石田三成の家紋は大一大万大吉ではない?使用していた家紋の由来と意味を解説!
石田三成(1560(永禄3)〜1600(慶長5))は、安土桃山時代に活躍した武将です。
豊臣秀吉の家臣として秀吉のことを支え、その死後も豊臣家を五奉行として支え続けました。
そんな石田三成の家紋と聞いたら、「大一大万大吉」を思い浮かべる人が多いのではないでしょうか?しかし、実は石田三成の家紋は別のものだったのです。
この記事では、石田三成の家紋について簡単に解説していきます。
目次
石田三成の家紋「九曜紋」
石田三成が使用していた家紋として、まず1つ目に挙げられるのが「九曜紋」です。
九曜紋とはどのような家紋なのでしょうか?
ここでは、石田三成が使用していた九曜紋について簡単に解説していきます。
石田三成の家紋「九曜紋」とはどのような家紋?
九曜紋は、真ん中に大きな円があり、その周りに8つの小さな円が囲んでいるような家紋になります。¥この真ん中の円は太陽を表しており、周りの小さな円は、それぞれ月曜、火曜、水曜、木曜、金曜、土曜、日曜、計都、羅睺を表しています。
この文様は、元々インドの天文学や占星術で扱われていたものが、中国を経て日本に伝わったと言われています。そして、平安時代以降、貴族や武士の間で信仰の対象として用いられてきました。厄除けとしても使用されていたようですね。
この九曜紋は、三成の他にも、仙台藩伊達家や肥後藩細川家などでも使用されていました。
【九曜紋を家紋として使用していた主な武将】
- 伊達政宗
- 細川忠興
- 柿崎景家
- 相馬義胤
- 榊原康政
石田三成が「九曜紋」を使用していた理由は?
この九曜紋は、石田三成が使用していたというよりは、元々石田家の家紋として使われていたものでした。そのため、石田三成も自然と九曜紋を使用するようになったのでしょう。
石田三成の家紋「下がり藤」
石田三成が使用していた家紋として、2つ目に挙げられるのが「下がり藤」です。下がり藤はどのような家紋なのでしょうか?ここでは、三成が使用していた下がり藤について簡単に解説していきます。
石田三成の家紋「下がり藤」はどのような家紋?
下がり藤は、文字通り植物のフジがモチーフとなっている藤紋種の一つです。
フジは古来より、その丈夫なツルが生活資材として活用され、また美しく特徴的な花序を持つことから鑑賞用としても重宝されるなど、人々に馴染みの深い植物でした。それに加え、その名が平安時代に絶大な権力を誇った「藤原氏」を彷彿させるということもあり、宮廷文様に取り入れられ、華やかな公家社会を彩ったと言われています。
このようなところから、下がり藤は藤原氏の末裔やその血縁関係にある者、または藤原氏にあやかろうとした人などが使用していました。
後の時代でも、九条家、一条家、二条家といった五摂家のうち3家が使用していることもあり、藤紋種の代表的なイメージと言ったら、下がり藤というイメージが強くなり、使用していた割合も非常に高い家紋となりました。
【下がり藤の紋を家紋として使用していた主な武将】
- 黒田官兵衛
- 加藤嘉明
石田三成が「下がり藤」を使用していた理由は?
先程もお伝えしたように、下がり藤は藤原氏に関係のある人物がよく使用していました。
それでは、石田三成は藤原氏に関係があるのか?というと、実は藤原氏とは関係ありません。
おそらく藤原氏にあやかりたいという気持ちがあったのかもしれません。
その証拠に、石田三成は一時期「藤原三成」と名乗っていたこともあったそうです。
しかし、実は三成がこの下がり藤を使用していたと見られる一次資料は存在していません。
江戸時代に描かれた関ヶ原の戦いの屏風に三成の家紋として描かれていただけなのです。
そのため、本当に家紋として使用されていたかどうかというのは、はっきりとわかっていません。
「大一大万大吉」は石田三成の家紋ではなかった?
石田三成の家紋と聞いて、「大一大万大吉」を思い浮かべる人は少なくないでしょう。
しかし、これは家紋ではなかったのです。
それでは、いつこのマークを石田三成は使っていたのでしょうか?ここでは、大一大万大吉について簡単に解説していきます。
「大一大万大吉」は石田三成の旗印だった?
石田三成の家紋として誤解されがちな「大一大万大吉」ですが、実は家紋として使用されていたことはありません。
石田三成は、これを旗印として使用していました。
ドラマなどでも、この旗印のほうが目立つため、勘違いしてしまう人が多いのでしょう。
この旗印の意味は、
「一人が万人のために、万人は一人のために尽くせば、天下の人々は幸福(吉)になれる」
というもの。
石田三成は皆が協力して幸せな生活を築いていく、そんな理想を旗印に掲げていたのでしょう。
コミュニケーションを取ることが苦手で、他人から誤解されがちな三成ですが、その根本は優しい人なのだということがよくわかりますね。
「大一大万大吉」は江戸時代前期の史料に見られない?
この「大一大万大吉」の旗印ですが、江戸時代前期の史料には全く見ることができないのです。
豊臣秀吉の家臣として名をあげていた三成の情報が全く見られないということはおかしいですよね。
これは、実は関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康が、情報操作をしたのではないかと言われています。
敗者である石田三成がいい奴ではなく悪いやつであればあるほど、徳川家康にとって都合がよかったということですね。
「歴史は勝者が作る」とはよく言われますが、石田三成もその被害者であったと言っても過言ではないでしょう。
まとめ:石田三成の家紋は「大一大万大吉」ではなく「九曜紋」「下がり藤」だった
石田三成の家紋は、「大一大万大吉」だと誤解されがちですが、実際は「九曜紋」と「下がり藤」という2つの家紋を使用していました。
大一大万大吉は石田三成の旗印であり、そこには石田三成の希望が込められていました。
今回の内容をまとめると、
- 石田三成が使用していた家紋は「九曜紋」と「下がり藤」の2つ
- 下がり藤は、石田三成が家紋として本当に使用していたかどうかははっきりしていない
- 「大一大万大吉」は石田三成の家紋ではなく旗印として使用されていた
大一大万大吉の旗印に込められた石田三成の思いは、非常にかっこいいものですよね。
そのため、後世の創作などでも、そちらを家紋として採用してしまった、ということも十分に考えられます。現在を生きる私達も、この三成のような考え方ができると皆幸せになれるのだろうかと思わざるを得ません。