真田幸村の死因は?最期の場所は?大坂夏の陣では討たれず生存していた?
真田幸村の名前で有名な真田信繁は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけて活躍した戦国大名です。
豊臣方の武将として大坂夏の陣において、徳川家康の本陣まで攻め込んだ勇敢な活躍で、「日本一の兵」と評されました。
そんな時代を超えて人々を魅了してきた真田幸村のの死因や、最後の場所はどのようなものだったのでしょうか。大阪夏の陣で亡くなったとされていますが、実は生存説も存在しているのです。謎にみちた戦国時代のヒーロー真田幸村の最後に注目していきます。
※この記事内では、広く知られている真田幸村の名前で統一して表記いたします。
目次
真田幸村の死因はなに?
真田幸村が亡くなった原因は何だったのでしょうか?
一般的に、真田幸村が亡くなったのは、1615年(慶長3年)5月の大阪夏の陣と言われています。しかし、本当は生き延びていたのではないかとの説も存在しているはごぞんじでしょうか。
真田幸村は「大阪夏の陣で亡くなった説」と「大阪夏の陣で亡くなっていない説」をそれぞれ紹介していきます。
【真田幸村の死因をめぐる二つの説】
- 大阪夏の陣で討ち取られた説
- 大阪夏の陣では討ち取られずに、豊臣秀頼と共に薩摩に落ちのびた説
真田幸村の死因|大坂夏の陣で討ち取られた説
真田幸村の死因として最も有名なのが、「大阪夏の陣」で打ち取られたというものです。
大阪夏の陣は、徳川家康が豊臣家を滅亡させた合戦で、真田幸村は、豊臣家側で戦いました。
関ヶ原の戦いに勝利し、江戸幕府の征夷大将軍となった徳川家康は、大阪城を拠点とする豊臣秀頼に戦いをしかけます。合戦は二回おこなわれ、1614年(慶長19年)の戦いを「大坂冬の陣」、1615年(元和元年)に再開された戦いを「大坂夏の陣」と言います。
そして、大阪夏の陣で真田幸村は討ち取られ、豊臣家は滅亡してしまうのでした。
大坂冬の陣でも大活躍だった真田幸村です。
真田幸村は、徳川家康から「信濃一国をあげるので、徳川側に寝返るように」と再三誘っていたといわれています。しかし真田幸村の心は決まっていました。当時、真田幸村が親族に送った手紙には、「豊臣側の負けは覚悟しているが、それでも豊臣家に付くことを詫びる」内容が書かれていたそうです。
大阪夏の陣は、徳川側の東軍15万ほどに対し、豊臣側の西軍は8万ほど、圧倒的な数の差がありました。
大阪冬の陣の後に徳川家康によって防御機能を削がれた大阪城では、籠城戦も行えません。そんな圧倒的な不利な状況でも、真田幸村が率いる軍の士気は高かったといいます。
西軍が次々と敗北していく中、真田幸村が率いる真田隊は徳川家康の本陣まで攻め込むことに成功します。
徳川家康が2度も自害を覚悟したと言われるほど、真田隊の勢いは凄まじかったそうです。
しかし、真田幸村の奮闘もそこまで、最後は徳川側の援軍の前に力尽きてしまうのでした。
真田幸村の最期の場所は?
真田幸村が亡くなったのは、大阪市天王寺区の安居神社といわれています。
疲労困憊な真田幸村が、安居神社境内の一本松の下で休息しているところを、徳川側の松平家の武将である西尾宗次に討ち取られてしまったのです。
真田幸村の最後は、敵と切り結んだとも、黙って首を討たせたともいわれています。
また、西尾宗次が安居神社を訪れた際には、すでに真田幸村は亡くなっており、一緒にいた馬から、亡くなっている人物は真田幸村と分かったので報告したとの逸話も存在しています。
現代の安居神社には、真田幸村の像や戦死跡の碑が立てられています。また、幸村が休息していたといわれる松の子孫の「さなだ松」もみることができます
真田幸村の最期の言葉
真田幸村の辞世の句はこのようなものだったといわれています。
「さだめなき浮世にて候へば、一日先は知らざる事に候。我々事など、浮世にあるものとは、おぼしめし候まじく候」
現代語:
「このような不安定な世情ですから、明日のこともどうなるかはわかりません。私たちのことは、どうぞこの世いないものと考えてください」
この真田幸村の辞世の句は、大阪夏の陣が始まる前に親戚に送った手紙の中に書かれたものです。真田幸村が辞世の句として書いたかはわかりませんが、彼の潔い人間性や生き様が感じられる内容ですよね。
また、真田幸村は安居神社で西尾宗次に見つかり、「この首を手柄にされよ」と最後の言葉を言い放ち、潔く斬られたとも言われています。
辞世の句、最後の言葉、どちらも潔く男らしい、真田幸村の人生が現れた言葉ですね。
真田幸村には影武者がいた?並べられた真田幸村の首
真田幸村には影武者がいたともいわれています。しかも複数人もの影武者おり、大阪夏の陣の際には、「我こそが真田幸村である!」と名乗りを上げて敵陣に突っ込んでいく騎馬武者が何人も現れたといわれています。また、合戦の後には、徳川家康の前には、7体もの「真田幸村の首」が並べられたといわれています。
打ち取られた首は顔の様子がひどく変わっており、徳川側で戦った真田幸村の叔父も見分けがつきません。結局、欠けていた歯や兜の形で本物の真田幸村とされる首が認定されたと言われています。
真田幸村の死因|大阪から逃げ延びて長生きした
はっきりとした最後の記録が残っていない真田幸村には、生存説が存在しています。
真田幸村は自分そっくりの影武者を大阪冬の陣で和睦したすぐ後から立ており、大阪夏の陣で真田幸村とされたのは、この時の影武者だったというのです。
では、本物の真田幸村はどこに行ったのでしょうか。
大阪城には秘密の抜け穴があったとされており、真田幸村は、豊臣秀頼を連れて秘密の抜け道から大阪城を抜け出し、薩摩(現在の鹿児島県)に落ち延びたという説があります。
京都ではその時の様子を、
“花のようなる秀頼様を 鬼のようなる真田が連れて 退きも退いたり加護島(鹿児島)へ”
とのわらべ歌でうたわれたとされています。
六尺五寸(約195センチメートル)の身長と四十三貫(約161キログラム)の体重であったといわれる豊臣秀頼が、「花のような」人物であったかは疑問が残りますが、
・真田幸村は影武者が存在していた
・豊臣秀頼が大阪城で切腹した瞬間をみたものがいない
ことから、わらべ歌のようにふたりは薩摩へ落ち延びたという説が根つよくささやかれているわけです。
真田幸村の墓はどこ?
真田幸村のお墓は、日本全国に多数存在しています。
例えば、大阪夏の陣で打ち取とられたとされる真田幸村の首は、福井県の孝顕寺に供養されているといわれています。真田幸村を打ち取った西尾宗次が譲り受け、供養したというのです。
また、真田幸村が逃げ延びたとされる薩摩(鹿児島県)にも、真田幸村と豊臣秀頼のものとされるお墓が存在しています。さらには、京都府、宮城県、長野県、秋田県などにも「真田幸村の墓」とされるものが存在しています。
しかしながら、いずれも遺骨を納めたお墓ではなく、供養墓や供養塔であるようです。
まとめ:真田幸村の死因は、大坂夏の陣説と生存説があるが、その真相は闇の中
真田幸村の最後は、大阪夏の陣で打ち取られた説と、豊臣秀頼とともに逃げ延びた説が存在していました。真田幸村の最後がはっきりと記録に残っていない以上、本当はどうだったのかは闇の中といえるでしょう。
今回の内容をまとめると、
- 真田幸村の最後は、大阪夏の陣で打ち取られた説がある
- 真田幸村は大阪夏の陣を生き延びて、豊臣秀頼と共に薩摩に逃げ落ちた説がある
- 真田幸村の辞世の句、最後の言葉は潔く男気があり、その生涯を物語っている
しかしながら、魅力ある人物の最後が分らないことで、人々はよりいっそう浪漫を感じているのかもしれませんね。