六波羅探題とは?なんのために作られた?その目的や役割などを簡単に解説!
六波羅探題は、鎌倉幕府の職名の1つです。
1221年(承久3年)の承久の乱のあとに、幕府が京都六波羅の北と南に設置しました。
歴史の教科書などにも載っているので、名前は聞いたことがあるという人も多いでしょう。
しかし、どのようなものであったのかまではわからない人もいるのではないでしょうか?
この記事では、六波羅探題の目的や役割などを簡単に解説していきます。
目次
六波羅探題はなんのために設置された?
六波羅探題は承久の乱の後に設置されました。このタイミングで設置されたのにはきちんと意味があるのです。ここでは、六波羅探題の目的や役割などを簡単に解説していきます。
六波羅探題とは?
そもそも「六波羅」「探題」とは何なのでしょうか?
「六波羅」とは、地名を表しています。現在の京都市東山区の一角にある地名で、六原と記されることもあります。平安時代中期に空也がこの地に寺を開き、仏教の教義「六波羅蜜」から「六波羅蜜寺」と名を付けたところから、六波羅という地名で呼ばれるようになったと言われています。
「探題」とは、役職の名称を表しています。
こちらも元々は仏教に由来する言葉から来ており、裁判の判決を下すような重要な役割を担う重職とされていました。
鎌倉幕府では、執権や連署に次ぐポストで、非常に強い権限を持っていました。
つまり、六波羅探題とは簡単に言えば、六波羅という場所に設置された重要な機関ということになります。
六波羅探題が設置された背景
六波羅探題は、京都六波羅に設置された重要な機関だとお伝えしました。
しかし、なぜ鎌倉が本拠地である鎌倉幕府の機関がそんな遠隔地に設置されたのでしょうか?
それには、六波羅探題が設置される少し前に起こった承久の乱(1221)が関係しています。
承久の乱は、後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対し討伐の兵を挙げたものです。
結果的に後鳥羽上皇は敗れ、隠岐島に配流となりましたが、幕府は二度とこのようなことが起きないように近くで監視する必要性があり、後鳥羽上皇を監視するために設置されたのが六波羅探題というわけです。
六波羅探題の目的や役割は?
六波羅探題の目的は先程もお伝えしたように、鎌倉から遠く離れた場所にある朝廷が、二度と承久の乱のようなものを起こさないように監視することです。
また、承久の乱が勃発する以前は、京都には京都守護という役職が置かれていました。
京都守護は、京都の御家人たちを統率し、洛中の警護や裁判を行い、幕府と朝廷の連絡役を担っていました。
しかし、承久の乱の際に、朝廷側に味方したためその代わりとなるものを置く必要がありました。
さらに、承久の乱の後、上皇たちの持っていた領地も幕府は没収しています。
そこの土地は御家人たちに再分配されることになりましたが、これらの土地は幕府の管理下になかった土地であり、権限が及びにくい西側にあるものがほとんどでした。
そのため、これらの土地の管理できる体制を作ることも必要となっていました。
そして、これらの役割を担うことになったのが、六波羅探題です。
朝廷の動きを監視し、京都周辺の治安維持を行う、これが六波羅探題の役目でした。
六波羅探題を設置したのは誰?
六波羅探題を設置したのは、言うまでもなく鎌倉幕府です。
この時、幕府の実権を握っていたのは、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の主人公である二代目執権である北条義時でした。
そして、初代の六波羅探題に任命されたのは、承久の乱で総大将として活躍した北条泰時と北条時房です。
2人いるのは、六波羅探題が基本的に北と南の2つに分かれているからです。
北方に派遣された泰時は、義時の長男で、南方に派遣された時房は義時の異母弟でした。
自分の弟と長男を派遣したということから、いかにこの六波羅探題が重要な役職であったということが伺えます。
六波羅探題はいつまであった?
朝廷の監視などを担っていた六波羅探題ですが、いつまであったのでしょうか?
それは、1333年(元弘3年)に起こった元弘の乱までと言われています。
元弘の乱とは、後鳥羽上皇を中心とした鎌倉幕府倒幕運動のことです。
この際、足利高氏(尊氏)や佐々木道誉、赤松円心、石井末忠は、後鳥羽上皇の令旨に応じて京都に攻め入りました。
そして、当時六波羅探題であった、北条仲時と北条時益は京都から追放されてしまい、これによって六波羅探題も消滅してしまいました。
六波羅探題の影響は?
六波羅探題は朝廷や西国の監視のために設置されました。
その結果、どのような影響があったのでしょうか?
ここでは、六波羅探題が与えた影響について簡単に解説していきます。
鎌倉幕府の支配が全国規模に?
六波羅探題が設置されると、そこを拠点にして鎌倉幕府は、これまで朝廷が支配していた西国で御家人を増やし、勢力を拡大していきました。
具体的には、新補地頭を配置することにしました。
新補地頭とは、承久の乱後、幕府が上皇たちから没収した土地を与え、新たに任命した地頭のことです。
新補地頭には、
「その与えられた土地からならば、自分の分の税を多く徴収しても良い」
という特権を与えていました。
そのため、畿内や西国で新補地頭の数はかなり増えたのです。
これはそのまま鎌倉幕府の御家人が畿内や西国にも増加したことを表しています。
つまり、今までの支配下である東国と合わせて、六波羅探題の設置によって、鎌倉幕府の支配が全国規模になったのです。
それまでの「西の朝廷、東の幕府」という公武二元支配体制はこうして崩れることになりました。
後醍醐天皇の倒幕計画を阻止した?
六波羅探題の重要な役割として、朝廷の監視があります。
その成果が表れたのが、1324年(元亨4年)に起きた正中の変です。
この事件は、後醍醐天皇が密かに倒幕計画を企んでいたことが発覚し、これに対し六波羅探題が処分を行ったというものです。
この時処分されたのは、後醍醐天皇の側近である日野資朝らでした。
つまり、後醍醐天皇は処分されていないのです。
これをいいことに、後醍醐天皇はその後再び倒幕計画を立てます。
しかし、これも側近の密告により幕府にバレてしまいます。
さすがに二度目ともなると幕府も見逃すことは出来ません。
六波羅探題は、京都を脱出して逃げようとしていた後醍醐天皇を捉えて、隠岐島への島流しの刑へと処しました。
島流しは現代で例えると終身刑に等しく、六波羅探題は後醍醐天皇の倒幕計画を完全に阻止したということになります。
六波羅探題と似たようなものが別時代にあった?
六波羅探題は、実は似たようなものが別の時代にもあったのです。
後世には、なんとあの織田信長が六波羅探題を参考にして作られたものもあります。
ここでは、別時代の六波羅探題と似たようなものについて簡単に解説していきます。
六波羅探題の前身である京都守護
実は、承久の乱以前から京都の監視をしていた機関はありました。それが「京都守護」です。
この京都守護が設置されたのには、理由があります。
それは、壇ノ浦の戦いが終わり、源頼朝が戦後処理に追われているときのことです。
当時の頼朝が最も頭を悩ませていたのは、弟の源義経が命令を無視して、後白河法皇に懐柔されてしまっていたことでした。
そして、源頼朝に不満を持っていた源義経と源行家は、後白河法皇に頼朝追討の宣旨を出せと迫ります。
後白河法皇は断ることが出来ずに頼朝追討の宣旨を出しますが、平家を倒した頼朝に不満を持っているものは少なく、誰も従いませんでした。
結果として、これは頼朝を怒らせただけとなります。
後白河法皇は源頼朝に「なんとか見逃してくれ」と弁明をします。
源頼朝はこれを許しますが、監視が必要であると判断し、北条時政に京に行くように命じます。
ここで京に着いた北条時政は、そのまま京に残り、戦後で無法地帯と化している京の治安維持に努めることにします。
これが京都守護の始まりであり、初代京都守護は北条時政であるということですね。
ちなみに、京都守護の主な役割は、朝廷の監視、朝廷との交渉、京内の御家人の統率などです。
六波羅探題の前身なので、役割はほとんど同じと言ってもいいでしょう。
六波羅探題を見習って作られた京都所司代
後世にも六波羅探題と似たような機関が存在しています。
それは、1568年(永禄11年)に設置された京都所司代です。
これは、織田信長が京都の監視と治安維持のために設置しました。
京都所司代はそのまま江戸時代まで続き、その頃には禁中並公家諸法度に違反していないかをチェックする役目や、西国の外様大名たちが幕府に対して敵対しないかを監視する役目なども与えられていました。
この機関もだいぶ重要視されていたようで、老中に次ぐ重要な役職とされ、強い権限が与えられていました。
六波羅探題を参考に作られているだけあり、役目はほぼ同じです。
大きな違いとしては、
- 六波羅探題:京都よりも西を本拠地としている全ての御家人を統率したり、裁判を担当
- 京都所司代:動かせる兵員や裁判を管轄する範囲が、幕府の領地(天領)のみ
といったように、権限の及ぶ範囲が大きく違っています。
まとめ:六波羅探題の設置によって鎌倉幕府は勢力拡大した
六波羅探題は、承久の乱のようなことが二度と起きないように、朝廷の監視をする目的で設置されました。また、承久の乱で手に入れた上皇たちの土地の管理なども六波羅探題の役割に含まれており、これを機に鎌倉幕府の権限の及ぶ範囲が広がりました。
今回の内容をまとめると、
- 幕府は二度と承久の乱のようなものが起こらないように監視するために六波羅探題を設置することにした
- 六波羅探題のおかげで、遠隔地である京都周辺にも鎌倉幕府の権限が及ぶようになった
- 後の時代では、織田信長が六波羅探題を参考にしたりすることもあった
六波羅探題を設置した影響で、朝廷と幕府のパワーバランスが決定的となり、武家がどんどんと力を持っていくようになります。そういう意味では、六波羅探題は時代の転換点として非常に重要な役割を担っていたと言っても過言ではないでしょう。