平清盛の年表を簡単に解説!功績は??死因は何?どんな時代だった?
平清盛は、平安時代後期に活躍した、武士としては初めて太政大臣に任じられた人物です。
日宋貿易の推進で財を蓄え、平家のみならず日本の発展にも大きく影響を与えました。
「平家にあらずんば人にあらず」という言葉の如く、平家が最も栄えた時代を築いた人物でもあります。
今回は、平清盛の生涯を年表で簡単に解説していきます。また、功績や死因、どんな時代を生きていたのかについても解説してきます。
目次
平清盛ってどんな人?
平清盛
- 生年月日:1118年2月17日(永久6年1月18日)
- 没年月日:1181年3月27日(治承5年閏2月4日)(享年64歳)
- 父の名前:平忠盛(白河天皇の落胤という説もある)
- 生母の名前:不明
- 継母の名前:池禅尼
【平清盛の妻と子供の名前】
- 妻1正妻:高階基章の娘
子:平重盛,平基盛 - 妻2継室:平時子
子:平宗盛,平知盛,平重衡,平徳子 - 妻3側室:厳島内侍
子:御子姫君 - 妻4側室?:常盤御前
子:廊御方 - 妻5~(生母不明)
子:平維俊,平知度,平清房,坊門信隆室,藤原成憲室,後花山院兼雅室,平盛子,藤原信親室,平完子 - 養子:平清貞,平清邦
平清盛の性格はどうだった?
平家物語では、平清盛は、非常に奢り高ぶった傲慢な人物として描かれています。
そのため、悪人のイメージが強く浸透している人物といえるでしょう。
しかし、平清盛は、寛容で情け深く、周囲への気配りを忘れない人物でもあったといわれています。
また、義理や迷信よりも現実の利を優先するドライさも持っていたようです。
現代社会でも活躍できそう巧みな処世術の持ち主といえるのではないでしょうか。
【平清盛の性格が伝わるエピソード】
- 祈祷により雨が降った事を迷信だと一蹴した
- 冬の寒い日に幼い従者を自分の衣の裾に寝かせた
- 幼い従者らが朝寝坊をした時も、無理に起こさずそっと寝床を抜け出して、思う存分寝かせてあげた
- 召使の家族や知人がいると、最下層の召使でも一人前の人物として扱い、召使の面目を立ててあげた
- 人がとんでもない不都合な振る舞いをしても、声を荒げず、冗談と思うことにしていた
- 「平治の乱」で敗北した敵の棟梁の息子を処刑せず流刑にした
平清盛の寛容さによって命が助けられた、「平治の乱で流刑にした敵の棟梁の息子」こそが、その後、平家を滅亡させることとなる、源頼朝です。
栄華を誇った平家が滅びた原因が平清盛の寛容で情け深い性格であったとすると、やるせない気持ちになってしまいますよね。
平清盛の死因は何?
平清盛は、1181年(治承5年)に64歳でこの世を去ります。
平清盛は、源頼朝討伐のために平家一同を率いて鎌倉に総攻撃をかけようとした前日に突然、原因不明の熱病に侵され、そのまま三日三晩うなされ悶え苦しんだ末に亡くなったといわれています。
平清盛の年表を簡単に解説
平清盛の生涯を年表で簡単に解説していきます。なお、年齢は「かぞえ」の年で記しています。
【平清盛の年表】
- 1118年(元永元年)(1歳)
伊勢平氏の棟梁である平忠盛の嫡子として、山城国京(現在の京都府)で生まれる - ・1153年(仁平3年)(36歳)
父親の忠盛が死去、平氏の棟梁を継ぐ - 1156年(保元元年)(39歳)
「保元の乱」 勃発。後白河天皇側につき、勝利する - ・1159年(平治元年)(42歳)
「平治の乱」勃発。源義朝と戦い勝利する - 1160年(永暦元年)(43歳)
後白河上皇の命により、新熊野神社を造営する - 1164年(長寛2年)(47歳)
蓮華王院(三十三間堂)を後白河上皇のために造営する - 1167年(仁安2年)(50歳)
武士で初めて太政大臣を任じられるが、3か月で辞任する - 1168年(仁安3年)(51歳)
病に倒れ、出家。厳島神社を大規模に造営する - ・1170年(嘉応2年)(53歳)
「日宋貿易」で莫大な財貨を得る
この頃が平家栄華の最盛期といわれている - 1173年(承安3年)(56歳)
「日宋貿易」の拠点の港である大輪田泊(現在の兵庫県)に、人工島「経が島(きょうがしま)」を竣工する - 1177年(治承元年)(60歳)
平家打倒の陰謀事件「鹿ヶ谷の陰謀」が発覚
これにより、後白河法皇との対立が深刻化していく - 1179年(治承3年)(62歳)
後白河法皇を幽閉し、院政を停止させ、政治の実権を握る
各地で多くの反平氏勢力が生み出されていく。 - 1181年(治承5年)(64歳)
熱病に倒れ死去
平清盛の活躍した時代は、どんな時代だった?
平安時代の後期になると、朝廷の武官や貴族の警備担当、豪族などの「武芸」に特化した者たちが、交流を通して結びつくようになり、武士として家来をまとめ武士団をつくって勢力を強めていきました。
この武士団の2大勢力が「源氏」と「平氏」。
そして平氏の棟梁が平清盛でだったのです。
平清盛が活躍した時代は、貴族から武士へ権力が以降する過渡期であったのです。
平清盛は何をした人?
平清盛は、武士で初めて太政大臣になった人物です。
【平清盛のしたこと】
- 平清盛の功績
- 平清盛の政治
- 平清盛は、武士として初めて太政大臣になった
平清盛の功績
平清盛の代表的な功績として、「日宋貿易」の推進し、莫大な財貨を得ることに成功しています。
その他にも、「新熊野神社」や、「蓮華王院(三十三間堂)」を造営し、「厳島神社」の大規模な整備や人工島「経が島」の竣工も平清盛の功績として知られています。
【平清盛の主な功績】
- 日宋貿易の推進
- 新熊野神社の造営
- 蓮華王院(三十三間堂)の造営
- 厳島神社の大規模整備
- 経が島の竣工
平清盛はどんな政治を行っていた?
晩年、政治の実権も握るようになった平清盛は、後白河法皇の院政を終わらせ、平氏が政治の実権をにぎりました。
そして、政治の中心には平氏の人材が配置され、平氏の独裁的な政治がおこなわれるようになり、それとともに反平氏の勢力も台頭していくのでした。
「平氏にあらずんばひとにあらず」という、名言もこの時代を象徴しているのかもしれません。
平清盛はなぜ太政大臣になれたの?
平安時代の武士の地位は高くありませんでした。
便利なボディーガードとして貴族や朝廷に雇われているような存在だったのです。
そんな中、平清盛は武士でありながら、朝廷官僚制のトップである太政大臣に成り上がったのです。
平清盛が太政大臣になることができたのは、それだけ武士の権力が大きくなったからと言えます。
清盛の父 忠盛の頃から築き上げた、地位と名誉をさらに高めた清盛が太政大臣に就任したということは、
貴族から武士へ権力が移り変わったことの象徴として捉えることができ、その後の武家政権の大きな基礎となる出来事というわけです。
平清盛はなぜ源平合戦で源氏と戦ったの?簡単に解説!
源平合戦とは、源氏と平家との間で、日本全国で起こった数々の内戦の総称をさします。
狭義では1180年(治承4年)~1185年(元暦2年)の「治承寿永の乱」を指し、
広義では、1156年(保元元年)の「保元の乱」から1192年(建久3年)に源頼朝が征夷大将軍に就任するまでを指します。
今回は広義の意味の方で解説をしていきます。
「源氏」と「平氏」の2つの武士団が勢力を強めていた平安時代の後期ですが、まだまだ武士の地位は高くありませんでした。
強い権力を持つのは天皇や貴族で、武士は雇われる立場だったのです。
そんな中、京都では政治の実権をめぐって天皇たちが争っていました。
天皇たちは、自分達の争いに武士の力を利用することにします。
こうして起きたのが「保元の乱」です。
保元の乱では、平氏と源氏の棟梁である平清盛と源義朝は同じ天皇側に付き、味方として戦い勝利しました。
この戦いでの功績を認められ、平清盛は上級貴族の仲間入りを果たし、武士の権力をますます強めることに成功します。
しかし、天皇が平清盛の功績ばかりを取り立てたことで源義朝は不満を募らせたといわれています。
平清盛の処世術の上手さが災いしたといえるかもしれません。
「保元の乱」の3年後、今度は天皇の近臣らによる権力争い「平治の乱」が勃発します。
「平治の乱」では、平清盛と源義朝は別々近臣に味方をすることになり、平清盛を筆頭とする「平氏」と源義朝を筆頭とする「源氏」が対立することになったのです。
「平治の乱」では、平清盛側が勝利し、源氏は一時衰退を余儀なくされます。
壮大な遺恨があるような印象をうける平氏と源氏の戦いですが、きっかけはどの貴族の味方になったかというものだけだったのは、おどろきですよね。
まとめ:平清盛は、武士中心の政治へのきっかけを作った人だった
平清盛は、地位の低かった武士の権力を高め、武士中心の政治のきっかけをつくった人物です。
今回の内容をまとめると、
・平清盛は武士の力をつよめ、武士中心の政治への基礎を築いた。
平清盛は処世術に長けた人物で、彼の性質のおかげで武士の力を強めることができたけれども、平氏と源氏の遺恨を生みだしたり、平氏滅亡のきっかけも作ってしまったんですね。
清盛がのちに続く武家政権のきっかけとなったのも事実で、日本の一つの時代の転換点を作った人物とも言えますね。