聖武天皇の家系図を簡単に解説!子孫は現在まで続いてる?藤原氏が外戚だった?
聖武天皇(701年(大宝元年)〜756年(天平勝宝8年))は、奈良時代に活躍した第45代天皇です。
仏教を深く信仰していたため、全国に国分寺や国分尼寺を建立したり、東大寺の大仏を建立したりしたことでも知られています。
そんな聖武天皇の子孫は現在まで続いているのでしょうか?
この記事では、聖武天皇の家系図から、その特徴や子孫について簡単に解説していきます。
目次
聖武天皇の家系図をわかりやすく解説!
聖武天皇のプロフィール
聖武天皇(しょうむてんのう)701年(大宝元年)〜756年(天平勝宝8年) 宝算:56歳
父:文武天皇/母:藤原宮子
皇后:藤原光明子
夫人:藤原南夫人、藤原北夫人、橘古那可智、県犬養広刀自
子:孝謙天皇、基王、安積親王、井上内親王、不破内親王
聖武天皇は、701年(大宝元年)に文武天皇の第1皇子として誕生しました。
7歳の時に父と死別し、産後、病に陥っていた母とも会うことなく幼少期を過ごします。
父である文武天皇が亡くなり、次の天皇候補として聖武天皇が有力候補だったのですが、まだ若すぎるということで、祖母の元明天皇と伯母の元正天皇が代わりに即位し、聖武天皇の即位まで中継ぎが行われました。
聖武天皇は14歳で立太子すると、藤原不比等の娘である藤原光明子と結婚します。
そして、その後、24歳で即位するのでした。
聖武天皇の子孫は続かなかった
聖武天皇には、全部で5人の子供(男児2人、女児3人)がいましたが、本来皇太子になっていたはずの男児2人、基王と安積親王は早世しています。
聖武天皇はこのことを深く悲しみました。
しかし、天武天皇系の流れを途絶えてはならないと、娘の阿倍内親王(孝謙天皇)に譲位することを決意したのでした。
娘3人の子孫はどうなっていったのかというと、孝謙天皇は生涯独身であり、子供を作ることがありませんでした。
井上内親王と不破内親王はそれぞれ子供を残しましたが、その子供たちは子孫を残すことなく亡くなってしまったので、聖武天皇の血はここまでとなってしまいました。
聖武天皇は藤原氏を外戚に持っていた
聖武天皇の母である藤原宮子は、藤原氏の始祖である藤原鎌足の子である藤原不比等の娘でした。
そのため、聖武天皇は藤原氏を外戚に持っていたということになります。
藤原氏を外戚に持つ天皇は、聖武天皇が初めてでした。
そして、さらに藤原光明子とも結婚し、聖武天皇はより深く藤原氏と繋がっていくこととなります。
藤原氏はここから天皇家との関わりを深めていき、外戚という立場を利用して権力を拡大していくこととなりました。
聖武天皇に関するQ&A
聖武天皇に関するQ&Aを簡単に解説していきます。
- 聖武天皇は何をした人?
- 奈良時代の天皇には誰がいた?
- 奈良時代の権力争いの変遷は?
- 聖武天皇の時期に栄えた文化は?
聖武天皇は何をした人?やったことを一覧で解説!
聖武天皇がしたことは、主に3つのことが挙げられます。
- 全国に国分寺や国分尼寺を建立したこと
- 東大寺の大仏を建立したこと
- 墾田永年私財法を出したこと
それぞれ詳しく解説していきます。
・全国に国分寺や国分尼寺を建立したこと
聖武天皇が天皇になってからというもの、天然痘の流行や災害、飢饉が多く、また政治情勢も非常に不安定であったため、聖武天皇は「どうしたら世の中が安定するのだろう」と常に頭を悩ませていました。
場所が悪いのかもしれないと遷都を繰り返してみたものの、あまり効果はありません。
そんな中、聖武天皇は、次第に仏教への帰依を深めていくのです。
そして、仏教による鎮護国家を目指していくこととなります。
その政策の一歩として掲げられたのが、全国に国分寺や国分尼寺を建てることです。
各寺院には、四天王による御加護が得られる金光明最勝王経が安置されました。
こうすることにより、全国民の仏教への信仰を深めようとしたのです。
・東大寺の大仏を建立したこと
鎮護国家を目指してしたことは、国分寺・国分尼寺の建立だけではありません。
次にしたことは、大仏の造立です。
国家を上げた一大プロジェクトとなった大仏の造立ですが、これを作ることにより、社会の安寧を願い、祈る場所としました。
大仏の大きさは天平当時で15m以上であり、その大仏を納める大仏殿も合わせると、相当な規模だったことが伺えます。
また、仕上げの段階で金鉱脈が発見されたことにより、金メッキ仕上げとなったようで、工事に関わった人員は、延べ260万人以上とも言われています。
聖武天皇自らも、民衆とともに作業を行ったようで、いかにこの事業へ積極的に取り組んでいたのかがわかりますね。
ちなみに、後世大仏は二度の戦火に遭い、現在見られる大仏は江戸時代に修復されたものとなっています。
・墾田永年私財法を出したこと
聖武天皇は仏教のことばかり考えていたわけでもありません。
経済対策として、「墾田永年私財法」を出します。
これは、「新しく耕した土地は永久に私有を認める」という決まりでした。
当時、飢饉や貧しさに苦しんだ農民たちが、土地を捨てて逃げ出した結果、土地は荒れ果て税も取れなくなってしまっていたのです。
このままではいけないと、聖武天皇は墾田永年私財法を出して、土地の個人所有を認めたわけですね。
しかし、大宝律令では、「土地と人民は国のものである」という公地公民制があります。
この墾田永年私財法は、その大前提を崩すものだったのです。
個人所有が認められた結果、「荘園」が発生し、次第に公地公民制は崩れていきました。
以上のように、聖武天皇は、主に鎮護国家を目指して仏教を広めることに尽力していたことがわかります。
奈良時代の天皇には誰がいた?
【奈良時代の天皇一覧】
- 第43代天皇:元明天皇(707年(慶雲4年)〜715年(和銅8年))
- 第44代天皇:元正天皇(715年(和銅8年)〜724年(養老8年))
- 第45代天皇:聖武天皇(724年(神亀元年)〜749年(天平感宝元年))
- 第46代天皇:孝謙天皇(749年(天平勝宝元年)〜758年(天平宝字2年))
- 第47代天皇:淳仁天皇(758年(天平宝字2年)〜764年(天平宝字8年))
- 第48代天皇:称徳天皇(764年(天平宝字8年)〜770年(神護景雲4年))(孝謙天皇重祚)
- 第49代天皇:光仁天皇(770年(宝亀元年)〜781年(天応元年))
- 第50代天皇:桓武天皇(781年(天応元年)〜806年(大同元年))
奈良時代の権力争いの変遷は?
奈良時代の天皇は、天皇中心の政治を作っていこうとしていましたが、実際の権力は、藤原氏とその他が交互に担っていくこととなりました。
簡単に流れを見ていくと、
藤原不比等→長屋王→藤原四子→橘諸兄→藤原仲麻呂(恵美押勝)→道鏡→藤原百川
以上のような流れで、激しい権力争いが繰り広げられていました。
この中でも、特に注目したいのが藤原不比等です。
奈良時代初期の元明・元正天皇は女帝で、自然と太政大臣の発言力が強まっていきました。そしてこの際、実質的に最上位の地位にあったのが、右大臣・藤原不比等でした。
奈良時代の基本路線は、この藤原不比等によって作られたと言っても過言ではありません。
さらに、藤原不比等は自身の娘を文武天皇と結婚させるなどして、天皇との結び付きを深めていきました。
このことが、後に絶大な権力を握ることとなる藤原家の基盤となっていくのです。
奈良時代は、平安時代に全盛期を誇る藤原氏の、基礎が出来上がった時代と言い換えることもできるでしょう。
聖武天皇の時期に栄えた文化は?
聖武天皇の時期に栄えた文化は、天平文化と言います。
奈良時代は、遣唐使の影響などによって、国際色豊かな仏教文化が日本にもたらされました。
その結果、天平文化は、唐を中心にペルシアやインドなど世界各地の影響を包含した文化となっています。
また、聖武天皇の仏教政策の影響を受け、国家仏教色が強いのも特徴の1つです。
そして、平城京を中心に、壮大で華麗な建造物や仏像などが次々と建てられました。
\ 聖武天皇の時代に栄えた文化「天平文化」に関してはこちらの記事でも詳しく解説しております /
まとめ:聖武天皇の家系図からは、藤原氏との深い繋がりがわかる
聖武天皇の家系図からは、藤原氏との深い繋がりがあったことがわかります。また、聖武天皇には子供が5人いましたが、早世するか、子孫が生まれても子供ができず、現代まで子孫が続くことはありませんでした。
今回の内容をまとめると、
- 聖武天皇の家系図からは藤原氏との深い繋がりが伺える
- 聖武天皇の子孫はすぐに途絶えてしまった
- 聖武天皇と外戚の藤原氏はこの時代から徐々に権力を拡大していった
聖武天皇が行った数々の仏教政策は、妻である光明皇后の勧めもありました。藤原氏が権力を持つための政略結婚だったとはいえ、度重なる災難に憔悴しきっていた聖武天皇にとっては、光明皇后は唯一の救いだったのかもしれませんね。