新田義貞の子孫の現在は?徳川家康も?家系図から見る意外な末裔たち!

新田義貞の子孫の現在は?徳川家康も?家系図から見る意外な末裔たち!

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新田 義貞は、1301年(正安3年)〜1338年(延元3年/建武5年閏)8月17日、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての御家人・武将です。

難攻不落の鎌倉幕府を滅ぼした人物でもあり、南北朝の動乱では南朝の「後醍醐天皇」側に付き、ライバルと言われていた足利尊氏と対立しました。

新田義貞の直系は、ひ孫の代で断絶していると言われていますが、明治維新後に新田義貞の子孫という人物が現れたり、あの徳川家康も、新田義貞の子孫であると主張していたという説もあり、新田義貞の詳しい血筋については謎が多いようです。

今回は、

  • 新田義貞の子孫は現在も続いているのか?
  • 新田義貞の家系図で子孫や親戚の流れ
  • 徳川家康も新田義貞の子孫?
  • 足利尊氏とはどんな関係だったのか?

について、簡単に解説していきます。

新田義貞の子孫は現在も続いている?

新田義貞の直系は、ひ孫の代で断絶していると言われています。

新田義貞の三男・新田義宗には長男・貞方以外にも複数の男子がいたとされており、その貞方には庶子がいたともいわれています。

完全に新田義貞の血が途絶えたわけではないようです。

また、義貞の家系図を辿っていくと、歴史上の意外な人物が義貞の子孫という話もああります。

新田義貞の家系図を簡単に解説!

家系図を見ると、新田義重は、源頼朝や足利尊氏と親戚関係であることが確認できます。

つまり、新田義貞も源氏の流れを汲んでいるのです。

新田義貞の家系図

新田義貞の家族構成

  • 新田義貞:1301年(正安3年)~1338年8月17日(延元3年/建武5年閏)享年37歳。
  • 父:新田朝氏
  • 母:不詳
  • 妻:小田真知の娘
  • 長男:新田義顕(小田真知の娘。母複数説あり)
  • 次男:新田義興(側室の子)
  • 三男:新田義宗(生母は小田真知の娘)

新田義貞の長男の義顕は若くして戦死。

側室の子だった次男の義興も同様に戦死し、三男の義宗が跡を継ぎました。

新田義宗には6人の男子がいたとされています。

【新田義宗の子(新田義貞の孫)】

  • 長男:新田貞方  (新田義宗の長子)
  • 次男:岩松満純 (後に岩松満国の養子となった)
  • 三男:横瀬貞氏 (後に横瀬氏の養子となった)
  • 四男:新田宗親
  • 五男:得川親季(新田義宗あるいは世良田政義の庶子)
  • 六男:脇屋義則(新田義貞の弟、脇屋義助の孫説)

新田義貞の死後、家族たちは北朝から見て朝廷の敵とみなされ、討伐の対象となりました。

応永年間になると、義貞の孫にあたる新田貞方とその嫡男・貞邦までも鎌倉で殺害されました。
これによって新田義貞の直系の子孫は断絶したと言われています。

新田義貞の先祖は清和源氏

新田義貞のルーツは、清和源氏です。

清和天皇から出て源姓を名のった氏族です。
第56代清和天皇の皇子・諸王を祖とする源氏氏族で、賜姓皇族の一つです。

河内源氏の棟梁・源義家の三男の源義国が、河内源氏の所領になっていた足利荘を本拠としたことが始まり、源義国の長男である源義重(新田義重)が旧新田郡南西部地域の「空閑」と呼ばれた荒廃地を開発し、新田氏を興したと言われています。

また、源義国の次男である足利義康は足利荘に分家しました。

新田義貞と源頼朝の関係は?

鎌倉幕府を滅亡させた新田義貞は、鎌倉幕府を開いた源頼朝は、共に源義家の子孫です。

新田義貞は、新田氏を興した新田義重(源義重)の子孫で、新田義重から数えて8代目になります。

また、源頼朝は、源義重の祖父の義家から数えて4代目になります。

同じ源義家をルーツとしていますが、新田家は鎌倉幕府からかなり冷遇されていました。

理由として、源平の争乱のときに先祖の新田義重が遅刻したとか、義重の娘が源頼朝の側室になるのを断ったからと言われています。

そのため、新田家は家柄のわりには領地も少なく、義貞自身も無位無官でした。

1331年(元弘元年)、後醍醐天皇と楠木正成は鎌倉幕府を倒そうと「元弘の変」を起こしますが失敗してしまい、後醍醐天皇は隠岐に島流しに。

当初、新田義貞は鎌倉幕府側に付いて千早城の戦いに参加しますが、その後、新田義貞は幕府に対して反逆の態度を示します。

貧乏なのに重い徴税を課されたことに我慢できず、徴税にやってきた幕府の使者2人を切り殺すという事件を起こします。
このことで所領は没収され、新田義貞はますます怒りを募らせ、ついに反幕府の態度を示すようになりました。
幕府も義貞討伐に動き出しますが、新田軍は1333年(元弘3年)5月15日・5月16日の分倍河原の戦いを皮切りに北条軍を撃破していきます。
そうして、義貞は、難攻不落と言われた鎌倉幕府を滅亡させることに成功します。

鎌倉幕府滅亡のサイドストーリーとして、新田義貞と源頼朝の家系の争いがあったとは驚きですね。

新田義貞は徳川家康の先祖?

新田義貞の跡を継いだ三男の新田義宗には、6人の男子がいたとされています。

その中でも、五男・得川親季の孫の松平親氏は、 松平氏・徳川氏の始祖 とされている人物です。

松平は、徳川家康の本姓で、徳川将軍家によれば親氏は源氏の嫡流であることから、 徳川家康は新田義貞の子孫であると主張していた ようです。

徳川家康の先祖は、少なくとも祖父の代から新田の子孫を名乗っており、家康も松平から徳川に改姓する際に朝廷に申請したようですが、明確な証拠はなく、信憑性に欠けるようです。

新田義貞の子孫が明治時代に爵位をもらった?

明治維新後、新田義貞の子孫を名乗る、新田俊純という人物が明治政府から男爵位を与えられています。

もとは岩松という姓だったのですが、新田義貞の子・義宗の次男が岩松家の養子に入ったことから岩松姓を名乗るようになり、明治維新後に新田姓に戻したそうです。

明治維新後は新政府に対して自らが新田義貞の嫡流であることを強く主張。

明治元年、新政府に届けて正式に「新田姓」を称しました。

男爵となったのは長女・武子が維新の功労者・井上馨の室となったからだという世評もあります。

新田義貞と足利尊氏は血縁関係がある

新田義貞は河内源氏義国流新田氏本宗家の8代目棟梁として新田家を受け継ぎました。

室町幕府初代征夷大将軍・足利尊氏とは先祖が同じ親戚関係と言われています。

新田氏を興したと言われているのが源義重(新田義重)。
一方、足利氏を興したと言われているのがるのが、源義重(新田義重)の兄弟の足利義康と言われており、足利尊氏は子孫に当たります。

足利尊氏は、河内源氏義国流足利氏本宗家の8代目棟梁として足利家を受け継ぎました。

新田義貞は、親戚がひらいた鎌倉幕府を、親戚の足利尊氏と共に滅ぼしたというわけなんです。

まとめ:新田義貞の家系図には、意外な人物が登場していた

新田義貞の直接の子孫は、ひ孫の代で途絶えていますが、新田義貞の血筋は残っている可能性がありました。
今回の内容をまとめると、

  • 新田義貞と源頼朝は、新田氏を興した新田義重(源 義重)の祖父・源義家の子孫
  • 新田義貞と足利尊氏は親戚関係にあたる
  • 徳川家康が新田義貞の子孫と主張していたという説もあるが、明確な根拠はない
  • 新田義貞の直系は断絶したが、他に子孫が残っているかは分からない

よく世の中は狭いと言いますが、同じ清和源氏をルーツに持つ人物が争い、幕府をひらいたり滅ぼしたりしていたなんて、本当に狭い世界で戦っていたような気がしますね。

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