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井伊直虎の家系図を簡単に解説!子孫は現在まで続いてる?井伊直弼との関係は?

井伊直虎(不詳〜1582(天正10))は、戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した遠江井伊谷の領主です。2017年の大河ドラマ「おんな城主 直虎」で、柴咲コウさんが演じられたことでも有名です。

戦国時代という、多くの戦国大名がひしめく戦乱の世において、女性でありながら領主を立派に勤め上げた直虎の子孫はどうなったのでしょうか?

この記事では、井伊直虎の家系図を見ながら、その子孫について簡単に解説していきます。

井伊直虎の家系図をわかりやすく解説!

井伊直虎の家系図

井伊直虎の家族構成

【井伊直虎のプロフィール】

井伊直虎(いいなおとら)(別名:次郎法師):不詳〜1582(天正10)享年:不明
父:井伊直盛
母:祐椿尼

井伊直虎は、遠江井伊谷城主・井伊直盛と祐椿尼の娘として誕生しました。

生年は詳しくはわかっていないのですが、没年と推定の没年齢からおそらく天文年間(1532〜1555)の始め頃ではないかと言われています。ちなみに、あの有名な織田信長の生まれが天文3年生まれなので、井伊直虎は織田信長とほぼ同世代ということになりますね。

井伊直虎には許婚がいましたが、その話がなくなってしまい、出家してしまったため、生涯結婚することはありませんでした。
当然、結婚していなかったので、子供もいません。
しかし、晩年は井伊家存続のために、井伊直政の後見人となり、女領主として井伊家を支えました。

許婚に先立たれたと思い龍潭寺にて出家した?

井伊直虎には男の兄弟がいませんでした。
そのため、父の直盛は、直虎が幼い頃から従弟の井伊直親を許婚とし、家督を継がせる予定でした。

しかし、直親の父である直満が家臣によって陥れられ、主君だった今川義元への謀反の疑いをかけられてしまいます。
そして、直満はそのまま義元の手によって殺されてしまい、息子の直親も命を狙われてしまうのです。

そこで、直親は信州に身を隠すことになり、行方不明となりました。
井伊家では、直親の命を守るために、生死も所在地も秘密とされていました。

井伊直虎にも真実は隠されていて、直虎は直親が亡くなってしまったと考えます。

深い失意に包まれた直虎は、龍潭寺にて出家し、次郎法師と名乗るようになるのです。

ちなみにその10年後に直親が井伊家に戻ってくるのですが、その頃には直親には正室・奥山ひよがいたのでした。亡くなったと思っていた許婚が生きていたと思ったら、妻を連れて帰ってくるのですから、井伊直虎の悲しみは計り知れませんね。

井伊直虎の子孫は現在も続いている?

女領主として立派に井伊家を支えた井伊直虎。そんな彼女の子孫は現在まで続いているのでしょうか?ここでは、井伊直虎の子孫について簡単に解説していきます。

井伊直虎の直系の子孫はいない?

直虎には許婚がいましたが、幼い頃に許婚が亡くなったと勘違いし、出家してしまったため、その生涯誰とも結婚することはありませんでした。
そのため、子供もできず、井伊直虎の直系の子孫はいなかったということになります。

元許婚の子・直政を育てた?

許婚が亡くなってしまったと思い、出家した井伊直虎ですが、そんな彼女に転機が訪れます。

1560年(永禄3年)に父・直盛が戦死。
さらに、元許婚の直親も今川氏によって殺されてしまい、その後も次々と井伊家の重要な人物達が亡くなっていってしまいます。

この井伊家存続の危機に際して、家督を継承できる男子はまだ2歳の虎松(のちの井伊直政)ただ一人のみでした。
そこで、直虎は龍潭寺の南渓和尚を後見人として還俗し、井伊家当主となることによって井伊家を救うことにしたのです。
つまり、井伊直政が成長するまでの中継ぎ役を、井伊直虎は請け負ったということですね。

そうして、井伊直虎は密かに直政を養子として育てていくのです。

井伊家の子孫には井伊直弼も?

井伊直虎に子供はできなかったため、直虎の血筋は途絶えています。

しかし、養子として育てた直政が成長し、井伊家はそのまま続いていくことになります。

その子孫には、桜田門外の変(1860)で有名な井伊直弼もいます。

ちなみに、井伊家は直弼に至るまでに、江戸幕府における大老を5名も輩出しています。
それほどまでに、井伊家は徳川政権下において高い地位にあり、譜代大名の筆頭と呼ばれていたくらいでした。

【井伊家から選出された五大老】

  • 直澄:近江彦根藩第3代藩主 
    大老期間:1668(寛文8)〜1676(延宝4) 
  • 直興:近江彦根藩第4代藩主および第7代藩主
    大老期間:1697(元禄10)〜1700(元禄13)/1711(正徳元年)〜1714(正徳4)
  • 直幸:近江彦根藩第12代藩主
    大老期間:1784(天明4)〜1787(天明7)
  • 直亮:近江彦根藩第14代藩主 
    大老期間:1835(天保6)〜1841(天保12)
  • 直弼:近江彦根藩第15代藩主 
    大老期間:1858(安政5)〜1860(安政7)

井伊家の現在の子孫は彦根市の公務員?

井伊直虎が育てた、井伊直政から続く井伊家は現在までその子孫が続いています。

現在の当主は、第18代目となる井伊岳夫さんです。
岳夫さんは、井伊家当主として活動する際には、井伊家の通字である「直」の字を使って、井伊直岳と名乗っていらっしゃるそうです。

ちなみに、直岳さんは彦根城博物館の館長を務められていて、現在は彦根市教育委員会に勤務している現役の公務員さんです。

井伊直虎が井伊家存続のためにしたことは?

この時代では珍しい女領主として井伊家を支えた井伊直虎ですが、領主として様々なことを行っています。ここでは、直虎が井伊家存続のためにしたことを簡単に解説していきます。

井伊直虎は財政難をその手腕で乗り切った?

井伊直虎が女領主となって最初に直面したのが、徳政令問題でした。

当時、飢饉で困窮していた農民は、徳政令による借金の帳消しを要求していました。
それに加えて主君であった今川氏からも徳政を行うようにと指示が来ていたのです。

しかし、徳政を実行すると、井伊家は経済的に立ち行かなくなり、存続させることが厳しくなってしまいます。だからといって徳政を無視すると、今度は今川家や領地の農民を敵に回すことになってしまうという、八方塞がりの状況になっていました。

そこで井伊直虎は、金融業も営んでいた龍潭寺や、懇意にしている商人たちに徳政の減免や免除を約束した上で、資金調達を命令します。
そして、その一方で、今川家には色々と理由をつけて時間稼ぎを行っていきました。

こうして、井伊家の財政を守るための入念な準備をし、その後に徳政を行うことによって、井伊家存続の危機を脱することに成功したのです。

井伊直虎が井伊直政を徳川家康に士官させた?

井伊直虎が井伊家存続のためにしたことで大きなことは、井伊直政を徳川家康に士官させたということが挙げられます。

井伊直虎は、直政が14歳になったときに武士として十分な年齢になったと判断します。

そして、周りと相談した結果、当時勢力を拡大していた徳川家に士官させることを決断をしたのです。

徳川家康は、直政が直親の実子であることを知り、
「井伊直親の子であるならば、召し抱えないわけにはいかぬであろう」
と語り、直政を小姓として迎え入れました。

そこから、直政は徳川家康の家臣として目を見張るほどの活躍をしていきます。

それは、「徳川四天王」「井伊の赤鬼」の異名で呼ばれていたことからも伺えます。

ここで、直政が活躍し貢献したことにより、江戸時代井伊家は譜代大名として生き残っていくことになるのです。

つまり、井伊直虎が直政を家康と引き合わせたことが、井伊家を存続させるきっかけとなったというわけです。

まとめ:井伊直虎の直系の子孫は途絶えてしまったが、井伊家は現在まで続いている

井伊直虎はその生涯誰とも結婚することがなく、子供も授かることがありませんでした。

そのため、井伊直虎の直系の子孫は途絶えています。
しかし、元許婚の子である直政を通して、井伊家自体は現在まで続いています。

今回の内容をまとめると、

  • 井伊直虎は兄弟がおらず一人っ子であった
  • 家督を継がせるために、従弟の直親が許婚となっていた
  • 井伊直虎は、直親が亡くなったと誤解し、出家してしまった
  • 井伊直虎は、生涯誰とも結婚することはなく、子供も授からなかった
  • 直政が大きくなるまで、当主代行として井伊家を支えた

戦乱の世において、自分一人しか跡継ぎがいないとなっては相当なプレッシャーがあったと考えられます。しかし、出家して子供を諦めてしまったというところから、許嫁だった直親を失った井伊直虎の深い悲しみが伺えますね。

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