尊皇攘夷運動とは?簡単に解説!中心人物は?いつ、なぜおきた?その後の影響は?
尊皇攘夷運動とは、江戸時代末期に行われた反幕府運動のことです。
約260年間も続いた徳川将軍家による江戸幕府が終りを迎え、明治時代が始まる際に大きく影響を与えました。
そんな尊王攘夷運動とは、なぜ起きたのでしょうか?
また中心人物は誰だったのでしょうか?
この記事では、尊王攘夷運動とは何かを簡単に解説していきます。
目次
尊皇攘夷運動とは?
尊王攘夷運動は、江戸幕府を倒幕に追い込み、新しい時代を開くのに大きく貢献しました。
そんな尊王攘夷運動は、いつからどんなきっかけで始まったのでしょうか?
ここでは、尊王攘夷運動とは何かを簡単に解説していきます。
「尊皇攘夷」の意味とは?
そもそも「尊王攘夷」という言葉の意味はどのようなものでしょうか?
この言葉は、「尊王」と「攘夷」という2つに分けることができます。
尊王:天皇を尊敬する、天皇を守る
攘夷:外敵を武力で打ち払う
つまり、尊皇攘夷とは、「天皇を敬い、外国人を日本から追い払う」という意味になります。
尊王攘夷運動はいつから?きっかけは何?
尊王攘夷運動は、幕末に活性化しました。
そのきっかけは、1853年(嘉永6年)に浦賀に黒船に乗ってやってきたペリーです。この黒船の技術は、当時の日本の人々に大きな衝撃を与えました。
そして、この影響で長く続いた鎖国体制が終わりを迎え、開国になるのです。
外国のことをよく知らない人々は、外国に対して怯えを覚え、日本に入れたくないという思いから攘夷運動が起こってきます。
さらに、開国した江戸幕府は、日米修好通商条約という日本に不利な条約を結んでしまいます。
日米修好通商条約:
アメリカ公使の江戸駐在、江戸・大坂の開市、神奈川ほか4港の開港、自由貿易、治外法権、関税自主権の喪失などが条約によって結ばれました。なお、幕府はこの後、アメリカに続き、イギリス、フランス、ロシア、オランダ諸国とも同様の条約を結びました。(安政の五カ国条約)
そのせいで、日本の産業は打撃を受けたり、外国人が日本国内で犯罪をしまくったりとひどい状況になってしまいました。
当時の人々は、なぜこんなひどい状況になってしまったのかを考えた結果、幕府が天皇の許可もとらずに勝手に外国と条約を結んだからだという結論にたどり着きます。
つまり、天皇をないがしろにしたため、日本の社会が混乱したのだと考えたわけですね。こうして起こったのが尊王運動です。
外国の脅威に怯え、幕府への不満を覚えた人々は、尊王攘夷運動をすることによって、自分たちの不安を取り除こうとしたわけですね。
尊皇攘夷と公武合体の違いは?
尊皇攘夷という言葉と一緒によく出てくる言葉として「公武合体」というものがあります。
それぞれが何を目的としているのかを簡単に解説していきます。
尊王攘夷は、
「天皇を敬い、外国人を日本から追い払う」ということが目的となります。
つまり、一番敬うべきは天皇であり、最高権力を持とうとする幕府は邪魔なわけです。
一方で、公武合体は、
「公家(天皇のいる朝廷)と武家(江戸幕府)が一丸となって難局を乗り切ろう」とすることを目的としています。
つまり、天皇と幕府は対等な関係だとしています。
この公武合体は、弱体化した江戸幕府が、政権を維持をするために天皇の力を借りようとした策となっているのです。
このように、2つの思想は、全く違うものなのですが、尊皇攘夷が主流の風潮の中、一時的に公武合体は成功したこともありました。
それは、第14代将軍・徳川家茂と孝明天皇の妹・和宮の結婚です。
婚姻によって、お互いの結びつきを強めようとしたわけですね。
しかし、この天皇の妹を盾に幕府の強化を図ろうとした政策は、尊皇攘夷派の激しい怒りを買います。
そして、公武合体を唱えていた中心人物・安藤信正は暗殺されかけます。
これを機に安藤信正は老中を辞任し、公武合体運動は立ち消えとなってしまうのでした。
尊皇攘夷運動の中心人物とは?
尊王攘夷運動には、1つの時代を終わらせるだけの力がありましたから、当然のように多くの人物が関わっています。
それでは、その中心人物とは誰だったのでしょうか?
ここでは、尊王攘夷運動の中心人物を簡単に解説していきます。
尊王攘夷の中心人物「吉田松陰」
吉田松陰は、伊藤博文や山県有朋など、明治維新にて活躍した人材を「松下村塾」にて多く育てた人物として知られています。
若い頃から学問に励み、世間を広く見聞していた松陰は、西洋列強の軍事力を知ると危機感を募らせます。
そして、今のままの日本ではだめだと考え、外国へと留学することを決意しましたが、そのやり方がよくありませんでした。
なんと二度も密航をしようとしたのです。
密航は失敗し、松陰は長州に戻され、幽閉生活を強いられることになります。その際に開いたのが「松下村塾」でした。
そこで、若い藩士たちを育てたのです。
その後、松陰は江戸幕府が日米修好通商条約という不利な条約を結んだことを知り、それに腹を立て、老中・間部詮勝の襲撃を企てます。
しかし、この頃、大老・井伊直弼による安政の大獄が猛威を奮っていました。
そして、攘夷運動の先駆者・梅田雲浜が捕縛されると、直前に面会していた松陰にも疑いの目が向けられ、江戸へ護送されてしまいます。
梅田雲浜の参考人として取り調べを受けていた松陰でしたが、幕府に対して腹を立てていたため、こともあろうに幕臣の前で幕府批判を展開し、さらには問われてもいない老中襲撃計画まで暴露してしまうのです。
当然のように、裁定は死罪となり、わずか享年29歳でこの世を去ることになります。
このように、自分の信念のためならば後先考えずに突っ走ってしまうところがある人物でしたが、日本の未来を常に考えており、尊皇攘夷思想に大きな影響を与えた教育者として広く知られることになりました。
尊王攘夷の中心人物「坂本龍馬」
坂本龍馬は、尊王攘夷運動が高まる中、多くの人と交流し、攘夷論を超えた国際的視野に立つ、日本の未来像を描いた人物です。
勝海舟のもとで航海術を学び、貿易や海運業を通じて広い視野を持つようになった龍馬は、「船中八策」という日本の未来像を具体的に示したものを著します。
船中八策には、憲法の制定や議会の設置、平和的外交、貨幣制度の整備など、当時としては画期的なアイディアが詰め込まれていました。
中でも、船中八策の中で示された「大政奉還」は、土佐藩を通じて時の将軍・徳川慶喜に提案され、江戸幕府消滅のきっかけとなりました。
周りが尊皇攘夷で争っている中、日本の未来のことを真剣に考え、極力争わない道を示してくれたのが坂本龍馬でした。
もし、坂本龍馬がいなかったら、国内で戦いが起こり、その隙に外国が日本に攻め込み、占領されていたかもしれません。尊皇攘夷しか頭になかった幕末志士たちに、大きく影響を与えた人物となりました。
尊王攘夷の中心人物「新選組」
幕末と聞くと、この「新選組」を思い浮かべる人も多いのではないでしょうか?
この新選組は、尊皇攘夷派の浪人を幕府側に取り込むために組織された「浪士組」が始まりでした。
そこに、後の局長となる近藤勇や副長となる土方歳三といった農民出身の剣士が加わり、攘夷志士を取り締まる武装警察として活躍していくことになるわけです。
特に局長・近藤勇は、武士に取り立ててくれた幕府に深い恩義を感じており、強い忠誠心を持っていたと言われています。そのため、倒幕を企てていた攘夷志士の取締も、自然と非常に厳しい姿勢になっていたようです。
尊王攘夷運動において、最大の敵だったと言っても過言ではないでしょう。
尊皇攘夷運動の影響は?
尊王攘夷運動は、弱体化した江戸幕府への不満が原因で起こりました。
そのため、この運動が与えた影響というのは、非常に大きなものでした。
ここでは、尊王攘夷運動が与えた影響について簡単に解説していきます。
討幕運動が盛んになった
ずっと鎖国を続けてきた日本人たちは世界の情勢を知らないため、
ペリー来航時「日本は最強だからアメリカやイギリスと戦争しても絶対勝てる」と考えている人がほとんどでした。
しかし、実際は、当時最強国・イギリスはもちろんのこと、弱小国であったアメリカにすら勝てないほど日本は弱体化していました。
幕府はそのことを理解していたため、なんとか外国との戦争を回避しようと、不利な条約を結ぶことすら良しとしていたのです。
ところが、当時のほとんどの日本人は、日本は最強と考えており、攘夷は可能だと思っていましたから、幕府の弱腰な対応に不満を募らせます。
特に長州藩のような有力な藩は、朝廷を動かし、幕府に攘夷の実行を迫るなどしていました。しかし、幕府は攘夷を実行しません。
「それでは代わりに攘夷を実行してやる」と動いたのが、長州藩と薩摩藩です。
この2藩は、独自に攘夷を掲げ、長州は下関戦争を、薩摩は薩英戦争を起こし、それぞれ外国と戦うことにします。
結果は、当然のごとく惨敗。この体験により、薩長は攘夷が不可能であるということを身を持って思い知るのです。
そして、攘夷から開国へと思想を転換していきます。
外国の技術などをどんどん取り入れて日本を強くしていこうと考えたわけですね。
しかし、ここで再び問題が発覚します。
開国し、再び日本が力をつけていくためには、江戸幕府の存在が邪魔になってくるのです。
再び力をつけたいにもかかわらず、当時の幕府は外国に怯えるあまり、次々と日本に不利な要求を受け入れてしまっていました。
このままでは、外国に植民地化されるのも時間の問題です。
また、欧米列強に対抗するためには、日本を中央集権国家に改変する必要もありました。
それにするには、分権的な幕藩体制では難しかったのです。
さらに、近代的な軍隊ではないと欧米列強の侵略に対抗することができないのですが、それにするには武士階級の解体が必須でした。
以上の観点から、幕府に今まで通りいてもらっては困るということになり、倒幕運動が盛んになっていったのです。
天皇を中心とする政治に戻った
倒幕運動に対して時の将軍・徳川慶喜は、大政奉還を決意します。
これにより幕府が持っていた政権は、朝廷に返りましたが、この時点では、まだ徳川家は全国の3分の1の石高を所有しており、まだまだ政治に介入できると考えていたわけです。
また、倒幕を目標として動いていた倒幕派の目標を無くすという目的もありました。
案の定目標のものが突然なくなり、倒幕派は矛を収める先がなくなり困惑し、結果として倒幕派は「王政復古の大号令」を出し、持っている土地もすべて差し出すように徳川家に迫りました。
これには徳川家も我慢することができず、戊辰戦争が始まってしまいます。
戊辰戦争の結果は、新型軍備を固めていた薩長同盟の勝利に終わります。
そして徳川家の治世が完全に終わりを迎えるのです。
こうして、再び天皇を中心とした政治へと戻るのでした。
攘夷も成功した
尊王攘夷運動の尊王の部分は、天皇を中心とする明治政府ができたことにより成功しました。
それでは、攘夷の部分はどうなったのでしょうか?
結論から言うと、こちらも成功したと言っても過言ではない結果が出ています。
その根拠としては3点挙げられます。
【攘夷も成功したと考えられる理由】
・治外法権の撤廃
日米修好通商条約によって結ばされた不平等条約の1つが治外法権です。
これによって、日本で外国人が犯罪を犯しまくるというひどい状況が生まれてしまいました。
しかし、1894年に結んだ日英通商航海条約により、初めて撤廃されることになります。
さらに、日米通商航海条約が発効されたことにより、失効しました。
・日露戦争
満州、朝鮮に進出しようとするロシアに対し、日本は祖国防衛戦争に挑みます。
ロシアという大国との戦争でしたが、日本は戦略や戦術を駆使し、陸軍では五分の戦いに持ち込み、海軍では完全勝利を果たします。
アジアの小国だと思われていた日本が、大国ロシアとの戦争に勝利したことは、世界に衝撃を与えました。そして、日本が世界の列強と肩を並べることになるのです。
・関税自主権の回復
関税自主権の撤廃も、日米修好通商条約によって結ばされた不平等条約の1つです。
そして、こちらは日清・日露両戦争の勝利と、産業資本の確立を踏まえて、外相・小村寿太郎の努力により回復することに成功します。
これにより、欧米列強との上下関係がなくなりました。
以上のように、日本は欧米列強に「日本」という国を認めさせ、世界の仲間入りを果たしたのです。
これは、実質攘夷に成功したと言っても過言ではないでしょう。
まとめ:尊王攘夷運動は、弱体化した江戸幕府を倒し、新しい時代を作った
尊王攘夷運動は、弱体化した江戸幕府に不満を持ったり、突然やってきた外国への不安を覚えたりした人々によって、広く行われることになりました。そして、それが広まった結果、江戸幕府は倒幕され、新しく天皇を中心とする明治政府が誕生しました。
今回の内容をまとめると、
- 黒船に乗ってやってきたペリーは、当時の人々の心に良くも悪くも大きな衝撃を与えた
- 江戸幕府は外国には勝てないとして弱気な外交を行った
- このままでは外国に日本が占領されてしまうと危機感を持った人々が、尊王攘夷運動を開始する
- 尊王攘夷運動が起きた結果、江戸幕府は倒幕される
- その後、天皇を中心とする明治政府が誕生し、欧米列強の仲間入りをしていく
尊王攘夷運動がなければ、日本はそのまま外国に占領されてしまっていたかもしれません。
そうなっていれば、今を生きる私達の生活も全く違ったものになっていたことでしょう。
今の生活があるのは、この時に頑張ってくれた人たちがいたからかもしれませんね。