3年)に相模国鎌倉にて、北条時頼と葛西殿の間に生まれました。
長兄に宝寿丸(後の北条時輔)がいましたが、宝寿丸は側室の子だったため、時宗が後継者として指名されました。
1264年(弘長元年)には、安達義景の娘・堀内殿と結婚し、1人の子供(貞時)が授かりました。
ちなみに、堀内殿は貞時の後にも妊娠をしていますが、こちらは流産してしまったと言われています。
北条時宗は政略結婚だった?
北条時宗の正室だった堀内殿は、安達義景の娘となっています。
安達義景は、鎌倉幕府第3代執権・北条泰時の頃から評定衆の1人として重用されてきた幕府の有力御家人です。
その安達氏が、得宗家との繋がりを強化するために送り出してきたのが堀内殿でした。
この際、時宗は11歳、堀内殿は10歳であったと言います。
政略結婚であった2人でしたが、夫婦仲は、時宗が帰依した無学祖元の証言などから、仲睦まじかったそうです。
そして、1271年(文永8年)に、嫡男・貞時を出産します。
日蓮の回想によると、時宗は嫡子誕生の喜びから、日蓮を恩赦して死一等を減じ、流罪に減罪したと言われています。減罪してしまうくらいですから、よっぽど嬉しかったのでしょう。
また、2人は生涯他に伴侶を持つことはありませんでした。このことから、お互いに深く愛しあっていたということが伺えるでしょう。
北条時宗は若くして亡くなった?
北条時宗は32歳(享年:34歳)という若さで亡くなってしまいます。
時宗の執権時代は、元寇という大きな問題がありました。
下手すると、日本が乗っ取られてしまうかもしれない事態に、時宗にかかる重責は計り知れないものがあったでしょう。文字通り、身を削る覚悟で国防に心血を注いでいたのです。
3度目の蒙古襲来があるかもしれないと、準備を進めていた矢先のことです。
1284年(弘安7年)に、時宗は病床に入ります。
そして、自身の死を悟ったのか、時宗は出家。その日のうちにそのまま亡くなってしまいました。この際、結核または心臓病を患っていたと言われています。
遺体は、自らが開いた鎌倉山ノ内の瑞鹿山円覚寺に葬られました。
北条時宗の子孫は現在も続いている?
北条時宗の子供は、貞時のみでした。
北条時宗の子孫は現在も続いているのでしょうか?
ここでは、北条時宗の子孫について簡単に解説していきます。
北条時宗の子供は1人だけ?
時宗は、34歳という若さで亡くなってしまい、子供は貞時1人のみとなってしまいました。
その貞時は、正室・北条宗政の娘、側室・覚海円成(かくかいえんじょう)の2人と結婚し、なんと11人もの子供を儲けます。その子たちの子孫が現在まで続いているのです。
【北条貞時の子供たち】
覚久、菊寿丸、高時、時利、崇暁、金寿丸、千代寿丸、北条師時室、南殿、北条時基室、(あと1人は詳細が不明)
北条時宗の子孫には幕末に活躍した人物やピアニストがいる?
北条時宗の息子・貞時の子孫は代々受け継がれていき、現代まで続いています。
その中には、3男・高時の子孫で、幕末に活躍した横井小楠がいます。
横井小楠は、幕末の幕政改革や公武合体の推進などにおいて活躍し、明治維新後には、新政府に参与として出仕していました。
そして、その子孫で、横井和子さんという方がいらっしゃいます。
この方は、大阪教育大や大阪芸術大の名誉教授であり、ピアニストでもあり才能あふれる方でした。
2021年に惜しくも老衰のため亡くなられてしまったのですが、当時(2010年)の現役最高齢(90歳)のピアニストとして、音楽生活70周年のリサイタルを開くなどしていました。
現在の横井家の当主は、和子さんの長男である赤松秋雄さんです。
北条時宗の「北条氏」と戦国大名・北条早雲の「北条氏」は関係がある?
「北条氏」と聞くと、鎌倉時代の北条氏とは別に、戦国時代の大名・北条早雲のことを思い出す人もいるのではないでしょうか?
この2つの「北条氏」に繋がりはあるのでしょうか?
ここでは、北条時宗の「北条氏」と北条早雲の「北条氏」の関係について簡単に解説していきます。
北条早雲は「後北条氏」で、鎌倉時代の北条氏とは関係ない?
結論から言いますと、鎌倉時代の北条氏と戦国時代の北条氏は全く関係がありません。
それはどういうことかと言いますと、戦国時代の北条氏の祖である北条早雲は、実は元々伊勢宗瑞という名前で、北条ではなかったのです。
また、戦国時代の北条氏が北条を名乗り始めたのは、2代目の氏綱の代からだと言われています。
初代の北条早雲という名前は、あくまで後年の呼び方であり、生前には一度もその名前で呼ばれていなかったそうです。
また、一般的に戦国時代の北条氏は、鎌倉時代の北条氏と区別をつけるために、「後北条氏」と呼ばれることが多いです。
後北条氏はなぜ「北条」を名乗ったのか?
それでは、北条氏と全く関係のない後北条氏は、なぜ「北条」を名乗ったのでしょうか?
それは、当時の領地を巡る戦略に関係していました。2代目・氏綱が家督を継いだ頃、当時はまだ小田原城周辺までの領地しかなく、それより北部の関東地域は支配していませんでした。
氏綱は、本格的に関東地域全域の支配を目指していました。
そこで、
「「伊勢氏」と名乗るよりも、鎌倉時代に関東で栄華を誇った「北条氏」の方が、関東の武士には馴染みがあるのではないか」
と考えます。
そうして、「北条」を名乗り始めるようになったのでした。
つまり、領地支配のためのイメージ戦略だったわけですね。
まとめ:北条時宗の子孫は現在まで続いており、幕末に活躍した人物やピアニストなどがいる
北条時宗は、かなり若くして亡くなってしまいましたが、唯一の子・貞時の子孫が代々続いていきました。その中には幕末に活躍した横井小楠やピアニストの横井和子さんなど、才能あふれる子孫がいました。
今回の内容をまとめると、
- 北条時宗は生涯で妻を1人しか持たなかった
- 北条時宗は、若くして病死した
- 北条時宗に子供は1人貞時のみ
- 北条時宗の子供、貞時の子孫が現在まで続いている
当時外国の巨大勢力と戦う術など、ほとんど持ち合わせていなかったでしょうに、2度もその脅威から日本を守った北条時宗。その才能は言うまでもありませんが、子孫も才能あふれる人ばかりで、その血が流れているのだなと感じさせてくれますね。