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真田幸村の子孫は現在も続いている?家系図から見る末裔達。仙台真田家は偽物?

真田幸村の子孫は現在も続いている?家系図から見る末裔達。仙台真田家は偽物?

真田幸村(1567~1615)といえば、大坂の陣で活躍し「日本一の兵」と評される、安土桃山時代から江戸時代初期かけての武将です。真田幸村は大河ドラマ「真田丸」やモンストやパズドラなどのゲーム、その他数多くのメディアで取り上げられ、幅広い層に人気があります。

そんな真田幸村の、子孫は現在までも続いているのでしょうか?仙台真田家とはどのような関わりがあるのでしょうか?今回は、真田幸村の家系図を通して、子孫は現在も続いているのか?また仙台真田家や伊達政宗との関係も合わせてご紹介します。

真田幸村の家系図

真田幸村の家系図を見ていきましょう。

真田幸村の系図1

真田幸村は、真田昌幸の次男として生まれました。幼少の頃より父が主君を変えるたびに人質として過ごすなど苦労の多い幼少期を過ごしています。

真田幸村の生涯についてはこちらの記事でも詳しく解説しております。

>>真田幸村(真田信繁)の年表を簡単に解説!どんな人?功績は?性格は?>>

真田幸村の子供達

真田幸村には、全部で10人以上の子供がいました。
正室である竹林院との間に5人。側室である堀田興重の娘との間に1人、高梨内記の娘との間に2人、隆清院との間に2人。その他にも、本当に居たかどうか定かではない子供が数人存在するようです。

真田幸村の子供のうち男児は3人なのですが、実は関ケ原の合戦で九度山に幽閉される以前は女児しかいませんでした。嫡男である真田大助(幸昌)は九度山で生まれたとされています。
また、三男の三好幸信にいたっては、幸村が戦死した2ヶ月後に誕生しています。

真田幸村の系図2

大坂夏の陣の後、真田幸村の子供達はどうなった?

真田幸村は大坂夏の陣で敗れて、討ち取られたといわれています。
普通敗戦した武将の子供は、報復などの可能性を潰すために処刑されます。当時、真田幸村の子どもたちの大半は大坂城にいました。真田幸村は戦が劣勢になるにつれて、子どもたちのことをどうにか救うことはできないかと考えるようになります。

真田幸村の嫡男の真田幸昌は、父親である幸村とともに最後まで付き従うつもりでした。
しかし、真田幸村は幸昌を死なせないために、豊臣秀頼を見届ける任を与え大坂城へと引き返させるのです。
大坂城が落城する前に脱出することができれば、生き残れる可能性があると踏んだのでしょう。

しかし、真田幸昌は脱出を勧められるも、それを拒否。
「我は真田左衛門佐信繁の倅なり!!」と叫んで、豊臣秀頼の切腹に殉ずることにするのです。このとき、幸昌は15歳くらいの少年でした。このことから、真田幸昌は父親に最後まで付き従うことを貫き通したことがわかります。

他の子どもたちはどうなったかと言うと、幸村は死ぬ前に、ある人物に子どもたちを託すことを決めます。
そのある人物とは、伊達政宗の参謀の片倉小十郎景綱の嫡男である、片倉小十郎重綱という人物です。
真田幸村はこの人物の戦いっぷりに惚れ込んだのです。そこで、幸村は大坂城に残った子どもたちに手紙を渡し、「重綱の主君である伊達政宗に子どもたちを助けて欲しい」という旨のことを書き残しました。
そうして次男の大八をはじめ、数人の子どもたちは片倉家に引き取られ、生き延びることができたのです。

真田幸村の最後については、こちらの記事でも詳しく解説しております。

>>真田幸村の死因は?最期の場所は?大坂夏の陣では討たれず生存していた?>>

仙台真田家は偽物?

真田家は真田家でも、仙台真田家と呼ばれる家があります。仙台真田家は、真田幸村とは関係があるのでしょうか?ここでは、仙台真田家について解説していきます。

真田幸村と伊達政宗の関係性

よく真田幸村と伊達政宗はセットで取り上げられることがあります。この2人の関係性は、同い年ということや、戦場で戦ったということにとどまりません。

大坂夏の陣で、真田幸村は自分が破れてしまうことを悟っていました。そこで心配になったのが、大坂城に残してきた子どもたちのことです。なんとかして救うことはできないかと考えていました。そして、片倉小十郎重綱という人物に目をつけます。

片倉小十郎重綱は、伊達政宗の参謀の片倉小十郎景綱の嫡男になります。
片倉小十郎重綱の戦いっぷりに惚れた幸村は、自分の子供の阿梅を嫁がせることを決めるのです。重綱の主君はもちろん伊達政宗なので、真田幸村は伊達政宗に宛てての手紙を書きます。その手紙を読んだ伊達政宗と重綱は、真田幸村の子どもたちを徳川家から守ってくれるのです。

このとき、真田幸村の次男である大八も片倉家の客分として迎え入れられました。
しかし、破れた武将の子ども、しかも男の子を匿っているなんてことが知られてしまったら、伊達家も片倉家も立場が怪しくなってしまいます。それでもなお、そんな危ない橋を渡ってくれたのですから、伊達政宗も重綱もとても情に厚い人物なのだということが伺えますね。

そして、この大八が大人になった際に、片倉姓を真田姓に戻して、仙台真田家の祖となりました。
つまり、仙台真田家は真田幸村の子孫と言えるのです。そして、仙台真田家は現在までも代々続いています。ちなみに、真田家自体は真田幸村の兄の直系が継いでいます。
その本家とわけるためにも、仙台と付けたのかもしれません。

真田幸村の子孫で、現在も活躍しているのは?

仙台真田家も真田幸村の子孫であるということがわかりましたね。ここでは、その中でも現在も活躍していらっしゃる方々をご紹介していきます。

真田幸村の子孫|仙台真田家の現当主「真田徹」さん

まずご紹介するのが、真田徹さんです。
真田徹さんは、真田幸村から数えると14代目仙台真田家の現当主です。真田徹さんは、白石や蔵王(宮城県)にも大八と阿梅の足跡が人知れず残されていたことを惜しみ、その歴史を埋もれさせないために活動をはじめました。

大河ドラマ『真田丸』の影響もあり、今ではだいぶ仙台真田家の認知度が広まってきています。
また、『直系子孫が明かす!真田幸村の真実』という本も出版していたり、講演会を開いたりと、今後も仙台真田家を広めていくために活動を続けていくそうです。

その他、真田幸村の子孫と言われている人

その他にも、幸村の子孫だと言われている人は何人かいます。幸村の子孫で残っているのは、仙台真田家だけではなく、三好幸信の子孫である秋田真田家、之親(本当にいたかどうかはわからない幸村の子ども)の子孫である香川真田家などが挙げられます。この二家は明治に入ってから、真田姓に戻したと言われています。

あと、有名なところでいくと、プロ野球選手の真田裕貴さんが挙げられます。この人は、巨人軍に入団した際に、「真田幸村の末裔」というキャッチフレーズでした。しかし、確かな情報かどうかは定かではないようです。

まとめ:真田幸村の子孫は現在もその血を受け継いでいた

真田幸村が、大阪夏の陣の際に子どもを救いたいと思い、それに応えてくれた伊達政宗がいたからこそ、真田幸村の子孫は現在もその血を受け継ぐことができていると言っても過言ではありませんでしたね。
今回の内容をまとめると、

  • 真田幸村は子宝に恵まれたが、そのうち男児は3人のみであった
  • 大阪夏の陣で幸村が敗れる際に、本来であれば子どもたちもみんな処分されてしまうところだった
  • 真田幸村が子どもたちを救いたいと思い、その気持ちを伊達政宗と片倉小十郎重綱に伝えた
  • 伊達政宗と重綱はその思いに応え、自らのリスクを冒してまで子どもを引き取った
  • 真田幸村の嫡男の真田幸昌だけは、最後まで幸村と共にし、殉死した
  • 片倉小十郎重綱のもとに行った大八が大きくなった後、真田性に戻し仙台真田家が誕生した
  • 仙台真田家は現在までもその血が受け継がれている

自分がいつ処分されるかもわからないような状態なのに、真田幸村の子どもたちを引き取った伊達政宗と重綱の情に厚い男気に感動してしまいますよね。伊達政宗は真田幸村という男を、それほど高く評価していたという現れでもあるのかもしれません。

真田幸村の生涯についてはこちらの記事でも詳しく解説しております。

>>真田幸村(真田信繁)の年表を簡単に解説!どんな人?功績は?性格は?>>

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