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【織田信長本能寺の変の黒幕は誰明智光秀はなぜ謀反を起こしたのか?

【織田信長】本能寺の変の黒幕は誰?明智光秀はなぜ謀反を起こしたのか?

日本の歴史を大きく変えた「本能寺の変」。天下統一目前の織田信長を、その家臣であった明智光秀が謀反を起こして信長を討った、まさに歴史上の大事件です。
今から400年以上前の出来事ですが、今もまだ戦国時代の最大のミステリーとしてよく話題になりますね。
今回は、本能寺の変を時系列に簡単に解説、本能寺の変はなぜ起こったのか?怨恨説や黒幕説の解説、信長の最後についてまとめました。

本能寺の変はこうして起こった

本能寺の変
本能寺の変(Wikipediaより)

1582年(天正10年)6月2日の早朝、まだ皆が寝静まっている時間に本能寺の変は起こりました。早朝だったため、信長は初め家臣同士の喧嘩だと思ったようですが、すぐにことの重大さに気付き、世話人の森蘭丸もりらんまるを呼び出し
「これは謀反か?如何なる者の企てぞ(これは反乱か?首謀者は誰だ?)」と聞いたといいます。
森蘭丸は、「明智の者と見え申し候(明智光秀の軍のようです)」と答えると、それに対し信長は「是非に及ばず(それならばしょうがない)」と答えたといいます。
信長は弓や槍で応戦しますが、非常に少数の兵士しかいなかったため応戦も間に合わず、信長は覚悟を決め奥の部屋に入り最後は自害しました。これが本能寺の変です。
自分の最後は誰にも見せないといった覚悟で、当時本能寺にいた女性たちを逃し一人で奥の部屋にて49年の人生に幕を引いた信長の遺体は見つかっていないことから、信長の生死も非常に謎めいています。

なぜ信長は本能寺に滞在していたのか?

信長はなぜ本能寺に滞在していたのか?それには、いくつかの理由があります。

秀吉の援軍として中国地方へ向かうため
 信長は当時中国地方(対毛利軍)との争いに、秀吉を大将とした軍を派遣していました。その秀吉から援軍の依頼がきており、その援軍として中国地方に向かうために京都に滞在していました。同じく、明智光秀も援軍として参加するよう信長から命を受けていました。

茶会の開催
 本能寺の変の前日、信長は朝廷に使える人々を招待し、本能寺にて茶会を開催しています。信長は文化にも造詣が深く、特に文化人や朝廷の人々を招待してよく茶会を開催していました。天下統一に向けて、朝廷の後ろ盾は欠かせません。そのために開催した茶会だと言われています。

京都には屋敷がなく、本能寺を常宿としていた
 当時、大名が京都のどこに屋敷を建てるかで、その地位や立場を表明するという意味もありました。足利義昭あしかがよしあきが自分の屋敷の近くに屋敷を建てるよう信長に何度も進言したが、信長は断固として断ったというエピソードがあります。
義昭の屋敷の近くに信長が屋敷を建てるということは、義昭を守るため、つまりは義昭の家臣であると表明するような意味も含んでいたことから、信長は屋敷を建てることを保留にしていたのです。そして、信長は京都に滞在するときには寺院に宿泊することとしたそうです。ちなみに本能寺を定宿としていていて、「本能寺は信長の定宿であるから、他のものが寄宿してはならない」という文書も本能寺宛てに出しています。

※ちなみに当時は大名が寺院を宿所として利用することは一般的でした。

信長は、まさかこの本能寺で最後を迎えるなんて思ってもいなかったでしょう。当時の信長の勢力は拡大中で、武田家も滅ぼし、上杉謙信の死で強敵がいなくなり、関東地方を治めていた北条氏とも協力関係を築いていましたから、残るは中国地方の毛利軍のみ押さえれば、ほぼ天下を手中に治めることになります。まさに天下統一目前で本能寺の変は起こったのです。

本能寺の変を時系列順に簡単解説

織田信長 本能寺の変
織田信長(Wikipediaより)

当時の織田軍は中国地方の毛利軍を押さえれば、天下統一がほぼ目の前という状況でした。中国地方(対毛利)には豊臣秀吉とよとみひでよし軍、四国地方には織田信孝おだのぶたか軍(対長曽我部)、北陸方面には柴田勝家しばたかついえ(対上杉)、関東地方には滝川一益たきがわいちます(対北条)と、有力な家臣とその軍は各地方にてそれぞれの任にあたっていました。つまり、信長の近くには明智光秀を中心とした家臣しかいなかったのです。

1582年5月5月15日
中国地方を攻めていた秀吉から信長に援軍要請
当時、秀吉は備中高松城びっちゅうたかまつじょう(現在の岡山県)にて、毛利軍と戦っていました。毛利軍本体の到着が噂され、苦戦することが予想されたための援軍要請でした。
この少し前、安土城で徳川家康の功績を称えた宴が行われており、その接待役が光秀でした。
その光秀の接待に問題があった?もしくは光秀の発言が気に入らなかった?ため、信長は光秀を足蹴にしたという記録がありますが、真相は不明です。この接待後に光秀は、秀吉の援軍として出陣するために坂本城へ戻っています。

5月26日
光秀軍は亀山城に入る。

5月27日
光秀、愛宕権現あたごごんげんにて戦勝祈願。

5月28日
光秀、京都の愛宕山にて、愛宕百韻あたごひゃくいん(連歌の会)を開催。
この時、光秀は「 あめがしる 五月かな」という歌を詠んでいます。
この句は、「土岐とき氏である自分が天下を取る五月である」といった解釈をされ、この時すでに光秀は謀反を計画していたのだと言われます。
しかし、この光秀の野望説に繋がるイメージは、秀吉が操作したものだとも言われています。

5月29日
信長が上洛じょうらく(京都入り)本能寺へ入る。
※旧暦では5月30日と31日はありません。

6月1日
信長、朝廷の関係者を招き、本能寺にて茶会を開催。
信長としては、大勢を招いて茶会を開くことは珍しかったといいます。この時、朝廷関係者に向けて、6月4日に毛利征伐のため中国へ向けて出発することを伝えたと言われています。

6月2日 子の刻(23時〜1時頃)
光秀は、約13,000の兵を率いて亀山城を出発し京都を目指す。
この時、兵士たちはまさか自分たちが信長を討ちに行くなんて思ってもいなかったことでしょう。そして夜も明けきらぬ中、兵士たちは本能寺を囲み攻撃を開始したと言われています。
当時本能寺には、信長の小姓こしょう(世話人)など約100名程度しか滞在していなかったと言われています。明智軍の謀反と知った信長は、「是非に及ばず(それならばしょうがない)」と言い、自ら弓や槍を持ち戦いますが、負傷し奥の部屋へ入り最後は自害。
光秀軍の足軽で先陣を切って本能寺を攻めた「本城惣右衛門ほんじょうそううえもん」が残した覚書によると、
本能寺を攻めた光秀軍の兵士たちは、まさか自分たちが信長を討ち取るために戦っているなんて思ってもいなかった」と言います。

もし、信長を攻撃しているなんて知っていたらどうなっていたんでしょうね?もし知っても本能寺を攻撃するのを断ると、それは光秀に対する謀反となりますからね。。。
ちなみに、ドラマや映画などでよく見かける光秀が「敵は本能寺にあり」と叫ぶシーン。実は光秀は「敵は本能寺にあり」なんて叫んでないという説があります。これは、本能寺の変の後に書かれた軍記物や歴史小説が作り出した創作です。当時はマイクなどもありませんから、もし光秀が「敵は本能寺にあり」と叫んでいたとしても、ごく少数の周りにいた兵士にしか聞こえないはずですから。しかし、ドラマや映画などでは名シーンとして今後も使われていくのではないでしょうか。

本能寺の変の真相は?なぜ起こったのか?

日本史上のミステリー「本能寺の変」。天下統一目前の織田信長が、信頼していた家臣明智光秀の謀反によって命を落としてしまった出来事です。信長は最後まで光秀が謀反を起こすなんて思っていなかったとも言われています。信長からそれだけ絶大な信頼を受けていた光秀は、なぜ謀反を起こしたのでしょうか?様々な説がありますので、解説していきます。

本能寺の変イメージ(Wikipediaより)

怨恨説

本能寺の変の動機としてよく言われているのが、光秀の信長に対する怨恨説です。

  • 金柑頭と呼ばれたり、足蹴にされたりと常日頃からの恨みつらみの積み重ねによる怒りが爆発した。
  • 安土城にて家康をもてなす準備の際、手ぬかりがあると信長が激怒し、満座の中折檻された。
  • 光秀が自分の母を人質にして敵を降伏させたが、信長は約束を守らず敵将を討ちったため敵方に母親を斬殺された。

などなど、常日頃からの扱いに耐えきれなくなったという話が多数あります。
こうした怨恨説に繋がる話は江戸時代から語り伝えられ、ドラマや映画では信長にひどい扱いをうける光秀がよく演じられています。
宣教師ルイス・フロイスの日本史にも
本能寺の変の数ヶ月前に、光秀が何か言うと信長が大きな声を上げ、直後に光秀は部屋を出ていくという諍い(いさかい)があった」との記述もあります。
この怨恨説はよく俗書に書かれていることから、明らかに虚構という逸話もあるが、信憑性が不透明な逸話もあるため、完全に否定も肯定もできないといった状況です。

朝廷黒幕説

朝廷が明智光秀に信長暗殺を実行させたという説です。
当時、信長は朝廷に正親町天皇おおぎまちてんのう譲位じょういを求めたり、三職推任問題、暦を訂正するよう求めていたりと、朝廷に対して意見をしていた。そして、信長は天皇を廃して自分が天皇よりも上に立とうとしているという噂もあったと言われています。
この朝廷黒幕説は、本能寺の変後に近衛前久このえさきひさが事件関与を疑われて逃亡したこと、光秀と朝廷の取次役だった吉田兼見(よしだかねみ)が日記を改ざんし、光秀との関わりを隠そうとしたことなどが根拠として唱えられています。

足利義昭黒幕説

信長の協力を得て上洛し将軍になったとも言える足利義昭あしかがよしあきですが、1573年(元亀4年)信長によって京を追放されていました。その義昭が将軍としての権力を取り戻そうと光秀に本能寺の変を起こさせたという説です。
信長が朝廷に征夷大将軍せいいたいしょうぐんの任を求めれば、朝廷が承認する可能性があるという噂を聞き、その実現を恐れたという話もあります。
また、もともと義昭と信長の仲を取りもったのは光秀だったため、光秀と義昭が協力して室町幕府再建を狙っていたのではないかという説もあります。

徳川家康黒幕説

信長の同盟者として、東の防波堤役を務めてきた徳川家康とくがわいえやすが黒幕とする説です。
桶狭間の戦いで今川義元いまがわよしもとの属国から独立し、信長と同盟を組んでいた家康ですが、実は信長に正室と嫡男ちゃくなんを殺すよう命令され、実行していた過去があります。その時の恨みがあり、光秀と組んで本能寺の変を起こしたという、家康怨恨説です。
また、武田家の滅亡で家康の存在価値が失われたため、信長は家康との同盟の価値を失ったと思い、信長に掌を返されるのを恐れた家康が光秀と組んだという説もあります。
本能寺の変は、家康を討つための計画だったとする説もあり、明智軍は本能寺の変で徳川家康を討つと思っていた家臣たちもいたと言われています。

豊臣秀吉黒幕説

本能寺の変で最も利益を得た男、秀吉が計画したという説です。名も無い百姓の出だった秀吉は、信長の元で劇的に出世し、信長の死後天下統一を成し遂げた男です。
秀吉は情報操作に非常に長けていたと言われており、その情報操作により光秀を煽り本能寺の変を起こしたと言う説です。資料的な裏付けはありませんが、本能寺の変のすぐ後に中国大返し(岡山から京都までの役200kmを大軍を引き連れて10日で戻る)をやってのけたことが、本能寺の変を事前に知っていたからできたのではないかと言われています。

本能寺の変には、他にも光秀ノイローゼ説や、野望説、信長が唐入り(中国への侵攻)を阻止したい説など、様々な説がありますが、実際のところはまだ謎に包まれたままです。

信長の最後。信長が持っていた刀は?

無類の刀好きだったと言われる信長。そんな信長が最後に持っていた刀は「実休光忠じきゅうみつただ」と「薬研藤四郎やげんとうしろう」だったと言われています。どちらも有名な名刀で、どちらも本能寺の変で焼け落ち、現在は消息不明となっています。両刀のエピソードをご紹介します。

・実休光忠
備前長船 光忠の作で古くは三雲光忠と言われていた名刀です。
元は江州甲賀郡こうしゅうこうがぐん三雲城主みくもじょうしゅが所持しており、のちに三好実休みよしじっきゅうが入手し「三雲光忠」と呼んだと言われています。その後、久米田の戦いで畠山孝政はたやまたかまさが三好実休を討ったのちにこの光忠を所持し、信長に献上けんじょうしたといわれています。その後は「実休光忠」を呼ばれるようになりました。
この光忠は、本能寺の変で信長が明智軍と戦った際に振るったと言われており、信長の奮闘の傷跡が18カ所も残っていたそうです。本能寺の変と共に焼け落ちた光忠は、秀吉によって焼き直されましたが、その後家康に献上されていますが、その後は消息不明となっています。

薬研藤四郎
薬研藤四郎は短刀で、室町幕府3代将軍 足利義満あしかがよしみつが持っていたと言われる名刀です。
畠山政長が切腹の時に使ったと言われていて、
切れ味は抜群だが主人の腹は切らない」という言い伝えがあります。
長政は、この薬研藤四郎で自害しようとしましたが、何度試しても腹に刺さらず、政長は腹を立て投げつけたところ、薬をすり潰すために使われていた薬研に突き刺さったことから薬研藤四郎と呼ばれるようになったと言われています。
しかし、この名刀も本能寺の変で信長と共に焼け落ちたと言われていますが、一方では秀吉の息子 秀頼ひでよりが秘蔵したという説もありますが、現在は消息不明です。

信長が自害したとするなら、短刀の薬研藤四郎だと思われますが、主人の腹を切らないと言われている刀で自害したのだとしたらちょっと切ないですね。

そして信長の遺体はどこへ消えた?

阿弥陀寺にある織田信長公本廟

謀反を起こされた信長は、応戦するも13,000もの兵を相手にするのは非常に厳しく、最後は建物の奥の部屋に入り、最後は自害しました。この話は、信長のことを書いた『信長公記』にも書かれていますしドラマや映画でも取り上げられています。

その後、光秀軍は必死に信長の遺体を探しますが、発見されていません。信長の遺体はどこへ消えたのでしょうか?

実は、信長の首を静岡県富士宮市の西山本門寺に信長の首塚と呼ばれる場所があります。

ではなぜ、京都から約400kmも離れた場所に、なぜ信長の首塚があるのでしょうか?その謎をみていきましょう。

この謎を解く鍵は、本能寺の変の前日に開催された茶会にあります。

その茶会には、朝廷関係者や公家衆、そして博多の承認だった島井宗室しまいそうしつらが招かれていました。その茶会の後、囲碁の対局が行われました。その対局に日蓮宗の僧侶であり囲碁棋士だった本因坊算砂ほんいんぼうさんさが参加していました。この対局が終わり、本因坊算砂は本能寺に宿泊し、そして本能寺の変に居合わせたのです。

信長の自害を知った本因坊算砂は、原志摩守(宗安)に指示し信長の首を西山本門寺に持ち帰らせ、ひいらぎを植え首塚として葬ったと口伝されています。
この時植えられた柊は、現在樹齢400〜500年と診断されており、信長が本能寺で討たれた時期とも一致しています。1956年(昭和31年)に静岡県の天然記念物に指定されています。

また、信長の遺体の行方については別の説もあります。
京都市上京区にある阿弥陀寺あみだじには、信長、信広、信忠、信長の家臣であった森蘭丸など本能寺で命を落とした人々の墓があります。
阿弥陀寺の僧侶「清玉上人」が本能寺の僧侶のふりをして信長の遺体を持ち帰り、阿弥陀寺にて供養したという説です。
本能寺の変の最中は非常に混雑していますが、本当に持ち出せたのかどうかは疑問が残りますが、大正時代に宮内庁の調査により、「阿弥陀寺の信長公墓所は正式な廟所である」と認めれれていることから、信憑性は高いとの見方もあります。
いずれにせよ、光秀軍は必死で信長の遺体を探したのに見つけることができなかったのは、持ち出されたからという見方ができますね。
しかし、信長の遺体が一体どこへ消えたのか!?この謎は本能寺の変と共に最大のミステリーですね。

明智光秀はなぜ謀反を起こしたのか?

明智光秀(Wikipediaより)

本能寺の変の謎の一つ、なぜ光秀は謀反を起こしたのか?これには、前述の怨恨説、黒幕説などありますが、他にも光秀自信が謀反を起こした理由はなかったのでしょうか?ここでは、光秀自身に動機があり、本能寺の変を起こしたのではないか?という説をみていきましょう。

・四国攻めを阻止するため
土佐(現在の高知県)から四国制覇を目指していた長宗我部元親ちょうそかべもとちかと信長は友好関係を結んでおり、信長は元親の四国統一を認めていました。しかし、1580年(天正8年)に信長が本願寺と和睦すると、状況は一変し信長は元親に対して土佐以外は阿波(現在の徳島県)の半分の領有しか認めないと元親に告げました。
この状況の変化に一番困ったのは光秀です。光秀の家臣である斎藤利三さいとうとしみつは、長宗我部家と血縁関係で結ばれていたため、明智家のメンツを守るため、謀反を起こしたという説があります。実際に、信長は三男の信孝を総大将として四国軍を結成しています。
光秀としては、信長と長宗我部家の対立はなんとしても避けたかったのではないかと言われています。

・自分の地位や立場を守るため
光秀は途中から信長に仕えたいわば中途採用ですが、その功績を讃えられて信長家臣団の中でも劇的な出世をしています。そんな中、佐久間信盛さくまのぶもり林秀貞はやしひでさだなど古くから信長に仕えていた古参の家臣が、近年特に大した功績を上げていないという理由で追放されます。
そんな能力主義の信長に対して、恐怖を覚え、自分の立場も危うくなるのでは?と感じた光秀が謀反を起こしたという説です。いわば自己防衛本能が働いたとも言えます。
また着々と手柄を上げていた秀吉に対してもライバル視したのではないかという、秀吉ライバル視説もあります。いずれの説も、光秀の心情を推測したもので、根拠が薄いものといわれています。

・信長に代わって天下をとるため
光秀自身が天下を取りたかった、という光秀の野望説です。本能寺の変の前に、光秀が開催した連歌の会で光秀が歌った「時は今 あめが下しる 五月かな」という歌。この句を、「土岐氏である自分が天下を取る五月である」といった解釈たことも一つの根拠とされていますが、前述した通りこの解釈は秀吉による情報操作によるものだという説もあります。根拠としては非常に薄いものです。

・ノイローゼだった
ストレスなどからくる自律神経失調症により、冷静な判断ができなくなって謀反を起こしたとされる説です。資料などからも根拠は非常に薄いです。

もし本能寺の変がなかったら?織田信長は天下統一できた?

日本史上最大のミステリー「本能寺の変」。もしなかったら織田信長は天下統一できたのでしょうか?歴史の話にタラレバは無しですが、どうなっていたのか気になりますよね?
本能寺の変で信長が討たれなかったら、秀吉はどうなったのか?徳川家康は江戸幕府を開いたのか?をちょっと想像してみましょう。

当時の信長は、甲斐の武田家を滅ぼし、軍神上杉謙信も亡くなり、四国地方の長宗我部元親も信長と同盟する手筈をしていたようですから、残るは中国地方の毛利を治めれば、天下統一というところまで勢力を拡大していました。
その毛利軍も、秀吉の功績もあり双方妥協点を探りながら動いていたのでは?といった状況でしたからもうほぼ天下を手中に治めていたと言えます。もし本能寺の変がなかったら?というか、実は信長はほぼ天下を統一していたんですね。

まとめ:本能寺の変の真相は諸説あり

今回は、日本の歴史を大きく変えた戦国最大のミステリー「本能寺の変」について、本能寺の変を時系列に簡単に解説、本能寺の変はなぜ起こったのか?怨恨説や黒幕説の解説、信長の最後についてまとめてきました。
簡単にまとめると、

  • 本能寺の変の理由は黒幕説と光秀説の両方あるが、どちらが本当の理由だったのかはいまだに解明されていない。
  • 信長の遺体は、西山本門寺にある信長の首塚、もしくは阿弥陀寺にて供養されている?いずれにしても信長の遺体がどこに消えたのかはいまだに謎。
  • 信長の最後は、自害したと言われているが、その刀はなんだったのかは不明。
  • 信長は、本能寺の変の時にはほぼ天下を統一していた

いずれにしても、調べれば調べるほど謎の多い出来事です。まさに戦国最大のミステリーですね。
こうしてみると、秀吉は信長の没後に圧倒的速さで天下統一できたのは、信長の下地ができていてそのプランを秀吉が引き継いだ?乗っ取った?とも考えることができますね。

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