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聖武天皇が大仏を作った理由は?行基も協力していた?作った後はどうなった?

聖武天皇(701年(大宝元年)〜756年(天平勝宝8年))は、奈良時代に活躍した第45代天皇です。

仏教を深く信仰していたため、全国に国分寺や国分尼寺を建立したり、東大寺の大仏を建立したりしたことでも知られています。

そんな聖武天皇はなぜ大仏を作ろうと思ったのでしょうか?

また、出来上がった大仏はその後、どのようになっていったのでしょうか?

この記事では、聖武天皇が大仏を作った理由などを簡単に解説していきます。

聖武天皇は鎮護国家を願って大仏造立の詔を出した

聖武天皇の治世では、立て続けに飢饉や病気の流行が起きたり、政治情勢もあまりよくありませんでした。

そして、当時は災いなどが起きると、為政者のせいにされる風潮があったのです。

聖武天皇も例に漏れず、立て続けに起こる飢饉や病気の流行は、自身の責任であると考えました。

どうしたらよいのかと悩む中、光明皇后の勧めもあり、仏教に解決を求めます。

光明皇后自身も、篤い仏教信者だったのです。

仏教に帰依することにより国の安泰を願う、それが聖武天皇にできる唯一のことだったのかもしれません。

そして、鎮護国家を目指した聖武天皇が行ったことの内の1つが、大仏造立の詔を出すことでした。

大仏は、奈良の東大寺に作られることになるのですが、ここを社会の安寧を願い、祈る場所としたのです。

大仏造立は、国家を上げた一大プロジェクトとなり、聖武天皇自身も民衆とともに作業を行ったようで、いかにこの事業へ積極的に取り組んでいたのかが伺えます。

東大寺の大仏を造るのに行基も関わっていた

聖武天皇は、大仏造立に際し鎮護国家を目的にしていましたが、もう1つ大事な目的がありました。

それは、民衆の想いを1つにすることです。

あるとき、聖武天皇は、大阪にある智識寺の盧遮那仏を拝みました。

その際、このお寺が、民衆が資金や材料、労力を出し合って作られたものだと知り、非常に感銘を受けたのです。

これがきっかけで、聖武天皇は「民衆の協力で大仏を作りたい」と考えるようになりました。

聖武天皇自身が、富や権力を使って作るのは簡単ですが、それでは形だけの仏像となってしまい、世の中をいっそう不安定にしてしまうと思ったのです。

みんなで作ることによって、民衆の想いを1つにしようと試みました。

しかし、世の中は不安定な状態で、その元凶である聖武天皇に進んで協力しようという民衆はなかなかいません。

そこで白羽の矢が立てられたのが、行基でした。

行基は、当時、各地で民衆へ布教活動をしながら、橋や池などを作って人々を助けており、民衆からの信頼が非常に厚かったのです。

聖武天皇から協力の依頼を受けた行基は、弟子たちを連れ、大仏建立の寄付を集めるために各地を旅するなど、大仏造立における非常に重要な役割を担ってくれました。

こうして、多くの民衆の協力を得ながら、大仏は完成するのです。

東大寺の大仏の大きさなどを簡単に解説

【大仏の大きさ】

座高15m
顔の長さ4.1m
顔の幅3.2m
目の長さ1m
鼻の幅0.9m
鼻の高さ0.5m
口の長さ1.3m
耳の長さ2.5m
手のひらの長さ1.4m
中指の長さ1m
足の長さ(左足)3.7m
ひざの厚さ2.2m
銅座の高さ3m
石座の高さ2.5m

この巨大な大仏に使用された銅は約500t、金は約440kgとの記録が残されています。

当時、大仏を造立していく中で、不安要素はお金。

しかし、良弁らが祈ったところ、奇跡的に陸奥国で黄金の産出が報告されるのです。

聖武天皇は、これを受けて東大寺へと行幸し、

「この黄金は、盧遮那仏や天地の神々がよしとされ、お慈しみなさり祝福なさって産出したもの」

と感謝の詔を出したと言われています。

また、工事に関わった人員は、延べ260万人以上とも言われています。

これは、当時の人口の半分でした。

それほどまでに多くの人々が大仏作りに協力してくれていたのです。

聖武天皇は大仏開眼供養会を盛大に行った

752年(天平勝宝4年)、大仏開眼供養会(大仏様の目に筆で瞳を描いて魂を迎え入れる儀式)が行われました。

この際、中国や朝鮮を始めとする諸外国の珍しい音楽や舞踊などが披露され、当時の東アジアの中では最大級の国際イベントとなったと言われています。

開眼の導師を勤めたのは、インドの高僧・菩提僊那でした。

筆には長い紐が結び付けられ、その先を、聖武太上天皇、光明皇后、孝謙天皇、そして貴族や僧など無数の参列者が握りました。

こうして、共に仏の功徳にあずかったのでした。

東大寺の大仏は何度か修復されて現在に至る

大仏開眼供養会を経て、無事に完成した大仏でしたが、その後何度か壊れています。

まず、855年(斉衡2年)には、大地震により仏頭が落下してしまいます。

次は、1180年(治承4年)に、平重衡の南都焼き討ちにより大仏殿が焼失。

一度は大仏は修復され、大仏殿も再建されたのですが、1567年(永禄10年)に、再び三好・松永による兵火により大仏殿は焼失、大仏も被災してしまいます。

その後、雨ざらしとなっていた大仏は修理され、1692年(元禄5年)には開眼供養が、1709年(宝永6年)には大仏殿の落成を祝う落慶供養が行われました。

明治時代には、神仏分離令が出された結果、南都の諸寺がいずれも衰えてしまい、大仏殿も世間から顧みられず、次第に廃れていきます。

しかし、1973年(昭和48年)から7年かけて行われた昭和の大修理を経て、現在も人気の観光スポットとして残っています。

聖武天皇に関するQ&A

聖武天皇に関するQ&Aを簡単に解説していきます。

  • 聖武天皇は何をした人?
  • 聖武天皇の時期に栄えた文化は?
  • 奈良時代の天皇には誰がいた?
  • 奈良時代の権力争いの変遷は?

聖武天皇は何をした人?

聖武天皇がしたことは、主に3つのことが挙げられます。

  • 全国に国分寺や国分尼寺を建立したこと
  • 東大寺の大仏を建立したこと
  • 墾田永年私財法を出したこと

それぞれ詳しく解説していきます。

・全国に国分寺や国分尼寺を建立したこと

聖武天皇が天皇になってからというもの、天然痘の流行や災害、飢饉が多く、また政治情勢も非常に不安定であったため、聖武天皇は「どうしたら世の中が安定するのだろう」と常に頭を悩ませていました。

場所が悪いのかもしれないと遷都を繰り返してみたものの、あまり効果はありません。

そんな中、聖武天皇は、次第に仏教への帰依を深めていくのです。

そして、仏教による鎮護国家を目指していくこととなります。

その政策の一歩として掲げられたのが、全国に国分寺や国分尼寺を建てることです。

各寺院には、四天王による御加護が得られる金光明最勝王経が安置されました。

こうすることにより、全国民の仏教への信仰を深めようとしたのです。

・東大寺の大仏を建立したこと

鎮護国家を目指してしたことは、国分寺・国分尼寺の建立だけではありません。

次にしたことは、大仏の造立です。

国家を上げた一大プロジェクトとなった大仏の造立ですが、これを作ることにより、社会の安寧を願い、祈る場所としました。

大仏の大きさは天平当時で15m以上であり、その大仏を納める大仏殿も合わせると、相当な規模だったことが伺えます。

また、仕上げの段階で金鉱脈が発見されたことにより、金メッキ仕上げとなったようで、工事に関わった人員は、延べ260万人以上とも言われています。

聖武天皇自らも、民衆とともに作業を行ったようで、いかにこの事業へ積極的に取り組んでいたのかがわかりますね。

ちなみに、後世大仏は二度の戦火に遭い、現在見られる大仏は江戸時代に修復されたものとなっています。

・墾田永年私財法を出したこと

聖武天皇は仏教のことばかり考えていたわけでもありません。

経済対策として、「墾田永年私財法」を出します。

これは、「新しく耕した土地は永久に私有を認める」という決まりでした。

当時、飢饉や貧しさに苦しんだ農民たちが、土地を捨てて逃げ出した結果、土地は荒れ果て税も取れなくなってしまっていたのです。

このままではいけないと、聖武天皇は墾田永年私財法を出して、土地の個人所有を認めたわけですね。

しかし、大宝律令では、「土地と人民は国のものである」という公地公民制があります。

この墾田永年私財法は、その大前提を崩すものだったのです。

個人所有が認められた結果、「荘園」が発生し、次第に公地公民制は崩れていきました。

以上のように、聖武天皇は、主に鎮護国家を目指して仏教を広めることに尽力していたことがわかります。

聖武天皇の時期に栄えた文化は?

聖武天皇の時期に栄えた文化は、天平文化と言います。

奈良時代は、遣唐使の影響などによって、国際色豊かな仏教文化が日本にもたらされました。

その結果、天平文化は、唐を中心にペルシアやインドなど世界各地の影響を包含した文化となっています。

また、聖武天皇の仏教政策の影響を受け、国家仏教色が強いのも特徴の1つです。

そして、平城京を中心に、壮大で華麗な建造物や仏像などが次々と建てられました。

\ 天平文化に関しては、こちらの記事でも詳しく解説しております /

奈良時代の天皇には誰がいた?

【奈良時代の天皇一覧】

  • 第43代天皇:元明天皇(707年(慶雲4年)〜715年(和銅8年))
  • 第44代天皇:元正天皇(715年(和銅8年)〜724年(養老8年))
  • 第45代天皇:聖武天皇(724年(神亀元年)〜749年(天平感宝元年))
  • 第46代天皇:孝謙天皇(749年(天平勝宝元年)〜758年(天平宝字2年))
  • 第47代天皇:淳仁天皇(758年(天平宝字2年)〜764年(天平宝字8年))
  • 第48代天皇:称徳天皇(764年(天平宝字8年)〜770年(神護景雲4年))(孝謙天皇重祚)
  • 第49代天皇:光仁天皇(770年(宝亀元年)〜781年(天応元年))
  • 第50代天皇:桓武天皇(781年(天応元年)〜806年(大同元年))

奈良時代の権力争いの変遷は?

奈良時代の天皇は、天皇中心の政治を作っていこうとしていましたが、実際の権力は、藤原氏とその他が交互に担っていくこととなりました。

簡単に流れを見ていくと、

藤原不比等→長屋王→藤原四子→橘諸兄→藤原仲麻呂(恵美押勝)→道鏡→藤原百川

以上のような流れで、激しい権力争いが繰り広げられていました。

この中でも、特に注目したいのが藤原不比等です。

奈良時代初期の元明・元正天皇は女帝で、自然と太政大臣の発言力が強まっていきました。そしてこの際、実質的に最上位の地位にあったのが、右大臣・藤原不比等でした。

奈良時代の基本路線は、この藤原不比等によって作られたと言っても過言ではありません。

さらに、藤原不比等は自身の娘を文武天皇と結婚させるなどして、天皇との結び付きを深めていきました。

このことが、後に絶大な権力を握ることとなる藤原家の基盤となっていくのです。

奈良時代は、平安時代に全盛期を誇る藤原氏の、基礎が出来上がった時代と言い換えることもできるでしょう。

まとめ:聖武天皇は鎮護国家と民衆の想いを1つにするために大仏を作った

聖武天皇は、不安定な国の状態を安定させるため、鎮護国家を目指し、そして民衆の想いを1つにするために、東大寺の大仏を作りました。そして、その大仏は何度も修理を経て、現在まで残っているのです。

今回の内容をまとめると、

  • 聖武天皇は、鎮護国家と民衆の想いを1つにするために大仏を作った
  • 聖武天皇の大仏造立は国家を上げての一大プロジェクトとなった
  • 開眼供養は東アジア最大級の国際イベントだった
  • 聖武天皇が建立を指示した大仏は何度も修理を経て、現在まで残っている

約1200年以上も前に作られた大仏が、修理を経ながら現在まで残っているということはすごいことですよね。聖武天皇が国の安泰を願って作った大仏ですから、見に行くことがあれば、そのような想いを感じ取るのも良いでしょう。

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