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徳川慶喜の大政奉還はなぜ?場所は二条城?王政復古の大号令との違いは?

徳川慶喜の大政奉還はなぜ?場所は二条城?王政復古の大号令との違いは?

徳川慶喜とくがわよしのぶは、江戸幕府の第15代征夷大将軍として、江戸時代の幕引き役を演じた最後の将軍です。徳川慶喜が大政奉還をした後、薩摩藩・長州藩や岩倉具視いわくらともみらが主導して「王政復古の大号令」が宣言されています。
どちらも、「江戸幕府にあった政権を朝廷に返上する」内容のものですが、この二つは大きく異なるものでした。
今回は、徳川慶喜の大政奉還の理由や場所、王政復古の大号令との違いについて、注目していきます。

徳川慶喜の大政奉還をわかりやすく解説

徳川幕府の第15代征夷大将軍であった徳川慶喜は、1867年11月(慶応3年10月)大政奉還たいせいほうかんをしました。

大政奉還を簡潔に表現すると、「明治天皇に政治をする権利を返すこと」と言えます。

もう少し、詳しく解説していきます。

日本では古代から天皇を中心として政治が行われてきました。

江戸幕府も形式化されてはいましたが、天皇が徳川家の当主を征夷大将軍に任じ、政治をゆだねるという形態で政治をしていました。

つまり、徳川慶喜がおこなった「大政奉還」とは、

天皇にかわって政治の中心となっていた役職(征夷大将軍)が政治の中心となる権限(大政)をお返しする(奉還)」ということなのです。

大政奉還をすることができるのは、征夷大将軍だけというわけなのですね。

征夷大将軍の指令本部は「幕府」とよばれています。そのため大政奉還によって征夷大将軍が存在しなくなったことにより、江戸幕府も終わりを迎えたのです。

徳川慶喜の大政奉還した場所は?二条城ではなかった?

大政奉還(Wikipediaより)

263年続いた徳川幕府が終焉を迎えた大政奉還で重要な舞台となったのは、京都府にある世界遺産「二条城」です。

徳川慶喜が大政奉還した場所がこの二条城だったのでしょうか?

実は、徳川慶喜が大政奉還が成立した場所は二条城ではありません。天皇のいる朝廷です。
天皇が朝廷で徳川慶喜からの大政奉還の上表を受理したことで、大政奉還は成立しました。

では、二条城では何が行われたのでしょうか?

天皇に大政奉還の上表を提出する前日、徳川慶喜は二条城二の丸御殿大広間に、40藩程の重臣を集めました。そして大政奉還の決意を述べたのでした。

二条城で家臣たちから大政奉還の承認を得た翌日、徳川慶喜は朝廷に大政奉還の上表を提出します。
そしてその翌日に朝廷は承認し、大政奉還が成立したのでした。

二条城は、日本の歴史の大きな転換点ともいえる大政奉還を行った場所ではなく、決めた場所なのです。

徳川慶喜は大政奉還はなぜ?その理由を解説

徳川慶喜は、なぜ大政奉還をしたのでしょうか?

徳川慶喜が大政奉還をした理由は、武力による討幕や、内戦勃発を防ぐためといわれています。

1853年 (嘉永6年)にペリーが浦賀に来航して以来、日本も植民地主義全盛の世界情勢に巻き込まれていきます。

特に、1858年(安政5年)に日米修好通商条約とよばれる「不平等条約」が結ばれて以降、国内の幕府に対する反発は強まり、幕府の求心力は急速に低下していきます。

幕府は公武合体で事態を乗り越えようとしましたがうまくいかず、1866年(慶応2年)に強力な力を持つ長州藩と薩摩藩が倒幕のため同盟を結びます。
そして翌年の1867年11月(慶応3年10月)に、朝廷に討幕許可の申請をする事態にまでになりました。

また、世界で植民地争いをしていたイギリスとフランスが、フランスが幕府側を支援し、イギリスが薩長側を支援します。これにより、勝利した方の支援国が日本への影響力を強め、日本は植民地化されてしまう可能性が高まりました。

徳川慶喜が1866年(慶応2年)に第15代征夷大将軍に就任した頃は、すでに江戸幕府の力は弱くなっており、武力による倒幕や植民地の危機まで時間の問題だったんです。

武力による倒幕を起こさせないよう徳川慶喜が選んだのは、対象となっている幕府を自らの手でなくしてしまうことでした。
倒幕の対象が存在しなければ、討幕派は大義を失い、争い事態が発生しないと考えたのです。
内戦が勃発しなければ、イギリスもフランスも介入するチャンスが生まれず、日本が植民地化されることも回避できるというわけです。

大政奉還が朝廷で承認されたのは、長州藩や薩摩藩が朝廷から倒幕の許可を得る数時間前だったといわれています。一刻を争うギリギリのタイムレースを、徳川慶喜の大政奉還は制したといえるかもしれません。

徳川慶喜が大政奉還をするきっかけは坂本龍馬の船中八策?

大政奉還の内容は、徳川慶喜が一人で考えたものではありませんでした。
実は、大政奉還は、土佐藩が幕府に提案し、徳川慶喜が決断したものだといわれています。
その土佐藩の提案は、坂本龍馬船中八策せんちゅうはっさくを基にしたものだったのです。

土佐藩の重臣の後藤象二郎ごとうしょうじろうは、坂本龍馬の今後の日本についての政治思想「船中八策」に強く共感します。そして、土佐藩の15代当主の山内容堂やまうちようどうに大政奉還を進言し、それを受け入れた山内容堂が江戸幕府に大政奉還を提案します。そして徳川慶喜が決意したことで、大政奉還は成立したのでした。

つまり大政奉還の成立は、坂本龍馬のグローバルなビジョンと、その内容を正当に評価し素早く対応した土佐藩、そして大きな決断を素早く行った徳川慶喜のチームプレーで成し得たものといえるでしょう。

徳川慶喜は大政奉還後に公議政体に加わるつもりだった?

徳川慶喜は無用な争いを起こさないために大政奉還をしましたが、大政奉還で征夷大将軍を返上したからといっても、政治の頂点に君臨していた徳川家の力を全て放棄するつもりはなかったといわれています。

徳川慶喜や土佐藩は、新しい政治の場である藩列議会で徳川家が議長になれば、大政奉還後も政治の中心で活躍し続けられると考えていました。
大政奉還は、「江戸幕府」という名は捨てますが、政治の実権という実をとった巧妙な作戦だったといえるでしょう。

王政復古の大号令をわかりやすく解説

王政復古の大号令は、分かりやすく言うと
「これからは天皇が自分で政治をやります。」との宣言のことです。

王政復古の大号令は、大政奉還が実施された2か月後の1868年1月(慶応3年12月)に薩摩藩・長州藩や岩倉具視らによって主導されたものでした。

徳川慶喜の誤算?薩摩藩と長州藩による新政府の誕生

王政復古の大号令は、大政奉還後も政権を持ち続けるという徳川慶喜が思い描いていたビジョンを打ち砕くものでした。
徳川慶喜の大政奉還に、薩摩藩や長州藩、岩倉具視らの一部の公家は猛反対をします。
なぜなら、このままでは新しい政治形態になっても、徳川慶喜をトップとする江戸幕府の影響が色濃く残ってしまうからです。

「新しい政治には、幕府関係者の排除が不可欠である」と考えていた彼らにとって、現状を受け入れることは到底できません。そこで政治クーデターを起こし、江戸幕府勢の関与しない新政府の樹立をめざしました。

1868年1月(慶応3年12月)、京都御所は9つの全ての門を閉ざし、薩摩・長州・尾張・福井・土佐5藩の軍勢によって包囲されました。立ち入りは厳しく制限され、幕府関係者は徹底排除されました。
そして幕府関係者がいない御所において、岩倉具視の主導のもと王政復古の大号令の内容を協議し、天皇の裁可を得たのです。
王政復古の大号令では、徳川慶喜の大政奉還を承認したうえで、幕府や摂政・関白の廃止と、新たな役職が政権運営を行うことを宣言しています。
当然のように新たな役職には、徳川慶喜は任命されていません。

つまり、王政復古の大号令によって、徳川慶喜を将軍から辞職させ、摂政や関白にもなれず、政権運営に関与できない存在にすることに成功したというわけです。

さらに新政府は、最初の会議(小御所会議)をひらき、徳川慶喜の「辞官納地(内大臣の官位の辞退と、徳川家所領の朝廷へ返上)」を決定します。
処分の理由は、徳川政権の失政への責任と天皇への忠義の証としていますが、徳川慶喜の力を無力化したいとの思惑が透けてみえます。

大政奉還と王政復古の大号令の違いをわかりやすく解説

大政奉還と王政復古の大号令はどちらも、「江戸幕府の終焉」を示す内容ですよね。では、二つの違いはどのようなものなのでしょうか。

大きなちがいは、実施した人の立場の違いといえるでしょう。

徳川慶喜によって実施された大政奉還は、「将軍職は朝廷にお返しし、大名の一人となります。これからは天皇による政治を徳川家が筆頭で支えます。」というわけです。政治に慣れていない朝廷ですから、実質的な政治は徳川家が行えるというわけです。

一方で、王政復古の大号令は、薩長・岩倉具視らによるものです。「将軍職を退いた徳川家は官位も領地も朝廷へ返上すべきです。これからは天皇による政治を、江戸幕府の影響を受けない新しい役職たちが支えます。」というものです。やはり実質的な政治は新しい役職に任命された薩摩藩や長州藩の者たちが行えるというわけです。

徳川家の権力を維持し、引き続き政治を行おうとした徳川慶喜が大政奉還を、幕府を徳川家を排除したい薩摩長州藩によって行われた王政復古の大号令が、ギリギリのところで攻防した結果、徳川家の権力は失墜し江戸幕府は滅びたのです。

まとめ:徳川慶喜は大政奉還で徳川家の権力を維持しようとした

徳川慶喜の大政奉還は、将軍職を自ら手放すことで、実質的な権力は失わない巧妙な作成であったことがわかりました。徳川家の権力を維持したい徳川慶喜と、なんとしても幕府を滅したい薩摩長州藩とのギリギリの戦いが行われていたんですね。
今回の内容をまとめると、

  • 徳川慶喜は1867年11月(慶応3年10月)に大政奉還を行った。
  • 大政奉還が行われた場所は二条城ではない
  • 大政奉還とは、徳川慶喜が征夷大将軍の役職を朝廷にお返しすること。江戸幕府を自ら終わらせ、討幕派の倒す相手がいなくなることで、武力による倒幕を回避しようとした。また、大政奉還後の徳川家の勢力を維持しようとした。
  • 王政復古の大号令とは、天皇が自らで政治を行う宣言のこと。薩長・岩倉具視らによって主導された政治クーデターで、徳川家の影響を受けない新しい政府の樹立をめざした。

どんな非常時でも、最も守るべきものを見失わず大胆な判断も辞さない徳川慶喜は、優れた政治判断ができる能力を持った、最後の将軍にふさわしい人物だったのだなぁと強く感じました。

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