柴田勝家とお市の方の仲は?子供はいたの?二人の最後の姿まで簡単に解説!
柴田勝家は、戦国時代に織田信長の家臣として活躍し、鬼柴田とも呼ばれた戦国武将です。
織田信長の没後、信長の妹であるお市の方と結婚したことでも有名です。
今回は、そんな柴田勝家とお市の方の仲はどうだったのか?二人が結婚するまでの経緯や、最後の姿を簡単にご紹介します。
目次
柴田勝家とお市の方
1582年(天正10年)に柴田勝家とお市の方が結婚をします。
その時、お市の方は36歳、柴田勝家は61歳だったといわれています。
お市の方は二度目の結婚でした。一度目の結婚は、浅井長政としています。
一方、柴田勝家は初婚であったといわれています。
【お市の方のプロフィール】
お市の方:1547年(天文16年)〜1583年6月14日(天正11年4月24日):享年37歳
父:織田信秀(おだのぶひで)
母:土田御前(どたごぜん/つちだごぜん)
夫:浅井長政(あざい ながまさ)、柴田勝家(しばた かついえ)
子供:茶々、初、江
性格:兄の織田信長から「男であれば良い武将になれた」と言われるほどの男勝りな性格をしていた
【柴田勝家のプロフィール】
柴田勝家:1522年頃(大永2年頃)〜1583年6月14日(天正11年4月24日):享年62歳
父:不明
母:不明
妻:お市の方
子供:実子はいない
性格:真面目で温情深い性格だった
お市の方は、柴田勝家とは2度目の結婚
お市の方は36歳の時、柴田勝家と結婚をしました。
この結婚はお市の方にとって初めての結婚ではありませんでした。お市の方は20歳頃から27歳まで、浅井長政と結婚していたのです。
夫の浅井長政が戦いに敗れて自害すると、お市の方と3人の娘は、兄の織田信長に引き取られました。
織田家の庇護下で9年間の月日を過ごしていたお市の方でしたが、織田信長が本能寺の変で討たれたことにより、柴田勝家と結婚することになったのでした。
【お市の方が柴田勝家と結婚するまでの流れ】
- 1567年(永禄10年)
織田信長の指示で浅井長政と結婚する。 - 1573年(天正元年)
織田信長と浅井長政が対立し、敗れた浅井長政が自害。お市の方と娘たちは織田信長に引き取られる。 - 1582年(天正10年)
織田信長が本能寺の変で亡くなる。織田家の今後を話し合われた会議「清須会議」で柴田勝家との再婚が決められる。
柴田勝家はお市の方と初婚だった?
お市の方と結婚した時、柴田勝家は61歳だったといわれています。
高齢結婚といってよい年齢ですよね。
柴田勝家は、お市の方との結婚以前に、妻や子供がいた記録は確認できていません。
そのため、柴田勝家はお市の方との結婚が初婚だったと言ってもよいかもしれません。
しかしながら、複数の妻を持つのが当たり前だった時代ですので、記録には残っていない柴田勝家の妻がいてもおかしくはないと思われます。
柴田勝家とお市の方はなぜ結婚したのか?
柴田勝家とお市の方の結婚は、織田信長の家臣たちによって決められたと言われています。
織田信長が本能寺の変で亡くなると、織田信長の家臣たちは、織田氏の跡継ぎや領地再分配を決める「清洲会議」を行いました。
この清洲会議で、お市と柴田勝家の結婚が決まったといわれています。
その際、羽柴秀吉が「自分は織田家を乗っ取るような野心はない」ということを示す手段として、重臣の柴田勝家と織田信長の妹との結婚を提示したというのです。
柴田勝家とお市の方は仲が良かった?
柴田勝家とお市の方の夫婦の仲は悪くなかったようです。
特に柴田勝家は、お市の方と娘たち(茶々、初、江)をとても大事に扱っていたといわれています。
お市の方も、柴田勝家が羽柴秀吉と対立し敗れた際、娘たちだけを逃がし、自分は夫の柴田勝家と最後を共にしています。最後まで柴田勝家の妻であるとしていたように感じられます。
柴田勝家とお市の方には子供がいた?
柴田勝家とお市の方には子供がいたのでしょうか。
柴田勝家とお市の方の結婚期間は、わずか1年にも満たないものでした。
そのため、柴田勝家とお市の方の間に産まれた子供はいませんでしたが、お市が連れてきた三人の娘たち(茶々、初、江)を、柴田勝家は非常に可愛がっていたそうです。
柴田勝家とお市の方の最後の姿
1583年(天正11年)に柴田勝家とお市の方は、柴田勝家の居城であった越前北ノ庄城で自害し、生涯を閉じます。二人が結婚して、わずか6か月後のことでした。
なぜ、二人は自害することになったのでしょうか。
柴田勝家は織田信長が亡くなった後、羽柴秀吉との対立を深めていきます。
柴田勝家と羽柴秀吉の対立は、織田勢力を二分する激しい戦い「賤ヶ岳の戦い」に発展していきます。賤ヶ岳の戦いで勝利したのは、羽柴秀吉の軍勢でした。
敗北した柴田勝家は、居城である越前北ノ庄城に帰城します。しかし、羽柴秀吉軍に北ノ庄城も包囲されてしまい、柴田勝家とお市の方は生涯を終えることとなったのでした。
柴田勝家とお市の方の辞世の句
柴田勝家とお市の方が詠んだとされる辞世の句が残されています。二人の句は連句となっています。
【お市の方の辞世の句】
さらぬだに 打ちぬる程も 夏の夜に 別れを誘う ほととぎすかな
現代訳:
それでなくても短い夏の夜が終わってしまいました。ほととぎすが誘うからそろそろお別れをしなくてはいけません。
柴田勝家の辞世の句は、この句に対するものとなっています。
【柴田勝家の辞世の句】
夏の夜の 夢路はかなき 跡の名を 雲井にあげよ 山郭公 (やまほととぎす)
現代訳:
夏の夜のように儚い生涯ではあったが、我らが生きた証として、この名を高めてくれ。ほととぎすよ。
和歌の名手だった柴田勝家の家臣「中村文荷斎」は二人の句に心を打たれ、さらに下の句を詠んだといわれています。
おもうどち 打つれつつも 行道の しるべやしでの 山ほととぎす
現代訳:
黄泉の国へと旅立つお二人には、きっと、ほととぎすが道しるべとなってくれますよ
「ほととぎす」は、血を吐いてでも鳴き続けるとされる程の激しい鳴き声であることから、「懸命な生き様」の意味を含んでいるようです。また、夏に渡来し秋に去っていく渡り鳥であることから、「黄泉の国へと導く鳥」としての意味合いも持っています。
ほととぎすの和歌における意味合いを感じたうえで、一連の辞世の句をみると、更に味わい深くなりますよね。
柴田勝家とお市の方は、なぜ自害したのか?
柴田勝家は羽柴秀吉と対立し、賤ヶ岳の戦いで敗れました。
柴田勝家の居城である越前北ノ庄城に帰城するも、羽柴秀吉軍に北ノ庄城も包囲され、逃げ道はなかったため、柴田勝家とお市の方は自害をしたのだと考えられています。
柴田勝家とお市の方は、秀吉と仲が悪かった?
柴田勝家とお市の方は、羽柴秀吉と対立したことで、生涯を終えることになりました。
柴田勝家やお市の方と、羽柴秀吉は仲が悪かったのでしょうか?
柴田勝家と羽柴秀吉は、ともに織田信長の家臣でした。
古くから織田家を支えていた柴田勝家と、百姓出身の羽柴秀吉とでは、最初は大きな立場の差があったようです。
当時の羽柴秀吉にとっては、柴田勝家は尊敬する存在でした。
羽柴秀吉の「羽柴」という名前は、丹羽長秀の「羽」と、柴田勝家の「柴」を一文字ずつ貰い、「羽柴」としたといわれています。
そんな柴田勝家と羽柴秀吉が、本格的に対立する切掛けとなったのは、本能寺の変で織田信長が亡くなった後におこなわれた「清州会議」でした。
清須会議でのメインの議題は、「織田信長の後継ぎの決定」と「織田信長の領地の分配」でした。
会議の結果はどちらの議題でも、羽柴秀吉の主張が通ることになります。
こうして、清須会議の結果、これまで家老の筆頭として強い発言力を有していた柴田勝家の影響力は低下し、羽柴秀吉が実質的な筆頭になってしまったのです。
柴田勝家やお市の方と羽柴秀吉との間に性格の不一致があったかは現存する資料では確認できていませんが、最終的には両者の立場が対立してしまったことは間違いないといえるでしょう。
まとめ:柴田勝家とお市の方は、最後を共にするほど仲が良かった
柴田勝家とお市の方は、最後を共にするほど仲がよかったことがわかりました。
この内容をまとめると、
- 柴田勝家とお市の方の結婚は、お市の方は2度目の結婚で柴田勝家は初婚だった。
- 柴田勝家とお市の方の二人の間には、子どもはいなかった。
- 柴田勝家とお市の方は、連句の辞世の句を詠み最後を共にするほど仲がよかった。
織田信長の没後、会議によって結婚が決められたといわれる柴田勝家とお市の方。
二人の結婚生活は、1年にも満たないものでしたが、二人の連句となる辞世の句は、悲しいものでもあり、とてもロマンチックだなと感じました。