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千利休の切腹の真相を徹底解説!秀吉はなぜ利休に切腹を命じたのか?

千利休の切腹の真相を徹底解説!秀吉はなぜ利休に切腹を命じたのか?

千利休、現代に続く茶道の原点と言っても良いほどの茶人です。茶聖とも呼ばれ、戦国時代を語る上では欠かせない人物です。
今回は千利休は、なぜ秀吉から切腹を命じられたのか?利休の最後の名言、利休が最後まで大切にした侘茶の精神を解説していきます。

千利休はなぜ切腹を命じられたのか?

戦国時代、戦さに負けた側の武将が切腹を命じられたり、武士が不始末などを犯した際に命じられたりする自ら命を断つ行為、切腹。それは武士にのみ命じられる行為で、それ以外の身分のものが命じられることはありませんでした。
しかし、豊臣秀吉は千利休に切腹を命じています。千利休は茶人であり商人でもありますが、決して武士ではありません。そして、秀吉は千利休のことを非常に信頼しており、また秀吉の家臣たちや、他の戦国大名もを慕い尊敬していました。
一体なぜ、秀吉は千利休に切腹を命じたのでしょうか?
利休は切腹に値する罪を犯したのでしょうか?

その理由を詳しく見ていきましょう。

大徳寺に安置された利休の木像が原因?

京都にある大徳寺三門にある金毛閣きんもうかくに雪駄を履いた千利休の木像が安置されていることが、秀吉の耳に入りました。
利休は、応仁の乱で焼けた寺を再建するために多額の寄付をていたり、古くなっていた三門を改修するために多額の資金援助をしていました。
その感謝の意を込めて、当時の住職だった古渓宗陳こけいそうちんが、秀吉の弟の秀長に届け出た上で安置されていたものでした。

しかし、その三門は秀吉も通る門です。
利休の木像が自分の頭上にある利休の木像が関白秀吉の頭を踏む
なんとけしからんことだっ!」と秀吉が激怒したのです。

もうこれは言いがかりの域ですが、この事件は利休が秀吉に切腹を命じられた理由と言われています。

茶の道具を高値で売買していたのが原因?

利休は信長が堺の名物(茶器など)を収集し始めた頃から、信長の茶頭としてその名物の鑑定をしていました。信長亡き後も秀吉の茶頭として、その目利き力は非常に信頼されていました。
利休が、その目利きとしての地位を利用して価値をコントロールし、
茶器を高値で売買し不当に私財を蓄えている
「なんとけしからんっ!」と秀吉が激怒したと言うものです。

これも完全に言いがかりですね。
そもそも、利休が目利きしたものを信長も購入し、その価値を引き上げ、家臣たちに褒美として渡していたのです。秀吉も同様、利休が目利きしたものを購入して収集していました。
茶器の価値が向上したのは、信長が茶器を独占的に収集し褒美として与えるためにその価値を向上させたからです。それと同じことを秀吉もしていました。それが御茶湯御政道おんちゃのゆごせいどうです。

利休はその類稀なる美的感覚で、数々の名物を鑑定してきていましたから、利休が選んだ商品は必然的に価値が高騰する。それは利休が悪いわけでもなく、価値が高い物の価格が高騰するのは市場の原理です。
それだけ利休の信頼が高かったと言うことです。
それを私財を蓄えるために利用したと言われても。。。完全な言いがかりですよね。秀吉だって利休の目利きしたものを購入してますからね。

娘を秀吉と結婚させるのを拒んだのが原因?

利休には4人の娘と2人の息子がいました。
秀吉はその利休の次女のことを気に入り、利休に次女を嫁にやるように申し出ました。
しかし、利休はその秀吉の申し出を断りました。
そのことで秀吉が怒って、のちの利休の切腹につながったという説があります。
求婚して断られたから切腹させるなんて、言いがかりというか八つ当たりというか。
秀吉には寧々という妻もいましたし、側室も多数いましたからそこまで固執したのかどうかは不明です。
ただし秀吉が、「利休の美的感覚を自分の子孫にも受け継がせたい」「利休と親類関係になることでより強固な信頼関係を構築したい」と考えていた可能性はありますね。
こちらも切腹を命じる直接的な理由としては弱いですね。

秀吉が利休のことを脅威に感じ始めたのが原因?

利休は、信長のころから茶頭として活躍していました。信長亡き後は秀吉に仕え、秀吉のたった一人の茶頭となり、その影響力を高めていきました。
利休は、秀吉の茶頭として秀吉が関わる全ての茶会のプロデュース(禁裏茶会・禁中茶会・北大茶会…)黄金の茶室の設計など、お茶に関することはほぼ全て利休のプロデュースです。
また、プロデュースだけでなく戦国大名たちにお茶を指導していました。
利休に師事した戦国大名は数多く、その中でも「前田利長まえだとしなが」「蒲生氏郷がもううじさと」「細川忠興ほそかわただおき」「古田織部ふるたおりべ」「牧村兵部まきむらひょうぶ」「高山右近たかやまうこん」「芝山宗綱しばやまむねつな」は、利休七哲りきゅうしちてつ(利休七人衆)と呼ばれるほど熱心に師事していました。

秀吉の弟 豊臣秀長が、
「公儀のことは私に、内々のことは宗易(利休)に」
と言っていたほどですから、相当な信頼を得ていたことが見受けられます。
利休が多くの戦国大名から慕われ、影響力を増していく姿を見た秀吉は利休を脅威と感じていたのでしょう。

利休が切腹する日、秀吉は利休を師事する戦国大名たちが、利休を奪還しにくるかもしれない!と上杉景勝うえすぎかげかつに命じて、約3,000の兵士を配置し取り囲んだと言われています。

秀吉との意見の相違が原因?

利休が確立させた「侘茶」は、禅の精神「わびさび」の要素が非常に大きく、余計なものを一切排除した美を追求しています。
一方、秀吉は黄金の茶室を設計させるなど、豪華絢爛なものを好んでいたと伺えます。
侘茶、黒楽に代表される利休のシンプルな美、黄金の茶室に代表される秀吉の豪華絢爛な美は対極にあります。

そのため、政治にも口を出せるほどの影響力を持っていた利休は、秀吉とたびたび意見の相違があったといいます。

百姓の身分から信長に見出され、関白にまで成り上がった秀吉はプライドも高かったことでしょう。利休との意見の相違がストレスとなり、積もり積もって利休に切腹を命じたという説があります。
利休切腹の理由は、「大徳寺の木像」「茶器の高価売買」が有力な説と言われていますが、秀吉と利休のすれ違いなど人間的な感情が大きかったのではないでしょうか?

茶聖「千利休」最後の名言

秀吉から切腹を命じられた利休。利休の弟子だった古田織部や細川忠興をはじめとして、様々な戦国大名たちが、切腹を取り下げてもらうよう奔走しましたが、利休の切腹を止めることはできませんでした。

利休の最後の言葉は、侘茶を確立し茶聖と言われた利休の言葉とは思えないほど勇しいものです。

【利休の最後の言葉】
「人生七十 力囲希咄 吾這寶剣 祖佛共殺 提ル我得具足の一ッ太刀 今此時ぞ天に抛」
訳:人生70年、えいっやぁ!俺のこの宝剣で祖仏ともに殺す!我が必殺の一太刀で、今この時我が命を天に解き放つ!


この最後の言葉を言い放つと、利休は妻の見守る前で切腹しました。
茶人で、四規七則を体現し続けた、穏やかなイメージの千利休、その裏にはこの最後の言葉に表される、勇ましい人格が隠されていたのでしょうか?
千利休と田中与四郎、茶人と商人という二面性を持ち合わせていたのかもしれませんね。

千利休が最後まで大切にした侘茶の精神

千利休は、最後まで茶聖として侘茶の精神を大切にしていました。
秀吉から切腹を命じられても動じることなく、潔くそれを受け入れました。
利休の切腹を見届けにきた、秀吉の家臣を茶の間に迎え入れ、穏やかに
「お茶の支度ができております」
と、お茶を出したといいます。
これが、利休が最後に入れたお茶です。
そして見届け人がお茶を飲み終わると、最後の言葉を言い放ち、妻も見守る中切腹をしました。一説によると、利休はお湯の沸く音を聞きながら絶命したといわれています。
その命尽きるまで、お茶を愛し侘茶の精神を大切にしていたのです。
自分の切腹を見届けにきた者に、穏やかにお茶を出すなんてなかなかできないですよね。
一人の男として、茶聖と呼ばれる男の生き様を感じます。

まとめ:千利休の切腹。秀吉が切腹を命じたのはなぜか?

侘茶を確立させ、茶聖と呼ばれた千利休は、最後まで潔く男らしい人物でした。利休が秀吉に切腹を命じられた理由は、

  • 利休の木像が、秀吉も通る門に安置されていた(秀吉の頭を踏みつけていた)
  • 茶器を高値で売買していた
  • 娘を秀吉と結婚させなかった
  • 利休の影響力が強くなりすぎたことに、秀吉が脅威を感じた
  • 秀吉との意見の相違が多くなった

何が決定的な理由で、秀吉は切腹を命じたのか真相は不明ですが、戦国時代にお茶を大きな文化へと引き揚げた千利休は、切腹という形でその生涯を終えました。
千利休を知れば知る程、戦国時代がどのようなものだったのかが垣間見れますね。

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