坂本龍馬の死因は?暗殺事件の黒幕は誰?最後の様子や、最後に残した言葉は?
幕末の志士の中でもとりわけ人気が高い人物の一人と坂本龍馬。
大河ドラマ「龍馬伝」では福山雅治さんが坂本龍馬を演じたり、司馬遼太郎さんの「竜馬がいく」なども人気が高い、日本の歴史上の人物の人気ランキングでも必ず上位にランクインするほどです。
坂本龍馬は、土佐藩出身の志士であり、薩長同盟の仲介や、大政奉還を盛り込んだ船中八策の提案など、多くの功績残しましたが、「近江屋事件」で暗殺され33歳の若さでその生涯を閉じます。
坂本龍馬暗殺の実行犯は、京都見廻組説が有力ですが、黒幕は幕府説、薩摩藩説、土佐藩説、紀州藩説などがあり、未だに謎に包まれています。
坂本龍馬は暗殺によって亡くなりますが、詳しい死因は何だったのでしょうか?今回は、坂本龍馬の死因は何だったのか?最後の様子や、お墓の場所なども解説してきます。
目次
坂本龍馬の死因は、暗殺の刺客から受けた刀傷
坂本龍馬は1867年(慶応3年)に33歳の若さで生涯を閉じます。
坂本龍馬の死因は、近江屋事件で暗殺の刺客から受けた刀傷によって亡くなりました。ほぼ即死に使いほどの致命傷があり、それ以外にも全身34ヶ所に及ぶ傷を受けていたようです。
坂本龍馬は脳に致命傷を受けた
暗殺された坂本龍馬には、刺客によるいくつもの刀傷があったと言われています。
【坂本龍馬が受けた傷】
- まず「前頭部を刀で横に払った」傷を受けた
- 次に刀を取ろうとした隙に「右肩先から背中にかけて袈裟懸けに切られた」傷を負った
- さらに「攻撃を受け止めきれずに前頭部に受けた」傷で倒れた
- その他にも「全身34カ所にも及ぶ」傷を受けていた
坂本龍馬の致命傷となったのは、最初に受けた「前頭部を刀で横払った傷」であるとの見方が有力です。傷は深く、脳漿が流れ出る程だったと言われています。
すると、坂本龍馬の死因は「刺客による頭部外傷」と考えられます。
しかし、致命傷になるほどの頭部外傷を負ったならば、多くの場合が即死してしまいます。
坂本龍馬は、前頭部に刀で深い傷を受けたにも関わらず、その後も刀を取ろうとしたり、攻撃を受け止めたりと意識がある中で動けているため、死因としては当てはまらないように感じます。
また、刺客の攻撃で倒れた坂本龍馬でしたが、刺客が去った後一度は意識を取り戻し、その後すぐに亡くなったとの記録が存在しています。
つまり、坂本龍馬は前頭部に受けた外傷による即死ではないようです。。
坂本龍馬の死因は、「脳挫傷」ではないかといわれています。
※脳挫傷とは、頭部に強い外力が加わり脳に傷(挫傷)が出来る症状のことです。脳挫傷により脳全体の機能の低下が出現し、数時間から数日の経過で急激に悪化して死に至ることもあります。現代でも頭を打った後元気だった人が急に亡くなることがあるのは脳挫傷がおきているためです。
つまり、坂本龍馬の死因は、「刺客の一刀目で前頭部に大怪我を負い(頭蓋骨骨折の可能性もあり)、その後に攻撃を受け止めきれずに受けた前頭部への衝撃がダメ押しとなって生じた脳の損傷」と考えられています。
坂本龍馬暗殺事件「近江屋事件」を簡単に解説
坂本龍馬が暗殺された事件は、暗殺された場所にちなんで「近江屋事件」と呼ばれています。
近江屋は、土佐藩邸のすぐ向かいにある醤油商で、坂本龍馬の定宿としていた場所です。
近江屋事件では、坂本龍馬のほかにも二名の命が失われています。
土佐藩士で陸援隊隊長の中岡慎太郎(29歳)と、坂本龍馬の従僕の山田藤吉19歳です。
刺客に背後から切り付けられたとされる山田藤吉は、坂本龍馬が亡くなった翌日に死亡します。
中岡慎太郎も襲撃の詳細を伝えることはできましたが、坂本龍馬暗殺の2日後には亡くなりました。
命を落とす程の重傷を負っていながらも、駆け付けた仲間に襲われた時の様子を語った中岡慎太郎を想像すると、彼の胆力の強さと無念な気持ちを感じますよね。
そんな、坂本龍馬暗殺事件「近江屋事件」を簡単に説明していきます。
【近江屋事件で亡くなった人】
・坂本龍馬
・中岡慎太郎
・山田藤吉
【近江屋事件の経緯】
近江屋に中岡慎太郎が来訪。
↓
近江屋に十津川郷士と名乗る志士が来訪。
↓
とりつぎをした山田藤吉が背後から斬られる
↓
中岡慎太郎と坂本龍馬が襲撃される
1867年12月10日(慶応3年11月15日)、坂本龍馬が定宿としていた近江屋に中岡慎太郎が訪ねます。2階の8畳間で行われた話し合いは夜まで続いたようです。
そんな折、近江屋に数名の来客がありました。来客は「十津川郷士だ。」と山田藤吉に名乗ったといわれています。
※十津川郷士とは…
南大和(現代の奈良県)に在住していた郷士集団です。古くからの勤皇派で、土佐藩と共に京都御所の警護を任せられる程でした。土佐藩の仲間というわけですね。その中でも十津川郷士の中井庄五郎は、坂本龍馬と親交があったといわれており、坂本龍馬からの手紙やプレゼントされた刀が存在しています。
刺客は十津川郷士の名を語ることで、山田藤吉や坂本龍馬を油断させたのです。
坂本龍馬に取り次いだ山田藤吉は、そのまま二階に上がってきた刺客に背後から斬りつけられてしまいます。
山田藤吉が斬られたときに上げた大声を、坂本龍馬は相撲ごっこでもしていると思い、「ほたえな!(土佐弁で‘さわぐな‘の意味。子供が騒いでいるときに使われる)」と叫んだとの逸話が残っています。
この逸話だけだと、ずいぶんと坂本龍馬が油断していたように感じますが、親交があった十津川郷士だと思い込まされていたならば、山田藤吉が来訪者と相撲ごっこをしていると考えてもおかしくないですし、「ほたえな!」とのくだけた口調で声を掛けることにも納得です。
2階に上がった刺客は、部屋に侵入します。
一人が中岡慎太郎に一撃を浴びせ、もう一人の刺客が龍馬に斬りかかりました。
刺客は、坂本龍馬の前頭部を刀で横に払ったそうです。
刺客の猛攻は続きます。反撃の為に刀を取ろうと床の間に手を伸ばした坂本龍馬の、右肩先から背中にかけて袈裟懸けに切りつけていったのです。
床の間にあった刀を掴んだ坂本龍馬でしたが、とっさのことで鞘を抜く間はありません。
敵の刃を鞘ごと受けました。しかし、刺客の刀を完全に受け止めることはできず、坂本龍馬は前頭部に大きな傷を負い倒れてしまったのでした。坂本龍馬は頭部への傷以外にも、全身に34カ所もの傷を負っていたとの記録もあり、襲撃の激しさが伝わってきます。
坂本龍馬が襲撃を受けている時、中岡慎太郎も厳しい戦いを強いられていました。
中岡慎太郎は、最初の傷が深く、刺客の追撃をかわし切れず、両手両足を斬られてしまいます。右手はほとんど切断されるほどであり、臀部にも骨に達するほどの襲撃を受けます。
刺客は速やかに引き上げています。襲撃開始から引き揚げるまでの時間はわずか数分だったといわれています。
そのことからも、刺客は最初から「暗殺」だけを目的にしていたことが感じ取れます。
坂本龍馬の最後の様子はどうだった?
近江屋の主人によって凶行を知らされた土佐藩士たちが駆け付けた時、坂本龍馬はすでに亡くなっていました。
中岡慎太郎は重傷ながらも意識ははっきりしており、駆けつけた仲間に襲撃の状況や坂本龍馬の最後の様子を伝えたと言われています。
陸援隊士の谷干城は『谷干城遺稿』にて、「
すっと起上がって行燈を提げて階下段の傍まで行った。そして其処で倒れて、二声三声言ふて、それでもう音が無い様になった。」とあります。
同じく陸援隊士の田中光顕も『伯爵田中光顕自叙伝』にて
「…其時坂本は僕に向ってモウ頭を遣られたから駄目だと言ったが…」とあります。
これらの資料は、遭難直後に駆けつけた二人のものですから、かなり信用できる内容であると考えられています。
【坂本龍馬の最後の様子の意訳】
刺客が去った後、坂本龍馬はすっと起き上がります。行燈(あんどん)を掲げて周囲を見るうちに中岡慎太郎に気が付いたのでしょう。
「僕は頭をやられたからもうだめだ。」坂本龍馬が中岡慎太郎にかすかな声でいうと、昏倒し再び声をきくことはありませんでした。
坂本龍馬の最後の様子が、非常に冷静な様子に驚くばかりですね。
坂本龍馬の没年月日と享年
坂本龍馬の没年月日は、1867年12月10日(慶応3年11月15日)享年33歳(満31歳)
坂本龍馬は1836年1月3日(天保6年11月15日)に産まれています。
旧暦で見ると、誕生日と亡くなった日が同じなのです。なにか運命的なものを感じますね。
坂本龍馬の暗殺事件の犯人は一体誰?黒幕はいたの?
坂本龍馬の暗殺事件「近江屋事件」の真相は未だ謎に包まれたままです。
今井信郎説や新撰組説、京都見廻組説や薩摩藩説など、様々な説が存在していますが、万人を納得させる決定的な証拠や証言は見つかっていないのです。
坂本龍馬暗殺の犯人は、今井信郎?新撰組?京都見廻組?薩摩藩?
坂本龍馬暗殺の実行犯として有力なのが、京都見廻組の今井信郎や渡辺篤です。
彼らは証言の中で「自分たちが襲った」と自供しており、暗殺に参加した人数も同じ数を示していたりしているからです。しかし、その証言には現場の状況と矛盾する点もあり、決定打とはなっていない現状です。
坂本龍馬暗殺の犯人としては、新選組も疑われていました。
十津川郷士の中井庄五郎が敵討ちに乗り込み、逆に新選組に討たれる事件「天満屋事件」も発生しています。
近藤勇や斎藤一なども坂本龍馬暗殺の犯人と噂されることもあったようですが、決定的な証拠はありませんでした。
坂本龍馬とともに亡くなった中岡慎太郎が犯人説や、薩摩藩説など、さまざまな説が存在している背景には、坂本龍馬に敵が多かったことや、親しい人間による裏切り行為も否定できない動乱期の幕末であったことも複雑に絡みあい、どの可能性も否定できなくなっているようです。
坂本龍馬暗殺には、黒幕がいたのか?
現在のところ、坂本龍馬暗殺の「実行犯」は京都見廻組であったとの説が有力です。
では、黒幕は誰だったのでしょうか?
天満屋事件で亡くなった十津川郷士の中井庄五郎は、黒幕は紀州藩士の三浦休太郎であると考えていたようです。
また、大政奉還による平和的な討幕ではなく、あくまで武力による倒幕をしたかった「薩摩藩」が黒幕であるとの考えもあります。
大政奉還を行うこと自体に反対していた「会津藩」が黒幕であるとの考えもあります。
いずれにせよ、全ての真相は、厚いベールに包まれているのでした。
坂本龍馬の辞世の句はある?
急襲によって亡くなった坂本龍馬には、「辞世の句」は存在していないといわれています。
辞世の句ではないですが、坂本龍馬が残した句の中で、有名なものをご紹介します。
世の人は我を何とも言わば言え 我なす事は我のみぞ知る
現代訳:
「人がわかってくれなくても、自分のする事は自分がわかっていればそれでいいのだ」
自分の信じる道をまっすぐ駆け抜けた坂本龍馬の生き様が伝わる一句ですね。
坂本龍馬のお墓はどこにある?
坂本龍馬のお墓はどこにあるのでしょうか。
坂本龍馬の遺骨は、京都霊山護国神社に埋葬されています。
【京都霊山護国神社】
住所:京都市東山区清閑寺霊山町1
連絡先:075-561-7124
アクセス:市バス「東山安井」下車、徒歩約10分
参拝時間:開門8:00(入山受付9:00 / 閉門17:00) 拝観料:大人300円・小中学生200円
拝観時のルール:
参道へ駐停車はせず、近隣の駐車場を利用すること。(神社には駐車場はありません)
墓前へのお供えは、参拝後に必ず持ち帰ること。(神社にゴミ箱はありません)
なお、坂本龍馬のお墓のある京都霊山護国神社は、1868年(明治元年)に明治天皇の指示により、維新に倒れた志士たちの御霊を祀るために創建されました。
坂本龍馬の他にも、木戸孝允(桂小五郎)、高杉晋作、久坂玄瑞、吉村寅太郎らの幕末志士が、京都霊山護国神社に祭られています。
坂本龍馬のお墓の隣には、中岡慎太郎も眠っている
坂本龍馬のお墓の隣には、中岡慎太郎のお墓が並んでいます。
海援隊隊長の坂本龍馬と陸援隊隊長の中岡慎太郎という、新しい日本をつくることを自他ともに期待されていた二人です。暗殺で命を落としたことは、どんなに無念だったことでしょう。
そんな2人が、亡くなった後も隣同士に並び、日本の行く末を見守っています。自分達が亡くなった後の日本を見守りながら、二人はどのような話をしているのでしょうか。
京都霊山護国神社にある坂本龍馬と中岡慎太郎のお墓を見ると、いろいろな想像が膨らみますね。なお、二人のお墓の後ろには、山田藤吉も埋葬されているそうです。
まとめ:坂本龍馬の死因は、刺客に受けた刀傷。暗殺事件の真相は謎に包まれたまま。
坂本龍馬の死因は、刺客に受けた頭部への刀傷による脳挫傷ではないかということがわかりました。近江事件の様子から、非常に殺意の高い激しい襲撃であったことが伺えました。
今回の内容をまとめると、
- 坂本龍馬の死因は、暗殺の刺客に受けた刀傷
- 坂本龍馬暗殺事件「近江屋事件」では、坂本龍馬の他にも、中岡慎太郎や従僕の山田藤吉も命を奪われた
- 坂本龍馬暗殺事件の真相は、謎に包まれたまま
- 坂本龍馬のお墓は京都霊山護国神社にあり、その隣には中岡慎太郎のお墓が並んでいる
坂本龍馬や中岡慎太郎がもしも武器を携えていたら、他の仲間が同席していたら、山田藤吉が違う動きをしていたら…あとほんの少し何かが違っていたら、結末が全く違うものになっていたかもしれない。
詳しく調べる程に、暗殺が成功してしまったこと自体が何か運命的なものを感じさせる近江屋事件でした。