織田信長の子供は何人いたの?本能寺の変の後、子供達はどうなった?
天下布武を掲げ、天下統一目前で本能寺の変で夢破れた織田信長。「豊臣秀吉」「徳川家康」と並び、戦国時代を代表する大名の一人ですね。特に信長は子供がたくさんいたことでも有名です。今回は、信長には息子・娘が何人いたのか?信長の跡は誰が織田家を継いだのか?についてまとめました。
目次
織田信長に子供は何人いたの?
織田信長には、20人以上の子供がいました。信長と同じく戦国時代を代表する「豊臣秀吉」の実子は4人、「徳川家康」の実子は16人ですから、ダントツで多いです。ただ正室(正式な奥さん)だった帰蝶(濃姫)との間には子供は産まれてませんから、全て側室(正妻以外の妻、主に子供を産み・育てることを目的としている)の子供です。
信長の息子たち一覧
信長には全部で11人の息子がいます。特に有名なのは、長男「信忠」、次男「信雄」、三男「信孝」ですね。では、一人ずつ見ていきましょう。
織田信忠(のぶただ)1557?〜82
母:吉乃 / 幼名:奇妙丸(きみょうまる)
信長の長男。1576年に信長から家督と美濃東部と尾張の一部を譲られ、事実上の後継者なる。1582年の甲州征伐にて武田軍を滅ぼしたが、わずか数ヶ月後本能寺の変の後、二条城にて父と同様に自害。
織田信雄(のぶかつ)1558〜1630
母:吉乃 / 幼名:茶筅(ちゃせん)
信長の次男だが、伊勢攻略の際に北畠具房に養子に出される。
*実際には三男の信孝が先に産まれているが、母の立場関係により報告を遅らせたため次男となったなど諸説あり。
信長の没後、織田家の覇権を握ろうとした秀吉に対抗するために家康を頼り、小牧・長久手の戦い(1584年)を引き起こしたが降伏した。その後は秀吉に長く仕えるが、最後は家康の方につき、なんだかんだで乱世を生き抜きました。
織田信孝(のぶたか)1558〜1583
母:坂氏 / 幼名:三七(さんしち)
信長の没後、跡取りを巡って秀吉と柴田勝家が対立。その際、信孝は柴田勝家側に味方し賤ヶ岳にて敗れる。信孝は、伊勢北部を支配していた神戸氏の養子にとなっていたため、神戸信孝(かんべのぶたか)とも名乗っていた。
羽柴秀勝(ひでかつ)1568〜86
母:養観院 / 幼名:於次(おつぎ)
信長の四男として産まれたが、秀吉が養子として迎え入れた。1586年に若くして病没した。
津田勝長(かつなが)?〜1582
母:不明 / 幼名:坊丸(ぼうまる)
信長の五男、実名は織田源三郎信房。出生は不明だが、一時は甲斐の武田家で人質になっていたとも言われています。本能寺の変の後、信忠の側におり奮戦し討死した。享年は不明だが、20代前半だったと言われている。
織田信秀(のぶひで)1573?〜97?
母:不明 / 幼名:大洞(おほぼら)
信長の六男、名は信長の父と同じ「信秀」。羽柴の氏と豊臣の性を授けられ「三吉侍従」と呼ばれていた。有名なクリスチャン大名で、1587年の九州遠征の際には象牙のロザリオを首にかけて出陣したと言われている。
織田信高(のぶたか)1576〜1603
母:於鍋 / 幼名:小洞(ごぼう)
関ヶ原の戦いでは、東軍を支持したものの本戦に間に合わなかったと言われている。ちなみに、 フィギュアスケートの織田信成はこの信高の末裔 だと言われています。
織田信吉(のぶよし)1573〜1615
母:於鍋 / 幼名:灼(しゃく)
信長の八男、母が於鍋(おなべ)のため「鍋の子だから灼でよかろう」と幼名を名付けられたといいます。関ヶ原の合戦後、改易となり大阪城下で暮らしました。
織田信貞(のぶさだ)1574〜1624
母:土方氏 / 幼名:人
信長の九男、人という幼名の由来は不明ですが、「人」って、、、まぁそうですよね。見たまんまです。大阪の陣では徳川軍に従事しその後は所領を与えられたと言われています。
織田信好(のぶよし)不明〜1609
母:不明 / 幼名:良好
本能寺の変の際まだ幼少だったため秀吉に引き取られその家臣となったと言われている。その後茶人となったと言われています。
織田長次(ながつぐ)不明〜1600
母:不明 / 幼名:縁(えん)
本能寺の変の後、秀吉の馬廻となり、関ヶ原の戦いで兄信好とともに大谷吉継の隊に所属して戦い、戦死したといわれています。
信長の娘たち一覧
信長には娘も11人います。一人ずつ見ていきましょう。
徳姫(とくひめ)1559〜1636
母:吉乃 / 幼名:不明
信長の長女、徳川家康の長男「松平信康」の妻。夫が切腹させられた原因は、徳姫との仲がこじれたことが原因とも言われています。
相応院(そうおういん)1561〜1641
母:養観院 / 幼名:不明
信長の次女、蒲生氏郷の正室。夫を亡くした後色々あったが晩年は京都の嵯峨で過ごし81歳で死去した。
永姫(えいひめ)1574〜1623
母:慈徳院 / 幼名:不明
前田利家の嫡男、「前田利長」の正室。
報恩院(ほうおんいん)1574〜1653
母:不明 / 幼名:不明
信長の命により、丹羽長秀の嫡男「丹羽長重」と縁組が決められた。長秀の正室は、信長の庶兄の娘だったので、織田家と丹羽家は二重の婚姻関係で結ばれていたことになりますね。
秀子(ひでこ)出生不明
母:不明 / 幼名:不明
筒井定次の正室。一説によると、鶴姫と同一人物ではないかと言われています。
於振(おふり)?〜1643
母:於鍋 / 幼名:不明
水野忠胤の正室。忠胤は、家臣の起こした刀傷事件の責任を問われ切腹させられた。そのため、於振は従兄にあたる佐治一成と再婚したと言われています。
源光院(げんこういん)?〜1600
母:不明 / 幼名:不明
万里小路充房の継室。一説によると、豊臣秀吉の意向を受けて婚姻が成立したと言われています。
三の丸殿(さんのまるどの)?〜1603
母:慈徳院 / 幼名:不明
豊臣秀吉の側室と言われていますが、その経緯は不明。秀吉の死後は公家の二条昭実と再婚したと言われています。
鶴姫(つるひめ)出生不明
母:不明 / 幼名:不明
織田、豊臣の両家に使えた「中川秀政」の正室。
月明院(げつみょういん)?〜1608
母:不明 / 幼名:不明
公家の徳大実久の正室。夫の徳大寺実久は本能寺の変の翌年(1583年)に生まれているため、月明院もその前後に生まれてのでは?と言われています。
慈眼院(じげんいん)?〜1641
母:不明 / 幼名:不明
織田・北条両家の縁組で、北条氏直の婚約者になったとされる。本能寺で信長が横死したため縁組は消滅したと見られている。
やはり戦国時代、男性が中心となり日本を動かしていたこの時代は、女性に関する資料が非常に乏しいですね。
織田信長の子供たちに関しては、こちらの記事でも詳しく解説しています。
織田信長の家系図。先祖から子孫まで簡単まとめ!家系図から読む信長の人生>>
本能寺の変の後の織田家
本能寺の変で夢破れた信長の跡は、秀吉が天下統一を成し遂げたと歴史の教科書では習いましたが、実はそこにはちょっとしたドラマがありました。このドラマを描いたのが映画「清洲会議」です。映画の話はさておき、信長の没後「織田家」はどうなっていったのかを簡単に見ていきましょう。
信長の跡取りは誰?
思いもよらぬ明智光秀の謀反で信長が亡くなった後、織田家の跡取りに関して一悶着ありました。それは、次男の「信雄」が跡を継ぐのか!それとも三男の「信孝」が継ぐのか?
結論から言うと、どちらも跡を継ぎません。
というのも、
すでに信長は1575年に長男「信忠」に家督を譲っており、 信長の跡取りは信忠だった のです。その信忠も本能寺の変で自害してます。
っと言うことは、
その信忠の跡取りは次男?三男?というちょっとした跡目争いになっていくんですね。
しかし、すでに信長から信忠に跡目は譲られてますから正確に言うと、織田家の跡取り、すなわち信忠の跡取りは誰か?を決めないといけなかったんですね。
ここに気づいた豊臣秀吉が、 「信忠の息子三法師様しか跡取りはいない」 と、幼い三法師を担ぎ出しわずか3歳で家督を継いだんです。この決定をするための会議が清洲会議です。
わずか3歳で家を継ぐ、まして天下統一を目前の家を継ぐなんて今では考えられないですね。そしてこの清洲会議から、秀吉の天下統一への道へと続いていくんですね。
織田信長の子供たちに関しては、こちらの記事でも詳しく解説しています。
織田信長の家系図。先祖から子孫まで簡単まとめ!家系図から読む信長の人生>>
まとめ
今回は、織田信長の子供達について、本能寺の変の後の子供達についてまとめてみました。総勢20を超える信長の子供達、今よりも長生きすることが困難だったからこそ、たくさんの子をつくり子孫を繋いでいくという使命を全うしたまさに「英雄色を好む」という言葉がぴったりですね。