石田三成の性格は?どんな人だったのか?人物像が見える逸話とともに解説!
石田三成(1560(永禄3)〜1600(慶長5))は、安土桃山時代に活躍した武将です。豊臣秀吉の家臣として秀吉のことを支え、その死後も豊臣家を五奉行として支え続けました。
そんな石田三成は、一昔前では権力欲から他人を陥れ、周りからとても嫌われていたというマイナスなイメージが強かった人物です。
しかし、最近では実際はそうではなかったのではないか?と再評価されてきているのです。
この記事では、石田三成がどのような性格をしていたのかを、逸話とともに簡単に解説していきます。
目次
石田三成の性格は?
石田三成は、一昔前は「優秀だが嫌味なやつ」というイメージが強い武将でした。
しかし、最近では三成の性格は少し違ったのではないか?と見直されてきているのです。
ここでは、石田三成の性格について簡単に解説していきます。
石田三成は真面目で忠義に厚い人物だった?
石田三成の性格はどのようなものだったのでしょうか?
【石田三成の性格】
- 頭脳派で算術などが得意な、生真面目な官僚タイプ
- 好き嫌いがはっきりしている
- 融通が利かない頑固者
- 私欲を肥やすことはなく、生活は質素だった
- 戦上手ではなかったが、後方支援が得意だった
- 人とのコミュニケーションが不得意だった
- 主君にも臆することなく意見できた
つまり、生真面目すぎて融通が利かない面もあったようですが、頭脳明晰でその頭を活かして動ける人物だったということですね。
また、忠義にもとても厚い人物で、幼い時に秀吉に仕えてから、その生涯を豊臣家に尽くしました。
それは、豊臣家を守るために、勝ち目の薄かった関ヶ原の戦いに、命をかけてまで挑んだことからも伺えます。
石田三成は徳川家康によって悪者にされていた?
石田三成は忠義に厚く、真面目で知的な武将でした。
ここだけ見れば、一昔前まで評価が低かったのがおかしいくらいです。
なぜ昔はそんなに評価が低かったのでしょうか?
それは、情報操作がされていたのではないかという話があるのです。
実は、石田三成の名前は江戸時代前期の史料には全く見ることができません。
豊臣秀吉の家臣として名前をあげていた三成が全く見られないということはおかしいですよね。
これは、関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康が、情報操作をしたのではないか?と言われているのです。
敗者である石田三成がいい奴ではなく悪いやつであればあるほど、徳川家康にとって都合がよかったということですね。
「歴史は勝者が作る」とはよく言われますが、石田三成もその被害者であったと言っても過言ではないでしょう。
石田三成は嫌われすぎて暗殺されそうになった?
石田三成は関ヶ原の戦いの敗戦を受けて処刑されることになりますが、実はそれ以前にも、あまりにも周りの人たちに嫌われすぎて暗殺されそうになったことがあるのです。
それは豊臣家の重臣・前田利家の死後、1599年(慶長4年)のことです。
石田三成の暗殺を企んだのは、なんと豊臣家の古くからの家臣で「武断派」と呼ばれる人たちでした。
秀吉が天下を統一し、平和な世の中になった当時、武断派が活躍できる場面は少なく、文治派である石田三成が活躍しているのが気に食わなかったのです。
そのため、豊臣家を仕切ろうとする三成のことを、排除しようと考えた、「加藤清正、福島正則、黒田長政、細川忠興、藤堂高虎、浅野幸長、蜂須賀家政」の武断派である7人は、三成の屋敷を襲撃したのです。
三成はなんとか屋敷から脱出し、不本意ながらこの場を丸く収めることができるであろう徳川家康の屋敷に逃げ込み助けを求めます。
この時、家康はあくまで豊臣家を支える大名の一人として中立の立場を取りました。
そして、武断派の人たちを鎮めることに成功したのです。
しかし、三成はこの騒ぎを収束させるためという理由で、家康に引退させられてしまいました。
こうして、三成は暗殺騒動により、政治の中心から遠ざけられてしまったのです。
石田三成の気配り上手なエピソード
石田三成は、他人とのコミュニケーションこそ苦手でしたが、実はとても気配り上手な人でした。
ここでは、三成の気配り上手なところがよく現れているエピソードを簡単に解説していきます。
石田三成は三献の茶でもてなして豊臣秀吉に気に入られた?
石田三成が秀吉に仕えるきっかけになった出来事も、三成の気配りが光ったエピソードとなっています。
それは、三成が14歳のときのこと。
その当時、秀吉はまだ長浜城主になって間もないときでした。
ある日、秀吉は鷹狩の帰りに喉が渇き、ある寺に入りお茶を所望しました。
秀吉の要望に対して、ある小姓が大きめの茶碗にぬるめのお茶を入れて持ってきました。
それを喉が渇いていた秀吉は一気に飲み干してしまいます。
そして、もう一杯のお茶を頼みます。
すると、今度は中くらいの茶碗に先程よりも少し熱いお茶が出てきました。
秀吉は違いが気になり、もう一杯お茶を頼むと、出てきたのは小さな茶碗に入れられた熱々のお茶でした。
秀吉は何故このようなお茶の出し方をしたのかと小姓に聞きました。
すると小姓は、
「最初は喉を潤したいから温いお茶を、2杯目は少し喉が潤わされたからさっきよりも熱めのお茶を、3杯目はお茶を楽しめるように熱いものを出しました」
と言ったのです。
秀吉はこの飲み手への気遣いにとても感心し、この小姓を自分の小姓とすることにしました。
そして、この小姓こそが石田三成だったのです。
こうして、三成は「三献の茶」のおもてなしによって秀吉に仕えることになったのでした。
相手の状況を見極め、それにあった対応ができる、素晴らしい気配りですよね。
石田三成はその緻密さを兵站に生かした?
石田三成は秀吉の家臣として有名ですが、決して戦上手なわけではありませんでした。
石田三成は、後方支援で活躍していたのです。
三成は、最前線で戦うよりも、後方で兵糧・武具などの手配を行う兵站で才能を発揮していたのです。
その才能の片鱗を初めて見せたのは、賤ヶ岳の戦い(1583)の時です。
この際、秀吉は大垣から木之本へと大返しを行いました。
その時に、軍がスムーズに行軍できるように、三成は握り飯と松明を用意。
石田三成が行ったことは、確かに最前線で武功をあげることに比べたら地味かもしれません。
しかし、この後方支援があったからこそ助かった場面は何度もあるのです。
また、堺奉行を始めとする奉行職にも度々任命されていて、いかに三成が有能な吏僚として扱われていたのかが伺えます。
様々な状況下において、何が今1番必要なのかを冷静に判断でき、細部まで気を配ることができる人物であったからこそ、三成は秀吉にとって必要不可欠な人材となったのでしょう。
石田三成の義に厚かったエピソード
石田三成は義に厚いことでも有名です。
三成は、どんな状況でも、主君も親友も家臣も大切に扱っていたのです。
ここでは、三成の義に厚かったことがよくわかるエピソードを簡単に解説していきます。
石田三成は豊臣家を守るために徳川家康と戦った?
石田三成は先程もお伝えしたように、若い時に秀吉に気に入られ、仕えるようになりました。そこからは、自分の生涯をかけて豊臣家に尽くすことになります。
そして、その最たるものが、関ヶ原の戦いです。
関ヶ原の戦いは、始まる前勝ち目は薄いと言われていました。
それでも、なぜ石田三成は徳川家康と戦うことを決意したのか?
そこには、豊臣家への忠義があったのです。
秀吉の死後、家康は最大勢力であることを利用して好き放題やり始めます。
例えば、秀吉は特定の大名が大きな力を持たないように、大名間の勝手な婚姻を厳禁としていましたが、家康は秀吉の死から半年も経っていないうちに、伊達政宗や福島正則らと私婚を結ぶ動きを見せるのです。
このときは、前田利家や三成らがなんとか止めることに成功しましたが、その後家康に唯一対抗できるストッパーであった前田利家が病により死んでしまいます。
そして、家康は徳川を中心とする新たな世界を作るために、再び動き出すのです。
石田三成は非常に忠義に厚い人物でしたので、豊臣家を中心とする国家の維持をしようとしました。
これを守るためには、徳川家康を排除しなくてはなりません。そのため、三成は家康に戦いを挑むことになり、関ヶ原の戦いへと向かったのです。
石田三成は大谷吉継との友情を大事にしていた?
石田三成の親友といえば大谷吉継です。
三成は吉継との友情を非常に大事にしていました。
それがよくわかるエピソードとして、お茶会での出来事があります。
当時、秀吉は頻繁に茶会を開いており、一口ずつお茶を回し飲みする習慣がありました。
その茶会には当然のことながら、秀吉の家臣であった三成と吉継も参加していました。
しかし、吉継はハンセン病を患っており、口をつけずにお茶を回そうとしていたのですが、顔の膿がお茶の中に入ってしまったのです。
それを見た他の武将たちはどよめき、吉継は茶碗を回せなくなってしまいます。
その時、
三成が「吉継、私は喉が渇いて待ち切れない。早く碗を回せ」といい、一気にそのお茶を飲み干してしまいました。
さらには、秀吉に向かって、「美味しかったので全部飲み干してしまいました。もう一杯ください」とも言いました。
吉継を助け、さらには茶会の場まで丸く収める三成の行動は、まさに義に厚い男であると言えるでしょう。これ以降、三成と吉継の絆はより一層深いものとなり、関ヶ原の戦いまで運命をともにするのです。
石田三成の大胆な行動のエピソード
石田三成は、自分の力に見合わない家臣を従えていたことでも有名です。
なぜそのような家臣をもつことができたのでしょうか?
ここでは、すごい家臣を手に入れるためにとった、三成の大胆な行動のエピソードを簡単に解説していきます。
石田三成は渡辺勘兵衛に自分の知行全てを与えた?
当時、武勇に優れていることで有名な渡辺勘兵衛という人物がいました。
この勘兵衛は、「十万石でなければ士官しない」と公言しており、柴田勝家が1万石、豊臣秀吉が2万石でスカウトしても断ったそうです。
そんな勘兵衛は、後に三成に仕えることになるのですが、そのスカウトの方法がとても大胆なものでした。
石田三成が勘兵衛をスカウトしに行った時、三成はなんとまだたったの500石の石高しかありませんでした。
10万石なんて到底与えられる立場ではありません。
しかし、勘兵衛は三成に仕えることになります。
秀吉は不思議に思い、三成にどうやって勘兵衛を口説いたのか聞きました。
すると、三成は
「ワシはいずれ100万石の大名になる。その時に必ずそなたに10万石をやる。それまではワシの500石、全部そなたにやる」
と勘兵衛と約束し、自分の石高全てを分け与えたというのです。
しかし、全部あげてしまったら、自分の住むところがなくなってしまいますよね?
そこで三成は、なんとそのまま勘兵衛のところに居候することにするのです。
こうして、自分のためにここまでしてくれた三成に惹かれ、勘兵衛は三成に仕えることにしたのでした。
その後、三成は宣言通りぐんぐんと出世を重ねていきます。
三成は自分の石高が増えるたびに、勘兵衛に加増をすると言いました。
しかし、勘兵衛は「三成様が100万石になるまでは…」と言って断り続けたそうです。
その後、三成は結局100万石の大名になることなく、夢半ばで亡くなってしまいます。
そのため、勘兵衛も生涯500石のまま三成に仕え続けたことになります。
勘兵衛が死ぬ間際にはこんなエピソードがあります。
勘兵衛も三成の家臣として関ヶ原の戦いに参戦していました。
しかし、重症を負い自害してしまいました。
勘兵衛は自害する前に、最後に一目でも三成を見たいと三成のもとに会いに行きます。
そして、そんな勘兵衛を見た三成は、「そなたの10万石も夢となってしまったな」と声をかけたと言われています。
勘兵衛は最後の最後まで自分のことを気にかけてくれた三成にとても感謝したそうです。
三成と勘兵衛の確かな絆を感じるエピソードですね。
石田三成は島左近に自分と同じだけの領地を与えた?
石田三成の家臣の中で1番有名なのは島左近でしょう。
のちに「三成に過ぎたるものが2つあり、島の左近と佐和山の城」と謳われるほど、
左近は本来三成が家臣にできるような人物ではありませんでした。
それでは、三成はどのようにして左近を家臣にしたのでしょうか?
石田三成が島左近を家臣にした、その方法もとても大胆なものでした。
三成はあるとき、秀吉から4万石の領地を新たに与えられました。
そこで、秀吉は「何人家来を増やしたか?」と三成に訪ねました。
それに対して三成は「一人です」と言ったのです。
秀吉はこれにびっくりすると同時に、どうして一人しか増えなかったのか疑問をもちました。
そこで、誰をどれだけの禄高で召し抱えたのかを聞きます。
すると三成は、島左近に領地の半分である2万石を与えたと言うのです。
これを聞いた秀吉は、
「主君と家臣の禄高が同じとは聞いたことがない。だが、そうでもなければ左近ほどの名士が部下にはなるまい」
と納得したと言われています。
普通であれば家臣への威厳を保つために、主君が1番多い禄高になるようにしますよね。
しかし、三成は自分と左近の実力をしっかり考えた上で、そうでもしなければいけないだろうと踏んだのでしょう。普通であれば考えられないようなことでも、自分の目標のためならば実行する、そんな大胆なことができる人物だったのです。
ちなみに、石田三成はこの時自分と同じだけの禄高を分け与えたにも関わらず、その後領地を得た時にまた左近に与えようとします。
しかし、左近は流石に「もう禄はいらないです。他の家臣にあげてください」と断ったそうです。
三成がいかに左近を大事にしていたのかがわかりますし、左近も禄をこれ以上もらわなくても三成に仕えていたいと考えていたことがわかりますね。
まとめ:石田三成は真面目で気配りのできる義に厚い人物であった
石田三成は、最前線で活躍できるような武将ではありませんでしたが、非常に後方支援が得意な武将でした。それは、真面目で気配りのできる三成であったからこそできたことなのでしょう。そして、自分の人生をかけて豊臣家のために尽くした、義に厚い人物でもありました。
今回の内容をまとめると、
- ・三成は真面目で気配りのできる官僚タイプ
- ・若い頃に秀吉に仕えてからは、その生涯を豊臣家に尽くした
- ・他人とのコミュニケーションのとり方に問題があり、一部からは嫌われていた
- ・嫌われすぎて暗殺されそうになったこともある
- ・忠義のために勝ち目の薄い関ヶ原の戦いに挑んだ
石田三成は、関ヶ原の戦いに負け、捕縛された時、様々な場所で罪人として引き回しにあいました。しかし、その間決して下を向くことはなく、堂々と前を向いていたと言われています。
自分のしたことに後悔がないからなのでしょう。その姿はきっと大層凛々しいものだったに違いありません。最後の最後まで豊臣家に尽くしたその姿勢に感心せざるを得ませんね。