大久保利通の年表を簡単に解説?何した人?どんな人?性格は?
大久保利通:1830(文政13)~1878(明治11)は、「維新の三傑」と呼ばれる明治維新の元勲です。現代の日本の基礎となる明治政府を作り上げたと言っても過言ではない大久保利通は、一体どのような人生を歩んだのでしょうか?
今回あhは、大久保利通の年表を見ながら、大久保利通の功績や人柄、どんな性格だったのかをエピソードを交えながら簡単に解説していきます。
目次
大久保利通の年表を簡単に解説
大久保利通
1830(文政13)~1878(明治11):享年47歳
父:大久保利世 母:福
妻:大久保満寿子 妾:おゆう
(大久保利通と満寿子との間の子供)
大久保利和、牧野伸顕、大久保利武、石原雄熊、芳子
(大久保利通とおゆうとの間の子供)
大久保利夫、大久保駿熊、大久保七熊、大久保利賢
【大久保利通の年表】
- 1830年(文政13年):0歳
薩摩国にて、大久保利世と福の長男として生まれる - 1846年(弘化3年):16歳
薩摩藩の記録所書役助となる - 1850年(嘉永3年):20歳
お由羅騒動により、父とともに連座して罷免され、謹慎処分となる - 1853年(嘉永6年):23歳
島津斉彬に仕えることになり、謹慎が解かれる - 1861年(文久元年):31歳
島津斉彬の死後実権を握った島津久光の信頼を得て、御小納戸役という藩の重役に抜擢される - 1862年(文久2年):32歳
御側役に抜擢され、島津久光の側近となる - 1867年(慶応3年):37歳
大政奉還により倒幕が実現し、その後の王政復古を宣言する小御所会議にて、徳川勢力の排除に成功する - 1869年(明治2年):39歳
参議に就任し、明治政府の中央集権体制を確立する - 1871年(明治4年):41歳
大蔵卿に就任し、その後岩倉使節団の副使として外遊する - 1873年(明治6年):43歳
征韓論争で西郷隆盛らと対立する。内務卿に就任し、事実上日本のトップとなる - 1877年(明治10年):47歳
西南戦争にて、京都で政府軍を指揮する - 1878年(明治11年):47歳
紀尾井坂にて暗殺される(紀尾井坂の変)
大久保利通は薩摩藩の下級武士の出身
初代内務卿を務めるなど明治政府の中心となっていた大久保利通。薩摩藩の下級武士の家の出身です。そして、西郷隆盛とは通りを隔てて隣の家で幼馴染として育ちました。
2人の家は大変貧しく、大久保利通の家は西郷隆盛の家よりもさらに貧しかったそうです。
そのため大久保利通は、お腹が空きすぎて困ったときには西郷隆盛の家に行き、黙って西郷隆盛のの兄弟の端っこに座りました。すると、それを見た西郷隆盛は何も言わずに兄弟の茶碗から少しずつご飯を分けて、それを大久保に差し出していたのです。このように、大久保利通と西郷隆盛は幼い頃から苦楽を共にし、結びつきを強くしていったのでしょう。
大久保利通の功績を簡単に解説
大久保は、西郷隆盛・木戸孝允と共に「維新の三傑」と称されています。
大久保利通は、どんなことをした人なのか?功績を簡単に解説していきます。
【大久保利通の功績】
- 公武合体、倒幕、王政復古の大号令に関わっていた
- 明治政府の礎を築いた
- 岩倉使節団に参加した
大久保利通は公武合体、倒幕、王政復古の大号令にも関わっていた
大久保利通は島津久光の側近となり、公武合体(天皇の権威を借りて幕政を立て直そうとすること)を推し進めていきます。しかし、薩摩藩は次第に幕府と対立していき、その結果、倒幕へと態度を改めます。
そんな中、薩摩藩は1866年(慶応2年)に長州藩と薩長同盟を結びました。
そのため、第二次長州征討の際、薩摩藩は幕府から出兵の命を受けますが、大久保利通はこれに対してNOを突きつけます。
この後も対立は続き、大久保は正親町三条実愛から倒幕の密勅を引き出して、西郷隆盛らと共に詔書の請書に署名し、倒幕実行の直前まで持ち込むことに成功しました。
その後、徳川慶喜が大政奉還したことにより倒幕が完了し、最終的に大久保たちは王政復古の大号令をして、朝廷内にいた幕府に近い勢力を排除するクーデターを成功させました。
大久保利通は明治政府の礎を築いた
1869年(明治2年)に参議に就任すると、様々な改革を行い明治政府の中央集権体制を確立しました。
【大久保利通がおこなったこと】
- 版籍奉還、廃藩置県による中央集権化
- 「富国強兵」をスローガンとした殖産興業政策の推進
- 学制
- 地租改正
具体的には、版籍奉還や廃藩置県を行い、幕藩体制からの脱却を行ったり、内政面では殖産興業や学制、地租改正などの政策を推進したことが挙げられます。
中央集権することに批判の声も少なくありませんでしたが、大久保はいたって清廉潔白で、予算が少ない事業には私財を投じてまで行っていたのです。
大久保利通は岩倉使節団にも参加した
大久保利通は、岩倉使節団に副使として参加します。
岩倉使節団とは、岩倉具視を全権とした、日本からアメリカ合衆国やヨーロッパ諸国に派遣された使節団のことです。そこで、欧米諸国を歴訪し西洋の文化に触れることで、それらを日本の近代化に役立てました。
【岩倉使節団の目的】
- 条約を結んでいる各国を訪問し、元首に国書を提出すること
- 江戸時代後期に諸外国と結ばれた不平等条約の改正のための予備交渉をすること
- 西洋文明の調査をすること
大久保利通は、特にプロイセン(現ドイツ)をモデルとした国家を創ろうとしたと言われており、今日の日本の官僚制度も大久保の影響を強く受けたシステムとなっています。
大久保利通の性格を感じるエピソード
色々と優秀な功績を残してきた大久保利通ですが、実はかなりの苦労人なのです。そのような大久保の性格を感じるエピソードをご紹介していきます。
大久保利通は西郷隆盛と仲悪かった?
大久保利通と西郷隆盛は、同じ薩摩藩の出身で家も隣同士の幼馴染です。幼少期から苦楽を共にし、絆を築いてきました。倒幕や明治政府の立ち上げなども協力してきたのです。それなのに、ある時期から対立するようになってしまいます。それは、「征韓論」を巡ってのことでした。
征韓論とは、鎖国を続ける隣国・朝鮮に対して、軍隊を送り開国を迫ろうというものです。
西郷隆盛は、征韓論の推進派でしたが、大久保大久保利通はこれに真っ向から対立します。
大久保利通は、「今は国外のことより国内のことを優先すべきだ」と考えていたからです。
そして、大久保は征韓論を潰してしまいます。それに対して怒った西郷隆盛たち征韓論者は下野してしまいます。
こうして大久保利通と西郷隆盛の仲は悪くなっていきました。
しかし、大久保利通は西郷西郷隆盛が怒って政府から抜けても、西郷隆盛が就いていた役職を残していたり、西郷隆盛が西南戦争で死去した際には涙を流したりと、いくら対立しても2人の築いた絆が切れるということはなかったのかもしれません。
大久保利通はプライドが高かった?
大久保利通は、プライドが高かったというエピソードもあります。
1862年(文久2年)に起こった生麦事件によって、薩摩藩はイギリスと戦うことになってしまいます。薩英戦争で指揮にあたっていたのが大久保利通でした。
その際に大久保利通は、イギリス軍艦の様子を見ようと倉の屋根の上に上りますが、運悪く雨で滑ってしまい腰を痛めてしまいます。それを見ていた人たちは、「大久保はイギリス船を見て腰を抜かした!」と噂をしました。
後年になっても、大久保利通はそれは誤解だと語り続けたそうです。どうでも良いことのような気がしますが、大久保利通のプライドがそれを許さなかったのでしょう。
大久保利通は借金して公共事業の費用を捻出していた
様々な改革を施し活躍していた大久保利通ですが、実は多額の借金をしていました。
その額、8000円(現在の価値に直すと、1億か2億くらいにもなる)だというから、相当な額です。そんな借金をしてまで何にお金を使っていたのかというと、公共事業の不足した財源にあてたり、鹿児島県庁に学校費として寄付したりと、国のため出身地のために使っていたのです。
決して自分の遊興のために使うことはありませんでした。大久保にお金を貸していた人たちは、その使いみちを知っていたので、大久保利通の死後に家族のところに借金を取り立てに来る人はいなかったようです。
このように、大久保利通は借金をしてまで私財を投じて、国をよくしようと頑張っていたのです。
大久保利通の最後は暗殺での非業の死
大久保利通は志半ばで、暗殺によって倒れることになりました。1878年(明治11年)に起きた紀尾井坂の変と呼ばれるものです。犯人は、島田一郎をはじめとする6人の不平士族です。この人物たちが大久保をなぜ暗殺したのかというのは、「斬奸状」というものに5つ書かれていました。
【大久保利通に対する斬奸状】
- 国会も憲法も開設せず、民権を抑圧している
- 法令の朝令暮改が激しく、また官吏の登用に情実・コネが使われている
- 不要な土木事業・建築により、国費を無駄遣いしている
- 国を思う志士を排斥して、内乱を引き起こした
- 外国との条約改正を遂行せず、国威を貶めている
上記の5つの罪によって大久保利通は暗殺されたわけです。その遺体は、全身に16箇所も傷があるなどひどく無残な状態でした。大久保利通は私財を投げ売ってまで国に尽くしていたというのに、国費を無駄遣いしているという理由で殺されてしまったのではどれだけ無念だったか計り知れません。
大久保利通は暗殺された時、西郷隆盛からもらった手紙を持っていたと言われています。
大久保利通は、最後の最後まで西郷隆盛のことを慕っていたことが伺えますね。
まとめ:大久保利通は維新の三傑と称されるほどの功績を残したが、最後は暗殺された
大久保利通の築いた明治政府での基盤は、日本の近代化に大きく貢献しました。やはり、岩倉使節団にて自分の目で外国の様子を見てきたことが大きかったのでしょう。
今回の内容をまとめると、
- 大久保利通は薩摩藩の出身で、西郷隆盛とは幼馴染として絆を深めていった
- 大久保利通は、島津久光のもとで、公武合体運動や、倒幕などを進めていった
- 大久保利通は、明治政府に入ってから中央集権体制確立のために奔走した
- 大久保利通は、時には借金をしてでも公共事業をすすめた
- 大久保利通の最後は、紀尾井坂で不平士族により暗殺された
やはり、大きな改革をしようとすると不満を持つ人は必ず現れます。そのような人たちに志半ばで暗殺されてしまった大久保利通の無念さは計り知れません。
また、私財を投げ売ってまで国に尽くしていたのに、国費を無駄遣いしていると思われていたのでは、やりきれない思いを抱えざるを得ません。