石田三成の家臣まとめ。三成を支えた武勇に優れた武将たちを簡単に解説!
石田三成(1560(永禄3)〜1600(慶長5))は、安土桃山時代に活躍した武将です。
豊臣秀吉の家臣として秀吉のことを支え、その死後も豊臣家を五奉行として支え続けました。
そんな石田三成の家臣にはどのような人がいたのでしょうか?
この記事では、石田三成の家臣について簡単に解説していきます。
目次
石田三成の家臣団にはどのような人物がいた?
石田三成は、秀吉の家臣として豊臣家を生涯支え続けました。
それでは、そんな石田三成の家臣団にはどのような人物がいたのでしょうか?
ここでは、三成の家臣について簡単に解説していきます。
石田三成の主要な家臣一覧
【石田三成の家臣一覧】
- 島左近
- 舞兵庫(前野忠康)
- 蒲生頼郷(備中)
- 大山伯耆
- 杉江勘兵衛
- 高野越中
- 牧野成里
- 森九兵衛
- 浅香庄次郎
- 磯野平三郎
- 宇多頼忠
- 大音新介
- 大場土佐
- 小幡信世
- 蒲生郷舎
- 塩野清助
- 土田桃雲
- 津山甚内
- 林半介
- 平塚久賀
- 八十島助左衛門
- 山田嘉十郎
- 山田上野介
- 山田勝重
- 渡辺勘兵衛
- 渡辺甚平
他の武将に仕えていて、その後石田三成の家臣になった武将
石田三成は、元々別の武将に仕えていたけれど、その主君が亡くなったりなどして行き場のなくなった者たちを迎え入れることもありました。
代表的なのは、豊臣秀次の家臣であった「若江八人衆」などが挙げられます。
そのように、家臣になった者たちは、三成に命を救われたようなものですから、三成を最後まで支え続けてくれたのです。
・島左近
石田三成の家臣として非常に有名な島左近ですが、この人も実は最初から三成に仕えていたわけではありません。最初は畠山氏に仕えており、その後、筒井家、豊臣家と士官先を変え、三成の家臣になりました。常に石田軍の士気を高め続けた島左近ですが、関ヶ原の戦いでも陣頭に立ち石田隊を叱咤激励したと言われています。
島左近は周りからもたいそう恐れられており、『常山紀談』には
「誠に身の毛も立ちて汗の出るなり」
と島左近と対峙したときの緊張感のようなものが記載されています。
島左近は、この戦いの最中に被弾し亡くなったとも、生き延びたとも言われていますが、真偽は不明です。
・大場土佐
大場土佐は、若江八人衆の一人で、黃母衣十三人という精鋭にも選ばれている武将です。
豊臣秀次が自害に追い込まれ、主を失ったところを、石田三成に招かれ家臣になりました。
関ヶ原の戦いでは、石田隊の右翼を守備し、奮戦しました。
大場土佐は、そこで亡くなったとも、生き延びて蜂須賀至鎮の家臣になったとも言われていて、真偽は不明です。
・大山伯耆
大山伯耆も、先ほどお伝えした大場土佐同様、若江八人衆の一人で、黃母衣十三人に選ばれていた豪傑です。
大山伯耆が豪傑と言われるようになったエピソードに、豊臣秀吉が開催した相撲大会の話があります。この相撲大会に大山伯耆は石田家の代表として出場しました。
そして、そこで槍の名手と名高い可児才蔵と互角に競ったと言われているのです。
このように豪傑と言われていた大山伯耆は、関ヶ原の戦いでは、石田三成の陣代理を務めたり、石田隊の先備えとして奮戦しました。
そして、ここで亡くなったとも、生き延びたとも言われていて、真偽は不明です。
・高野越中
高野越中も若江八人衆の一人です。別名で平岡刑部という名前も伝わっています。
関ヶ原の戦いでは、大山伯耆と供に、伏見城攻めを行ったり、石田隊本陣を守って奮戦しました。その後は、生き延び、浅野幸長の家臣になったと言われています。
・舞兵庫
舞兵庫は、若江八人衆の一人で、黃母衣十三人に選ばれていた武将です。本名は、前野忠康と言います。
舞兵庫は、豊臣秀次が自害に追い込まれた際、義父まで失っています。
義父は、前野長康といい、秀次の家老をしていました。
そのため、連座し自害に追い込まれてしまったのです。
秀次に関係あるものは、自害に追い込まれてしまう、つまり、舞兵庫もその可能性がありました。
そこで、三成は舞兵庫にまで被害が及ばないように、舞兵庫を匿ったのです。
そして、その後、秀吉の許可を得て、三成の家臣になりました。
三成は舞兵庫のことをとても大切にしていたようで、石田家の中でも破格の待遇だったようです。
舞兵庫は、高禄で召し抱えてくれた三成にとても感謝していたという話が残っています。関ヶ原の戦いでは、石田隊の先鋒として奮戦し、亡くなったと言われています。
・牧野成里
牧野成里は、若江八人衆の一人です。
関ヶ原の戦いでは、石田本陣後方を守っていましたが、三成方が敗北したので、池田輝政に助けを求めました。そして、助命され、後に徳川家3千石の旗本になったと言われています。
・森九兵衛
森九兵衛も若江八人衆の一人です。出自は、清和源氏の流れを汲む森氏と伝わっています。
関ヶ原の戦いでは、奮戦の後討ち死にしたとも、生存したとも言われており、真偽は不明です。
・浅香庄二郎
浅香庄二郎は、そのあまりの美貌ぶりに戦国三大美少年の一人に数えられている人物です。
元々は、織田信雄の小姓として仕え、優れた武勇で名を馳せていました。
しかし、信雄が流罪されると、木村吉清に仕え、吉清失脚後は、蒲生氏郷の客将となります。
石田三成のところへは、氏郷が亡くなった後にきました。
関ヶ原の戦いでは、三成が敗北した頃、浅香庄二郎は佐和山城を守備していました。
佐和山城はその後落城してしまうのですが、浅香庄二郎は津田清幽らとともに脱出しています。
そして、その後は加賀藩に2千石で仕えたと言われています。
・蒲生郷舎
蒲生郷舎は、元々の名前を坂源兵衛といい、坂氏の出身です。
三成に仕える前は、関成政、柴田勝家、蒲生氏郷、蒲生秀行に仕えていました。
蒲生郷舎の名前は、氏郷の家臣であった頃、秀吉の九州征伐に参戦し、武功を挙げたことで授かったそうです。蒲生家は、名将と誉れ高い氏郷が亡くなったことにより、御家騒動が起きてしまいます。
この御家騒動の際に、蒲生郷舎は浪人になってしったところを、石田三成に拾われました。
関ヶ原の戦いのあとは、もう一度蒲生家に帰参しますが、その後も色々とあり蒲生家から追放されています。
・蒲生頼郷
蒲生頼郷も元は蒲生氏郷に仕えており、その後の御家騒動で浪人になってしまったところを、石田三成に拾われました。石田三成は蒲生家の旧臣を多く召し抱えていたようです。
蒲生頼郷の知行は1万石〜1万5千石と言われており、これは島左近に次ぐ待遇でした。
石田三成の期待に応えるべく、関ヶ原の戦いでは島左近とともに石田隊を指揮しました。
島左近が銃弾で負傷した後も、蒲生頼郷一人で前線を支えていたと言われています。
蒲生頼郷は、三成が敗北し、退却したのを見届けると、最後の突撃をはじめました。
そして、そこでかつての同僚であった織田有楽と出会います。
蒲生頼郷を見た織田有楽は、降伏して命乞いをするように勧めました。
しかし、蒲生頼郷はカラカラと笑い降伏勧告を退けると、織田有楽に斬りかかり負傷させたそうです。その後、織田有楽に家臣に攻撃され、壮絶な最後を遂げたと言われています。
石田三成の家族の関係者
石田三成の家臣の中には、三成の家族の関係者もいます。
娘の結婚相手だったり、その父親だったりと関係性は様々です。
親戚関係にあるため、他の家臣よりも、より親密な仲だったことでしょう。
・宇多頼忠
宇多頼忠は、石田三成の妻の父です。
つまり、三成の義父にあたるわけですが、最初は豊臣秀吉の家臣でした。
そのため、当時は三成と同僚であり、その縁で豊臣秀長の仲介により三成と宇多頼忠の娘が結婚したというわけです。
宇多頼忠は、秀吉、秀長、秀保と豊臣家に仕えていましたが、秀吉没後は三成の下に身を寄せていました。そのため、三成の家臣としても名前があがるようになったのです。
関ヶ原の戦いでは、三成の一族衆とともに佐和山城を守っていました。
しかし、佐和山城は落城し、宇多頼忠は嫡男とともに自害したと言われています。
・山田上野介
山田上野介は、石田三成の長女の義父に当たる人物です。
つまり、三成の長女は、山田上野介の息子・山田勝重と結婚していたということです。
関ヶ原の戦いでは、三成の一族衆とともに佐和山城を守備していました。
そして、佐和山城が落城する前に、勝重を脱出させ、菩提を弔うように命令したと言われています。息子たちが脱出したのを見送り、山田上野介自身は自害したそうです。
・山田勝重
山田勝重は先程お伝えした山田上野介の息子で、石田三成の長女の夫になります。
佐和山城落城の際、妻や息子ともに脱出し、その後は松平忠輝に仕えることになりました。
そして、松平忠輝の改易後は、三成の三女の縁で、津軽家の支援を受けながら隠棲したと言われています。
関ヶ原の戦いで石田三成の敗走に付き従った家臣
石田三成は、関ヶ原の戦いで敗北が決まった後、一度逃げて再起を図ろうとします。
その敗走にも付き従った家臣たちがいます。
しかし、三成は逃げ切れないことを悟ったのでしょう。
家臣たちが殺されないように、自分と離れることを告げ、家臣たちは三成の思いを汲み取り、涙ながらに別れたと言われています。
【石田三成の敗走に付き従った家臣】
- 磯野平三郎
- 塩野清助
- 渡辺甚平
- 渡辺勘兵衛
石田三成と家臣のエピソード
石田三成は、家臣のことをとても大切にしていました。
家臣だからといって自分より下に見ることはなく、その人の実力に見合う対価を支払っていました。
しかし、中にはその対価の払い方が、普通では考えられないような大胆なものもあったのです。
ここでは、そんな石田三成と家臣たちとのエピソードを簡単に解説していきます。
石田三成は渡辺勘兵衛に自分の知行全てを与えた?
まず一人目は、武勇に優れていることで有名な渡辺勘兵衛とのエピソードです。
この勘兵衛は、「十万石でなければ士官しない」と公言しており、柴田勝家が1万石、豊臣秀吉が2万石でスカウトしても断ったという人物です。
そんな勘兵衛は、後に石田三成の家臣になるのですが、そのスカウト方法がとても大胆なものでした。
石田三成が勘兵衛をスカウトしに行った時、三成はなんとまだたったの500石の石高しかありませんでした。10万石なんて到底与えられる立場ではありません。
しかし、勘兵衛は石田三成に仕えることになります。
豊臣秀吉は不思議に思い、三成にどうやって勘兵衛を口説いたのか聞きました。
すると、三成は「ワシはいずれ100万石の大名になる。その時に必ずそなたに10万石をやる。それまではワシの500石、全部そなたにやる」
と勘兵衛と約束し、自分の石高全てを分け与えたというのです。
しかし、全部あげてしまったら、自分の住むところがなくなってしまいますよね?
なんと石田三成は、そのまま勘兵衛のところに居候することにするのです。
こうして、自分のためにここまでしてくれた三成に惹かれ、勘兵衛は三成に仕えることにしたのでした。
その後、三成は宣言通りぐんぐんと出世を重ねていきます。
三成は自分の石高が増えるたびに、勘兵衛に加増をすると言いました。
しかし、勘兵衛は「三成様が100万石になるまでは…」と言って断り続けたのです。
その後、三成は結局100万石の大名になることなく、夢半ばで亡くなってしまいます。
そのため、勘兵衛も生涯500石のまま三成に仕え続けたことになります。
勘兵衛が死ぬ間際にはこんなエピソードがあります。
勘兵衛も三成の家臣として関ヶ原の戦いに参戦していましたが、重症を負い自害してしまうのです。
勘兵衛は自害する前に、最後に一目でも三成を見たいと三成のもとに会いに行きます。
そして、そんな勘兵衛を見た三成は、
「そなたの10万石も夢となってしまったな」
と声をかけたと言われています。
勘兵衛は、最後の最後まで自分のことを気にかけてくれた石田三成にとても感謝したそうです。
三成がいかに勘兵衛のことを大切にしていたのかが伺えますし、勘兵衛との確かな絆を感じるエピソードですね。
石田三成は島左近に自分と同じだけの領地を与えた?
石田三成の家臣の中で1番有名なのは島左近でしょう。
のちに、
「三成に過ぎたるものが2つあり、島の左近と佐和山の城」
と謳われるほど、左近は本来三成が家臣にできるような人物ではありませんでした。
石田三成はどのようにして左近を家臣にしたのでしょうか?
その方法も渡辺勘兵衛のとき同様、とても大胆なものでした。
石田三成はあるとき、豊臣秀吉から4万石の領地を新たに与えられました。
そこで、秀吉は
「何人家来を増やしたか?」
と三成に訪ねました。
それに対して三成は「一人です」と言ったのです。
秀吉はこれにびっくりすると同時に、どうして一人しか増えなかったのか疑問をもちました。
そこで、「誰をどれだけの禄高で召し抱えたのか?」を聞きます。
すると三成は、島左近に領地の半分である2万石を与えたと言うのです。
これを聞いた秀吉は、
「主君と家臣の禄高が同じとは聞いたことがない。だが、そうでもなければ左近ほどの名士が部下にはなるまい」
と納得したと言われています。
普通であれば家臣への威厳を保つために、主君が1番多い禄高になるようにしますよね。
しかし、石田三成は自分と左近の実力をしっかり考えた上で、そうでもしなければいけないだろうと踏んだのでしょう。普通であれば考えられないようなことでも、自分の目標のためならば実行する、そんな大胆なことができる人物だったのです。
ちなみに、三成はこの時自分と同じだけの禄高を分け与えたにも関わらず、その後領地を得た時にまた左近に与えようとします。
しかし、左近は流石に
「もう禄はいらないです。他の家臣にあげてください」
と断ったそうです。三成がいかに左近を大事にしていたのかがわかりますし、左近も禄をこれ以上もらわなくても三成に仕えていたいと考えていたことがわかりますね。
石田三成の家臣は関ヶ原の戦い以降どうなった?
石田三成にはたくさんの信頼できる家臣たちがいました。
その家臣たちも多くが、石田軍として関ヶ原の戦いに参戦しました。
それでは、その家臣たちは関ヶ原の戦後、石田三成が処刑された後どうなってしまったのでしょうか?ここでは、三成の家臣の関ヶ原の戦いのその後を簡単に解説していきます。
石田三成の家臣はほとんど戦死か自害した?
三成の家臣たちは、三成と運命をともにするために関ヶ原の戦いに石田軍として参戦します。しかし、関ヶ原の戦いは三成率いる西軍の敗北に終わってしまいます。三成自身も捕縛され処刑されてしまうのですが、家臣たちもそのほとんどが戦死したか自害したと言われています。
【関ヶ原の戦いで戦死した石田三成の家臣】
- 東新太夫
- 安宅作右衛門
- 阿閉孫九郎
- 大橋掃部
- (大場土佐)
- 大山伯耆
- 蒲生将監
- 蒲生頼郷
- 島左近
- 高橋権太夫
- 佃宗右衛門
- 中島宗左衛門
- 服部新左衛門
- 舞兵庫
- 村山理介
- 森九兵衛
【関ヶ原の戦いの後、自害した石田三成の家臣】
- 小幡信世
- 樫原彦右衛門
- 土田桃雲
- 山田上野介
- 渡辺勘兵衛
石田三成の家臣の中には、別の武将の家臣になった者も?
石田三成の家臣たちは、そのほとんどが主君と供に亡くなってしまいました。
しかし、中には生き延びて、別の武将の家臣になった者や、元の家に帰った者もいます。
もちろん、戦に負けるのが怖くて逃げ出した家臣もいましたが、石田三成の家臣のほとんどは三成との別れを惜しんだと言われています。
そのため、生き延びてたとえ他家の家臣になろうとも、三成への恩義を忘れたりはしなかったのでしょう。
【別の武将の家臣になった石田三成の家臣】
- 浅香庄二郎(加賀藩に仕える)
- 磯野平三郎(藤堂高虎に仕える)
- 蒲生郷舎(蒲生家に帰参)
- 北川平左衛門(蒲生家に帰参)
- 雑賀内膳(徳川家康に仕える)
- 高野越中(浅野幸長に仕える)
- 八十島助左衛門(藤堂高虎に仕える)
- 山田勝重(松平忠輝に仕える)
- (大場土佐(蜂須賀至鎮に仕える))
まとめ:石田三成は家臣のことをとても大切に扱う人物だった
石田三成は、行き場のなくなった武将を家臣として迎え入れたり、実力がある人を大胆な方法でスカウトしたりと、その優しさと大胆さで頼もしく勇猛な武将たちを家臣にしました。そして、家臣との関係はどの人とでも信頼関係が確かに築かれていたようです。
今回の内容をまとめると、
- 石田三成は豊臣秀吉の家臣として豊臣家に尽くした
- 石田三成は行き場のなくなった武将や実力があるのに誰にも仕えていない武将など、様々な人を家臣にしていた
- 石田三成の家臣は、三成が戦上手ではなかった分勇猛な武将が多い
- 石田三成の家臣は、そのほとんどが関ヶ原の戦いで戦死したか自害した
石田三成は、秀吉に同じように仕えていた武断派の武将たちから嫌われて、暗殺未遂まで起きています。しかし、石田三成と家臣たちの関係を見ると、本当にそんなに嫌われるような人物だったのか?と疑わしくなってしまいます。