源頼朝の年表を中学生にもわかるように簡単に解説!一体どんな人物だったのか?
源頼朝は鎌倉幕府を開き、初代征夷大将軍となった人物として有名です。
朝廷や公家中心だった日本から、武家中心へと変革を遂げた鎌倉幕府。その源頼朝によって礎が築かれた武家政権は、その後江戸時代が終わるまでの650年以上も続きます。
今回は、妻子を大切にし、優れた政治家だったといわれる源頼朝の波乱に満ちた生涯を、年表やエピソードを中心にご紹介します。
この記事を読んでいただければ、鎌倉幕府を開いた初代征夷大将軍「源頼朝」のことが一通りわかるようになると思います。
目次
源頼朝はどんな人?
源頼朝はどのような人だったのでしょうか。まずは、生まれてから亡くなるまでの流れを年表で見ていきます。また、彼の性格にも注目していきます。
源頼朝
1147年(久安3年)尾張国生まれ
父:源義朝
母:由良御前
妻(正室):北条政子
子:大姫・頼家・乙姫・実朝
源頼朝の年表
源頼朝の生涯を年表形式で見ていきましょう。
【源頼朝の年表】
1147年(久安3年)
尾張国(現在の愛知県)に生誕
清和源氏(河内源氏)の後継者として育てられる
1159年(平治元年)
平治の乱に13歳で初陣
父 源義朝と共に平清盛を討伐するために戦うが敗北
1160年(永暦元年)
平氏に捕らえられ伊豆国(現在の静岡県)に流刑
1177年(治承元年)
流刑先の伊豆国の豪族の娘、北条政子と30歳で結婚する
1180年(治承4年)
後白河天皇の皇子の以仁王の名を受け、北条家や東国の豪族と共に挙兵
源義経、源範頼と合流し平氏討伐へ向かう
源頼朝は鎌倉入り
1185年(文治元年)
数々の戦いで平氏に勝利し、壇ノ浦の戦いで平家の滅亡に成功
最大の功労者と言われる、弟の源義経と不仲になり、謀反の疑いで追討
日本全国に守護や地頭を設置するなどして、幕府の当地基盤を整える
1192年(建久3年)
後鳥羽天皇より征夷大将軍に任命される
1198年(建久9年)
新しい橋の完成祝典に出席した帰りに体調を崩す
*原因は落馬とも言われている
1199年(建久10年)
53歳(満51歳没)死去
源頼朝の性格
源頼朝はどのような性格だったのでしょうか?
当時の歌人が源頼朝の様子を書いたとされる日記が残っています。
その日記には、
「頼朝の体たる、威勢厳粛、其性強烈、成敗分明、理非断決」
と記載されています。
現代の言葉に訳すと、
「源頼朝は、堂々として厳かな人であり、力強く類を見ない個性を持っています。はっきりと物事を裁き、道理にかなっているかをきっぱりと決断します。」となります。
すなわち源頼朝は、周囲の家臣たちを心服させるカリスマ性を持った、優れたリーダーであったことが伺えます。
源頼朝がしたこと
源頼朝は何をした人なのでしょうか?
鎌倉幕府や政治、役職および戦いに注目し簡単にご説明します。
【源頼朝がしたこと】
- 鎌倉幕府をひらいた
- 武家政権の政治の基盤を作った
- 後鳥羽天皇より征夷大将軍に任命された
- 戦さの数は多いが、前線で戦った戦さは少なかった
源頼朝がひらいた鎌倉幕府
源頼朝は鎌倉幕府をひらきました。日本初の武家中心の幕府という仕組みを構築したのです。
鎌倉幕府成立年は、現在では「1185年(文治元年)」と教科書には記載されているようです。2012年以前の教科書には、「1192年(建久3年)」となっているものがほとんどです。
なぜ鎌倉幕府が成立した年が変わってしまったのでしょうか?
これは、幕府が成立されたと見なす定義が変わったためです。
「幕府の最高位である将軍が誕生した年が、幕府の成立した年である」
とした場合、1192年(建久3年)が鎌倉幕府の成立年となります。
一方で、
「鎌倉幕府の統治機構が完成した年が、幕府が成立した年である」
とすると、1185年(文治元年)になるというわけです。
つまり、鎌倉幕府の成立した年は、1185年(文治元年)と1192年(建久3年)のどちらかが間違っているという事ではなく、どちらも正しいといえるのです。
ちなみに、鎌倉幕府の成立年は、
1183年(寿永2年)に源頼朝が東日本の支配権を朝廷に認められた時期とする説
1180年(治承4年)に源頼朝が鎌倉入りした時期とする説
など、このほかにも所説あります。
源頼朝の行った政治
源頼朝は優れた政治家でもありました。
自分が全てを行うのではなく、配下の者たちを信じ、各現場の采配をゆだねる体制を考案し実践していたのです。
源頼朝は、家臣それぞれの顔や名前を把握し、その人に合った仕事を任命していたようです。
当時は独裁的な管理方法が当たり前な時代において、組織を作り上げた源頼朝の政治は、世界的に見ても先駆け的存在といえるでしょう。
江戸幕府をひらいた徳川家康も、源頼朝の政治をお手本にして江戸幕府を作ったと言われています。
まさに、源頼朝は、武家政権の基盤を作り上げた人物というわけですね。
また、源頼朝は御家人といわれる武士たちとの強い主従関係を構築する制度「御恩と奉公」を作り出しました。
御家人は、名簿といわれるものに自分の名前を記し、将軍に謁見して臣従の意を示していました。
これにより、鎌倉幕府は御家人に対し「御恩」として、先祖伝来の所領や領地を保証し、御家人は鎌倉幕府に対し「奉公」として合戦時に参加するという、相互的な利益関係が結ばれるのです。
当時の武士たちにとっては、土地は何よりも重要な財産でした。
そんな武士たちの思いを頼朝はよく理解できていたからこそ、土地を媒介としたこの制度を成立させることができたのでしょう。
源頼朝の役職はなに?
源頼朝の役職は「征夷大将軍」です。
1192年(建久3年)に後鳥羽天皇によって任ぜられました。
征夷大将軍は、軍権に基づく政権担当者という意味合いをもつ地位です。
つまり源頼朝は、天皇から全国の武士を従える地位であることを認められたのです。
じつは、源頼朝が「征夷大将軍」を任命される2年前にも、後白河法皇によって「権大納言・右近衛大将」に任じられています。
関東の地を治めた功績をたたえられてのものでした。
しかしこの時、源頼朝はすぐに辞任の意をしめしています。
これは、権大納言も右近衛大将も京都の朝廷の政務で重要な地位だったため、任命を受けてしまうと鎌倉に戻ることが困難になると判断しからでした。
源頼朝は、仲間と共に鎌倉幕府を大切にしていたことが伝わりますね。
源頼朝の主な戦い
源頼朝は平氏を滅亡させた武士というイメージがありますが、実際に戦さで戦った記録は意外にも少ないです。
源頼朝が実際に前線で戦ったものをご紹介します。
【源頼朝の主な戦い】
・1180年(治承4年)8月
石橋山の戦い
打倒平家を掲げた源頼朝の最初の戦い。
源頼朝の援軍は悪天候でくることができず、敗北しています
命からがら逃れた源頼朝は、箱根に一時的に隠れた後、房総半島(現在の千葉県)に逃れました。
・1180年(治承4年)11月
富士川の戦い
千葉の豪族らを味方につけた源頼朝が、鎌倉入りを果たす道中の戦い
平氏軍は富士川の手前でとどまって休憩していたが、源頼朝が率いる軍団の恐ろしさが噂となり、恐怖心を強めていました。
ある夜更けに、平氏軍が休んでいた場所の沼から水鳥が一斉に飛び立ちます。
恐怖心に支配されていた平氏軍は「闇討ちだ!」と勘違いし、武士たちは武器も持たずに散り散りに逃げだしました。
翌朝、富士川を渡った源頼朝たちが見たものは、刀や鎧が散らばった陣の跡だったといいます。
この時、源頼朝は「まずは東国を治めてからにしましょうよ」との家臣の意見を聞き、敵を追うことはしませんでした。
富士川の戦いの後、 源頼朝は戦いの前線での指揮を弟の源義経と源範頼に託し、自分は鎌倉の地から指示を出すかたちで戦さに関わるようになったといわれています。
源頼朝のエピソード
源頼朝には、数々のエピソードが残っています。
その中でも印象的なものを紹介していきます。
【源頼朝のエピード】
- 平氏に敗れ、伊豆へ流刑されていた
- 戦の回数は多いが、実はあまり前線にでていない
- 源頼朝の妻「北条政子」とは恋愛結婚だった
- 源頼朝の実子は次々と亡くなり、直系の子孫はいない
それぞれ詳しく見ていきましょう。
平氏に敗れ伊豆へ流されていた
源頼朝は、13歳の初陣で敗北し、平清盛に捕らわれてしまいます。
そのまま死刑になってしまうかと思われたところ、意外な人物の口添えによって命が助かります。
源頼朝を助命したのは、平清盛の義母 池禅尼です。
一説では、源頼朝の容姿の可愛らしさと健気な様子に池禅尼が不憫に思ったためといわれています。
源頼朝は13歳で伊豆国に流刑されてから、20年もの間、流人としてすごしています。現代ならば中学1年生から大学卒業もの長い期間です。
刑に処された人の生活としては比較的自由であったといわれていますが、源氏の御曹司としての生活から一変して、土地を持つことも、家来を持つことも、伊豆国からでることも制限された窮屈な生活は、大変な苦労があったと思われます。
しかし源頼朝は、そんな苦境にありがらも自己鍛錬を怠りませんでした。
学問も熱心に学び、優れた政治力を手に入れました。
当時の源頼朝は、遠く離れた伊豆国の地にいても、都の政治情勢を的確に把握できていたようです。
戦の回数は多いが、実はあまり前線には出ていない
源頼朝は武士でありながら、自らが前線にたち戦闘の陣頭指揮を執ることはあまりありませんでした。
現場を信頼できる家来に任せる政治を行っていたのです。
戦いの現場は、弟(源義経・源範頼)や家臣に任せ、頼朝は鎌倉から指示をだしていることも多かったようです。
しかし、決して武芸が苦手であったわけではありませんでした。
石橋山の戦いでは、自慢の強弓で敵を鎧ごと貫通させ、敵を一撃で倒したといわれています。また、先祖代々伝わる宝刀「髭切」を保持し、敵を的確に倒していたといわれています。
源頼朝の妻「北条政子」とは恋愛結婚だった
源頼朝は伊豆で流刑生活送っている30歳の時、10歳年下の北条政子と結婚します。
政略結婚が当たり前のように行われていたこの時代には珍しく、大恋愛の末の結婚だったといわれています。
北条政子の父 北条時政は平清盛側の立場の人物で、源頼朝の監視役を担っていました。
つまり源頼朝は、自分の監視役の娘と結婚したわけです。
ある日北条時政は、京から伊豆国に帰ると源頼朝と北条政子が恋仲になっていることに気が付きます。平氏への印象も良くないし、二人の恋仲を認めることはできません。
そこで、北条時政は自分の家臣と北条政子を結婚させることに決め、二人を別れさせようとしましたが、北条政子は一途に源頼朝を思い続けています。
そして北条政子は、ある夜、屋敷を抜け出し、山を越え、自分の足で走って源頼朝の元へと向かいます。
北条政子の行動により、北条時政は二人の結婚を認め、源頼朝を支えるようになります。
当時はまだ、平清盛が存命だった頃ですから、北条時政のこの決断は大変なものだったと想像できます。
その結果、源頼朝は平氏を討伐し鎌倉幕府をひらき、北条時政は鎌倉幕府成立後も政治の中枢で活躍し続け、源頼朝死後も有力な御家人をまとめて幕府の実権を握りました。
北条政子の源頼朝を思う気持ちと、熱烈な行動、そして北条時政の先見性のある決断がなければ、北条氏が歴史の表舞台に立つことなかったかもしれません。
源頼朝の実子は次々と亡くなり、直系の子孫はいない
源頼朝の直系の子孫は現在も存在しているのでしょうか。
正室の北条政子との間に4人の子供が生まれています。
- 大姫
- 頼家
- 乙姫
- 実朝
源頼朝と北条政子の子供、実は全員が亡くなっています。
また、側室との間には子供がいなかったため、源頼朝の直系の子孫は存在していないといえるでしょう。
源頼朝と北条政子は、1177年(治承1年)結婚しました。
その結婚の翌年に、長女「大姫」が生まれます。
1182年(寿永元年)には長男「頼家」が生まれ、3年後には次女「乙姫」、更に7年後には次男「実朝」が生まれます。
長女の大姫は20歳で病死します。
次女の乙姫も、12歳の時に病死してしまいます。
長男の頼家は、18歳の時に鎌倉幕府の2代目征夷大将軍になりますが、北条氏と折り合いが悪く、任期はわずか1年ほどで交代させられてしまいます。
その後、幽閉され22歳の若さで暗殺されてしまいます。
3代目征夷大将軍となった次男の実朝も、27歳の時に甥(頼家の子)に暗殺され、暗殺を企てた甥も捕らわれて死刑になります。
こうして源頼朝の血筋が途絶えてしまいました。
源頼朝も北条政子も、子どもたちを大変可愛がっていたといいます。
北条政子は、大姫が亡くなった時「自分も死のうと」思うほど悲しみ、源頼朝が懸命に慰めたといわれています。
また、実朝が暗殺された際も北条政子は深く嘆き悲しみました。
「子供を全員失い、終わりだと思います。もう死んでしまいたい。」
と嘆く姿が記録として残っています。
源頼朝の死因は記録がなく、謎に包まれている
日本初の武家政権、鎌倉幕府をひらいた源頼朝は、1199年(建久10年)
53歳(満51歳没)でその生涯に幕を下ろしました。
しかし、その死因は謎に包まれています。
鎌倉時代の書かれた日本の歴史書「吾妻鏡」には、1180年(治承4年)から1266年(文永3年)までの幕府の事柄が記されています。
もちろん、鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝についても記述があります。
しかし、源頼朝の死ついては一切の記述がありません。
鎌倉幕府をひらいたこと、その政治などに関することは記述があるのに、源頼朝の死、そしてその後の記録がポッカリと抜けているのです。
そのため、現代でも
- 落馬による転落死
- 病気だった
- 暗殺された
など、様々な憶測が唱えられています。
鎌倉幕府をひらいた、源頼朝の死という幕府にとって重要な出来事が記録されていないことから、
現在では意図的に削除されたのではないか?
という見解すら主張されています。
まとめ:源頼朝は、日本初の武家政権を確立したがその人生は波乱に満ちていた
源頼朝は、朝廷との安定した関係を維持しながら、家来たちへの配慮も忘れない優れた政治力を持っていたからこそ、鎌倉幕府を成立することができたのだと思います。
源頼朝は、日本初の武家政権を確立しましたが、その人生は波乱に満ちていました。
今回の内容をまとめると、
- 源頼朝は、江戸時代まで続く武家政権の礎を築いた人物だった
- 源頼朝は、幼いころから容姿端麗で頭脳明晰だった
- 源頼朝の妻「北条政子」とは大恋愛の末に結婚した
- 源頼朝の実子は全員なくなり、直系の子孫はいない
- 戦さの数は多いが、実はあまり先頭に立って戦っていない
- 鎌倉幕府をひらいた人物だが、その最後は謎に包まれている
優れた人間力は、もともとの素質に加え20年にも及ぶ流刑生活の中で培われた部分も大きいと思います。どのような環境でも自分を高める鍛錬と高い志を持ち続けることが大切であることを教えられます。
源頼朝が切り開いた武家政権、それがその後650年以上も続くなんて、頼朝自身は想像もしていなかったでしょうね。