明智光秀のゆかりの城、居城した城から最後を見届けた城までを解説!

明智光秀のゆかりの城、居城した城から最後を見届けた城までを解説!

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大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公 明智光秀。本能寺の変で織田信長を自害に追い込んだことが非常に有名ですが、その出生や信長に仕える前の半生は記録がほとんどなく、謎の多い人物です。
今回はそんな明智光秀にゆかりのある城についてまとめてみました。光秀のゆかりの城から、あまり語られることの少ない光秀の人物象が見えてきます。

明智光秀にゆかりのある城は現在どこにある?

光秀にゆかりのある城は全部で10城あります。その中で現存する城は京都にある福知山城と勝竜寺城です。

【現存する城】

福知山城ふくちやまじょう  : 京都府福知山市内記5
勝龍寺城しょうりゅうじじょう : 京都府長岡市勝龍寺13-1
【廃城された城】

明智城あけちじょう  : 岐阜県可児市瀬田永山
明知城あけちじょう  : 岐阜県恵那市明智町城山
宇佐山城うさやまじょう : 滋賀県大津市滋賀町
黒井城くろいじょう  : 兵庫県丹羽市春日町黒井2263
・坂本城   : 滋賀県大津市下阪本3-1
・亀山城  : 京都府亀岡市荒塚町内丸1
金山城きんざんじょう  : 兵庫県丹羽市柏原町上小倉
周山城しゅうざんじょう : 京都府京都市右京区京北周山町

都道府県別にまとめると、

  • 京都府・・・福知山城、勝龍寺城、亀山城、周山城
  • 岐阜県・・・明智城、明智城
  • 滋賀県・・・宇佐山城、坂本城
  • 兵庫県・・・黒井城、金山城

となります。
こうしてみると、光秀は出身が美濃国(現在の岐阜県)という説が有力ですから、主に京都、滋賀、兵庫にゆかりの地があるということが見えますね。
信長が率いる織田軍においても近畿地方に主に滞在し、畿内平定の役割をになっていたことが見えてきますね。

明智光秀の出身地?青年期を過ごしたと言われている城

光秀の出生は謎に包まれておりはっきりとした資料は残っていないものの、美濃国(現在の岐阜県)の出身ということが有力視されています。出身地の美濃国で光秀にゆかりのある城は2つです。

明智城

明智城址(Wikipediaより)

光秀が誕生した城といわれています。長山城ながやまじょう明智長山城あけちながやまじょうとも呼ばれています。この明智城は、美濃源氏の流れを汲む土岐頼兼ときよりかね(明智頼兼)が1342年(康永元年)に築城し、その後約200年間の間、明智氏代々の居城として栄えました。
1556年(弘治2年)に、斎藤義龍さいとうよしたつに攻められ、籠城ろうじょうして戦いますが敗れ、その際に光秀は明智家再興を託されて城から逃れたと言われています。
光秀は、斎藤義龍に敗れ城を出るまで約30年間をこの明智城で過ごしたと言われています。
現在は、岐阜県可児市指定遺跡(長山城跡)となっていて、明智城址散策道が整備されハイキングコースとして楽しめるようになっています。

明知城

こちらも光秀が誕生した城と言われていますが、定かではありません。
この地は、もともと明智遠山氏累代の地で、光秀は足利尊氏の御家人の土岐氏の末裔とされているため生誕地である可能性は極めて低いと言われています。
美濃国と信濃国(現在の長野県)との国境に位置していて、織田家と武田家の間で争いが繰り広げられています。
この明知城は、土盛砦として堡塁数ほうるいすうが大小23箇所もあり、今での原型のままその様子が残されている数少ない城址で、岐阜県の指定文化財(史跡)となっています。

明智光秀にゆかりのある城

ここでは、光秀は築城していませんが、光秀が戦さの際に拠点とした城を紹介します。

宇佐山城

宇佐山城址(Wikipediaより)

1570年(元亀元年)に、森可成もりよしなりが織田信長の命により築城した城です。
当時、信長の本拠地だった岐阜城と京都を結ぶルートとして築城されました。同年、宇佐山城の戦いで、森可成は命をかけて城を死守しました。
光秀は、1571年比叡山の焼き討ち前に入城しました。そして比叡山焼討ちで手柄をあげた光秀は、信長から坂本の地を与えられ坂本城を築城、そちらに移ったために廃城になったのではないかと考えられています。
この宇佐山城は標高336mの宇佐山にあり、琵琶湖まで約1kmと山頂からは一望できる城です。
この宇佐山城は、信長が近江ではじめて石垣による築城を行った城郭です。この石垣から、宇佐山城は単なる陣城ではなく、恒久性を考えて築城されたのではないかと考えられています。
現在、本丸址にはNHKと民間放送のアンテナが建っていますが、その下には野面積みの石垣が残っており、その石垣をみることができます。

黒井城

黒井城址(Wikipediaより)

1334〜1338年の間に、赤松貞範あかまつさだのりによって築城された標高356mに位置するお城です。
1575年(天正3年)に織田信長は明智光秀を総大将にして、丹羽国征討戦に乗り出しました。光秀は、1576年(天正4年)第一次黒井城の戦いでは、波多野秀治軍に背後をつかれ総退却しましたが、その後1579年に第二次黒井城の戦いで落城させ、光秀の家臣だった斎藤利三さいとうとしみつを城主として統治させました。
本能寺の変の後、明智光秀の勢力は丹羽国から駆逐され、秀吉の家臣だった堀尾吉晴ほりおよしはるが入城したが、1584年(天正12年)の小牧・長久手の戦いを最後に、黒井城は約250年の歴史に幕を閉じ、廃城となったと言われています。

明智光秀が築城した城。光秀は築城の天才だった?

明智光秀は、実は築城の名手だったと言われています。
実際、ポルトガル人の宣教師ルイス・フロイスは
「築城のことに造詣が深く、優れた建築手腕の持ち主」
と評価しています。
光秀は織田信長の家臣として、多くの城を築いています。ここでは、光秀が築城した城を見ていきましょう。

坂本城

坂本城址

坂本城は、光秀が1571年(元亀2年)の比叡山焼討ちで手柄をあげ、信長から褒美としてもらった地に築城した城です。この坂本城は、延暦寺の監視と琵琶湖の制海権の獲得を目的としてつくられました。

ポルトガル人の宣教師ルイス・フロイスは

「安土城につぐ天下第二の城」

「日本人にとって豪壮華麗なもので、信長が安土山に建てたものにつぎ、この明智の城ほど有名なものは天下にないほどであった」

と絶賛しているほど立派な城だったということが伺えます。
光秀は、黒井城の戦いで丹羽国をほぼ手中に収め、1580年(天正8年)に亀山城の城主となったあとも、そのまま坂本城の城主でいたと言われています。
本能寺の変の後、光秀は山崎の戦いで敗れ坂本城に向かう途中で命を落としました。
その直後、明智秀満あけちひでみつが坂本城に戻りましたが、秀吉方の堀秀政ほりひでまさらに囲まれ、火を放って自害。その後、秀吉が丹羽長秀にわながひでに再建を命じて城主となりますが、1586年(天正14年)に廃城となり、その資材は大津城築城に使用されたと言われています。
現在は、坂本城址公園として整備されており、琵琶湖が渇水時には石垣をみることができます。

亀山城

亀山城址(Wikipediaより)

亀山城は、1578年(天正6年)に、信長の命を受けて丹波攻略に従していた光秀が築城した城です。光秀は丹波平定後も丹波経営の拠点としてました。
1582年(天正10年)本能寺の変もこの亀山城から出陣しています。
本能寺の変の後、天下を統一した秀吉、そして徳川家康もこの城を重要拠点として活用していました。
明治維新後に、宗教団体が入手し本部としましたが政府の弾圧によりが破壊され、象徴的な石は再利用できぬようにと日本海に捨てられましたが、第一次世界大戦後に、再び宗教団体によって修復されています。

金山城

金山城址(Wikipediaより)

金山城は、標高537mの山頂に1578年(天正6年)信長の命を受け八上城の波多野秀治はたのひではると、黒井城の赤井氏との連絡を分断させる目的で光秀が築城した城です。
現在は、土塁や石垣が一部残るだけですが本丸があったとされる場所からは八上城と黒井城を眺めることができます。また、「鬼の架け橋」や「天岩」などの景勝地がありハイキングコースとしても知られています。

福知山城

現在の福知山城

福知山城は、1579年(天正7年)に光秀が丹波国の平定をした際に拠点として築城した城と言われていますが、厳密には元々は福知山地方の塩見頼雄しおみよりかつが八幡城の脇に掻上城かきあげじょうを築城したのが始まりともいわれています。その後、横山城となり、明智光秀が現在の状態に作り上げたと言われています。

丹波平定していた光秀は、女婿の明智秀満を城主としました。
本能寺の変の後、秀満の父が留守居役となっていたが、秀吉に捕らえられ処刑されました。

光秀の在城期間はわずか3年間ですが、城下町整備や治水工事など多数の功績を讃えられ、現在も地元では大変愛されています。

その後は、羽柴秀勝が城主となり、その後も城主を変えながら存続しました。

1871年(明治4年)廃藩置県のによって廃城となり、一度は解体されますが、一般の寄付や国庫の補助、京都府の補助を合わせて再建され、現在は福知山城公園として整備され、福知山市の郷土資料館の施設となっています。
※現在の天守は1985年(昭和60年)に復元されたものですが、発見された写真からほぼ正しい姿で再建されていることが裏付けられています。

周山城

周山城址(Wikipediaより)

周山城は、1581年(天正9年)に光秀によって東丹波統治の拠点として築城されました。京都と若狭を結ぶ周山街道の中間地点に、標高480mの山頂部分を中心に築かれています。
本能寺の変の後、加藤光泰が入城し1584年(天正12年)に秀吉も入城した記録が『兼見卿記かねみきょうき』にありますが、その後の記録はなくいつ廃城されたのか性格にはわかっていません。
現在は、一部の石垣、井戸跡、天守台跡も確認できます。

明智光秀の最後を見届けた城

1582年、本能寺の変で主君だった織田信長を討ち、その後山崎の戦いにて秀吉に敗れた光秀の最後を見送ったお城を紹介します。

勝龍寺城

勝龍寺城

勝龍寺城は、南北朝時代から江戸時代初期に存在していた城です。
1571年(元亀2年)、信長より与えられ細川藤孝ほそかわふじたかが城主となり、改修したと言われています。
1578年(天正6年)には、藤孝の嫡男 細川忠興ほそかわただおきと、明智光秀の娘 お玉(細川ガラシャ)が結婚式をあげ新婚時代を過ごしたお城で、場内には二人の像が建てられています。
本能寺の変の際に、明智光秀軍が占拠して拠点として山崎の戦いの本陣を構えたお城です。
山崎の戦いで秀吉軍に敗れた光秀は勝龍寺城に帰城しましたが、攻撃を受け本来の拠点だった坂本城に戻る途中で命を落としました

本能寺の変の際、藤孝は光秀から援軍要請を受けましたが断っています。そのことが原因か藤孝は剃髪し家督を忠興に譲り、田辺城に移ったといわれています。その後、1649年(慶安2年)に廃城になりました。
1992年(平成4年)に勝竜寺城公園として整備・復元されました。

まとめ

今回は、明智光秀の生誕の城、ゆかりのある城、築城した城についてご紹介しました。資料が少なく、謎の多い光秀ですが、ゆかりのある城の位置関係から、光秀がどこで何をしていたのかなどが見えてきますね。
簡単にまとめると、

  • 光秀は築城するのが非常にうまく、その手腕はポルトガル人宣教師ルイス・フロイスも絶賛
  • 坂本城は非常に豪壮華麗で、安土城に次ぐ名城と言われていた
  • 光秀が最後に入ったのは勝龍寺城、そこは娘が挙式をあげた城だった

光秀にゆかりのある城で、現在当時のまま残っている城はありませんが、福知山城と勝龍寺城は復元された姿をみることができます。それ以外の城も、石垣などは残っていますので光秀に思いをはせ当時の面影を想像するなんてこともできますね。

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