関ヶ原の戦いの原因を簡単に解説!いつ、どこで行われた?東軍が勝った理由は?
関ヶ原の戦いは天下分け目の戦いと言われ、日本史上最も有名な戦と言っても過言ではありません。
もともと仲が悪かった徳川家康と石田三成は、天下人となった豊臣秀吉亡き後、対立してしまい関ヶ原の戦いが起こりました。今回は関ヶ原の原因は一体なんだったのか?戦が行われた場所はどこか?また、東軍が勝った理由を紹介していきます。
目次
関ヶ原の戦いの原因は何?
豊臣秀吉(1537年(天文6年)~1598年(慶長3年))が天下統一を果たし戦乱の世は終わったかに見えました。
しかし豊臣秀吉が他界した後、部下である徳川家康(1543年(天文11年)~1616年(元和2年))と石田三成(1560年(永禄3年)~1600年(慶長5年))は対立してしまいます。
そもそも関ヶ原の戦いはどのような経緯で起こったのでしょうか。
関ヶ原の戦いの原因は豊臣秀吉の遺言を破った徳川家康?
豊臣秀吉は晩年、自分の死期を悟り遺言状を残していました。
その遺言状には、自分の息子である豊臣秀頼(1593年(文禄2年)~1615年(慶長20年))のことが書かれていたのです。
当時、豊臣政権の方針を決めるために五大老・五奉行という制度が取り入れられていました。
この五大老・五奉行は、豊臣秀頼を補佐する役割があり、遺言状にも秀頼のことをよろしく頼むと書かれていたのです。
しかし秀吉亡き後、徳川家康は五大老の筆頭という立場を利用して秀吉の後継者のような振る舞いをしていました。
このことを良く思っていなかった石田三成は家康に対して挙兵することになったのです。
また、豊臣秀頼の母である淀殿(1569年(永禄12年)~1615年(慶長20年)もまた、家康の行動を面白くないと思っていました。
そうして、豊臣秀吉の遺言を破った、五大老の筆頭である徳川家康と、五奉行の石田三成とが対立していき、関ヶ原の戦いへと発展していったのです。
【五大老】
- 徳川家康:1542年(天文11年) ~1616年(元和2年)
- 前田利家:1539年(天文8年)~1599年(慶長4年)
- 毛利輝元:1553年(天文22年)~1625年(寛永2年)
- 宇喜多秀家:1572年(元亀3年)~1655年(明暦元年)
- 上杉景勝:1556年(弘治2年)~1623年(元和9年)
【五奉行】
- 石田三成:1560年(永禄3年)~1600年(慶長5年)
- 浅野長政:1547年(天文16年)~1611年(慶長16年)
- 増田長盛:1545年(天文14年)~1615年(元和元年)
- 長束正家:1562年(永禄5年)~1600年(慶長5年)
- 前田玄以:1539年 (天文8年)~1602年(慶長7年)
関ヶ原の戦いの原因は、石田三成が嫌われていたから?
徳川家康が秀吉の後継者のような振る舞いをした一方で、石田三成は周りの武将たちからあまり好かれていませんでした。
石田三成は、豊臣秀吉が晩年力を注いでいた朝鮮出兵にも参加していましたが、前線で戦うわけではなく裏方として働いていました。
現地にて、武将たちの命令違反や問題行動を秀吉に報告する仕事をしていたため、現場で戦わないのに失敗を上に報告する石田三成を疎ましく思われていたのです。
もちろん、徳川家康と石田三成はお互いに良く思っていませんでした。
関ヶ原の戦いの原因は、直江状?
徳川家康と同じ五大老であった上杉景勝は米沢藩(山形県)の藩主。
山形県は雪深い土地で、さらに伊達政宗(1567年(永禄10年)~1636年(寛永13年))を代表とする東北諸大名を見張らねばならず、度々上洛を命じられることを負担に思っていました。
そんな中、上杉景勝が武器を集めて戦いの準備(謀反)をしていると疑われることになり、徳川家康から上洛を命じられます。
この時、上杉景勝は不満を表立って漏らすことはありませんでしたが、家臣である直江兼続(1560年(永禄3年)~1620年(元和5年)は謀反を疑われたことに対して手紙で反論しています。
この手紙が直江状です。
その内容は、
「上洛できないのは雪国だから。武器を集めているのも文化の一環で謀反ではない。なんで疑うのでしょうか。むしろそちらが何か企んでいるではないでしょうか?」
といった挑発的な内容がかかれていました。
この手紙を読んだ徳川家康は激怒し、上杉討伐へ乗り出したのでした。
その後、その隙をついて石田三成が挙兵し関ヶ原の戦いに発展したのです。
ただし、この直江状は現存しておらず、本当に存在したのか定かではありません。
内容が後の世で大幅に改修させられたという説もあります。
関ヶ原の戦いを簡単に解説
ここでは関ヶ原の戦いについて起こった場所や布陣などについて簡単に解説します。
関ヶ原の戦いは、いつ、どこで行われた
関ヶ原の戦いは、1600年10月21日(慶長5年9月15日)に美濃国不破郡関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)を主戦場として行われました。この戦場は、現在 岐阜関ケ原古戦場記念館となっており、古戦場・史跡巡りや関ヶ原の戦いについて学習できるようになっています。
関ヶ原の戦いの布陣。西軍と東軍の武将一覧
【関ヶ原の戦いで西軍として戦った武将一覧】
本隊・大将:
石田三成 1560年(永禄3年)~1600年(慶長5年)
佐和山城(滋賀県彦根市)の城主。五奉行として家康と対立を深めた結果、関ヶ原の戦いにつながりました。
大坂城留守居・総大将:
毛利輝元 1553年(天文22年)~1625年(寛永2年)
安芸国(広島県)の大名。
関ヶ原で戦ったのは石田三成ですが、この戦いの名目上の総大将は毛利輝元でした。
本隊・輝元の代理:
毛利秀元 1579年(天正7年)~1650年(慶安3年)
長門国長府藩(山口県下関市)の初代藩主。
毛利輝元の代理として関ヶ原に出陣しました。関ヶ原の地における毛利軍の大将です。
【本隊】
宇喜多秀家 1572年(元亀3年)~1655年(明暦元年)
備前国岡山城(岡山県岡山市)城主。五大老の一人で、西軍の主力として参加していました。
島津義弘 1535年(天文4年)~1619年(元和5年)
薩摩国(鹿児島県)の武将。関ヶ原では兵を動かさなかったとされています。
西軍の敗北を悟った島津隊は東軍の正面を突破し、退却しました。
小西行長 1558年(永禄元年)~1600年(慶長5年)
肥後国宇土城(熊本県宇土市)の城主。
関ヶ原の戦いで奮闘するものの、敗北して石田三成とともに打首になりました。
大谷吉継 1565年(永禄8年)/1559年(永禄2年)~1600年(慶長5年)※誕生年諸説あり
越前敦賀城(福井県敦賀市)城主。
大谷吉継は、初めから小早川秀秋の裏切りに備えていましたが、結局西軍が負け自害したと言われています。
小早川秀秋 1582年(天正10年)~1602年(慶長7年)
丹波国亀山城(京都府亀岡市)城主。
当初は西軍として参加していましたが、東軍に寝返り東軍勝利のきっかけを作りました。
【関ヶ原の戦いで東軍として戦った武将一覧】
本隊・総大将:
徳川家康 1542年(天文11年) ~1616年(元和2年)
五大老の一人。
当初は西軍が有利でしたが、事前に小早川秀秋を懐柔しておいたことが功を奏して戦局が 変わり、東軍が勝利しました。
本隊・軍監:
井伊直政:1561年(永禄4年)~1602年(慶長7年)
上野国高崎藩(群馬県高崎市)の初代藩主。
東軍指揮の中心的存在で、全国の大名を東軍に引き入れる役割も持っていました。
【本隊】
黒田長政:1568年(永禄11年)~1623年(元和9年)
筑前国福岡藩(福岡県福岡市)初代藩主。
小早川秀秋を懐柔する交渉役にもあたっていました。
浅野幸長 1576年(天正4年)~1613年(慶長18年)
紀伊和歌山藩(和歌山県)初代藩主。関ヶ原の戦いでは西軍への備えるため垂井一里塚(岐阜県不破郡垂井町)に陣を構えており、戦いには参加しませんでした。
福島正則 1561年(永禄4年)~1624年(寛永元年)
朝鮮出兵を境に石田三成とは険悪な関係になっていました。
関ケ原では宇喜多秀家勢の進撃を防ぎました。
細川忠興 1563年(永禄6年)~1646年(正保2年)
豊前国小倉藩(福岡県北九州市)初代藩主。
明智光秀(?~1582年(天正10年))の娘・細川ガラシャ(1563年(永禄3年)~1600年(慶長5年))の夫でもあります。関ヶ原の戦いでは石田三成の本隊と戦いました。
関ヶ原の戦いは、わずか6時間で東軍の勝利
関ヶ原の戦いは総勢15万人が参加した大規模な戦でした。
長期戦になるかと思われた戦いでしたが、実際は朝八時頃から開戦し、わずか6時間で決着がつく短期戦となりました。
当初は兵力で勝っていた石田三成率いる西軍ですが、仲間の裏切りにあい形勢が逆転。
これをきっかけに西軍は総崩れになり、東軍の大勝に終わりました。
関ヶ原の戦いのその後
関ヶ原の戦いに敗れた石田三成は、逃げる途中で伊吹山(滋賀県米原市)で捕らえられ、京都の六条河原で小西行長らとともに打ち首になってしまいます。
そのほか西軍に味方した大名たちは、領地を取り上げられる、減らされるなどの対応が行われました。
徳川家康は晴れて征夷大将軍に任ぜられ、1603年に江戸幕府が成立しました。
東軍の大名は全て優遇されるかと思いきや、重要な土地には徳川一門の大名を置き、外様大名は江戸幕府から遠い領地に移し替えられています。
また、余計な口出しをしないよう、幕府が行う政治に外様大名は参加できないようになっていました。
関ヶ原の戦いで東軍が勝った理由は?
当初は西軍優勢と思われた関ヶ原の戦いでしたが、わずか六時間で東軍の大勝に終わりました。
兵力では石田三成の西軍が優勢だったにもかかわらず、どのようにして東軍が勝利をつかんだのか解説します。
西軍の敗因は、小早川秀秋の裏切り?
小早川秀秋は西軍の武将でしたが、実は事前に家康と約束しており東軍に寝返る予定になっていたのです。
しかし、戦の当日になって秀秋は迷ったのか、なかなか動きを見せませんでした。
しびれを切らした徳川家康は、小早川の陣を鉄砲で撃ったのです。
これに驚いた秀秋は東軍に寝返ることを決心し、一気に東軍優勢になりました。
西軍の敗因は、毛利輝元の裏切り?
毛利輝元は西軍の総大将でしたが、東軍の黒田長政とも通じていました。
毛利輝元は徳川家康が優勢と感じ取ったのか、関ケ原の戦いの前日に家康との間に協定が結ばれていたのです。
そのため合戦当日は戦いに参加せず、まったく西軍の戦力として働かないことで東軍の勝利に貢献しました。
関ヶ原の戦いの勝敗を分けた、徳川家康と石田三成の人気の差
石田三成は秀吉の朝鮮出兵の際、戦の動向を報告する役目がありました。
そのため、石田三成は戦に参加はしないが、現場で起こった問題を秀吉に報告していたため、前線で戦っていた武将と軋轢が生まれています。
特に加藤清正(1562年(永禄5年)~1611年(慶長16年)は石田三成を嫌っていました。つまり、武闘派の武将たちからは石田三成は人気がなかったのです。
この徳川家康と石田三成の人気の差も、関ヶ原の戦いで西軍が負けた要因の一つと考えられています。
まとめ:関ヶ原の戦いの原因は、石田三成への不満と、徳川家康による秀吉への裏切りが原因だった
豊臣秀吉の遺言で、「豊臣秀頼をくれぐれも頼む」とあったにもかかわらず、自身が天下人になるべく動き出した徳川家康の行動、それを阻止しようとした石田三成の対立が、関ヶ原の戦いにつながっていきました。
関ヶ原の戦いでは、兵力で徳川家康を上回っていた石田三成でしたが、ふたを開けてみると6時間という短い時間で、石田三成率いる西軍は負けてしまいました。
今回の内容をまとめると
- 豊臣秀吉の遺言を無視して活動した、徳川家康の行動が関ヶ原の戦いに発展した
- 朝鮮出兵で前線で戦わないのに、豊臣秀吉に戦の報告をしていた石田三成は嫌われていた
- 直江状がきっかとなり、徳川家康が激怒し関ヶ原の戦いに発展した
- 西軍は、小早川秀秋や毛利輝元の裏切りにあったことが、敗退理由
- 関ヶ原の戦いに勝った徳川家康は江戸幕府を築いた
関ヶ原の戦いは、石田三成の不人気や裏切りなど非常に人間臭いエピソードが多くあります。
日頃の不満から争いに発展したり、根回しや人気が勝負事の勝敗を左右するのは現代にも通じるものがありますね。