高杉晋作の死因は何?病気?最後の姿や辞世の句を解説!
幕末の混乱期を駆け抜け、いまだ人々から根強い支持を得ている高杉晋作。
高杉晋作は奇兵隊を設立したり、連合国と堂々と交渉したり、時代の立役者として歴史に名を残しています。
また、高杉晋作の辞世の句である「おもしろき事もなき世をおもしろく」は有名ですが、実はある人物との合作だったのです。しかも、辞世の句には2つのバージョンがあるらしいのです。
今回は高杉晋作の死因は何だったのか?また、最後の姿はどんなものだったのか?高杉晋作の辞世の句ができた理由を解説します。
目次
高杉晋作の死因は何?
高杉晋作:1839年(天保10年)~1867年(慶應3年)は日本の未来を憂いて様々な活動を行っていました。
英国公使館を焼き討ちしたり、イギリスに密航しようとして長崎にいたイギリス商人のグラバー(1838年~1911年)に直談判を行うなど、かなりの行動派です。
しかし、そんな活動的な高杉晋作も当時不治の病とされていた結核で、29歳の若さで亡くなっています。
高杉晋作の死因は結核による病死
高杉晋作の死因は結核による病死です。
結核という病気は、今でこそ治療が可能な病気ですが、当時は国を亡ぼす病とまで言われ、新撰組の沖田総司(1842年(天保13年)?~1868年( 慶応4年))も結核だったと言われています。
長州藩は、1866年(慶應2年)関門海峡で幕府軍と戦うことになりました。
この戦を指揮した高杉晋作は、すでに結核に蝕まれており、喀血しながら戦の指揮をとったといわれています。
高杉晋作自身も、この戦を指揮しながら自らの死期を悟っていたのかもしれません。
まさに死に物狂いの戦いが功を奏したのか、高杉晋作率いる長州藩は幕府軍を下し、小倉城を落城させたのでした。
まさに命懸けの戦いですね。
高杉晋作の最後の姿を解説!
1866年(慶應2年)関門海峡で幕府軍との戦っている最中から喀血し、体調不良が目立っていた高杉晋作。
高杉晋作はそんな体調にも関わらず、気力だけは衰えず、血を吐きながらもお酒を飲んでいたそうです。しかし、気力だけでは病に勝てず、ついには戦の前線から離れ、療養生活に入りそのまま帰らぬ人となってしまいました。高杉晋作の最後の姿はどんなものだったのか?詳しく見ていきましょう。
高杉晋作は下関で療養中に死亡した
1866年(慶応2年)の四境戦争(長州藩と幕府の戦い)では、長州藩にとって圧倒的に不利な状況でしたが、幕府軍を倒した高杉晋作が率いる長州藩。
そんな高杉晋作の体は、結核という病に蝕まれていました。当時、高杉晋作は度々喀血し、体調は芳しくありませんでした。
病状の悪化と共に前線を離れ、下関郊外の桜山に「東行庵」という小屋を立てて療養生活に入ります。
東行庵には、奇兵隊の亡くなった仲間の招魂場があり、かつての師であった吉田松陰(1830年(文政13年)~1859年(安政6年))のお墓もありました。
また、東行庵には妾の「おうの」:1843年(天保14年)~1909年( 明治42年)を呼び寄せ、共に生活をしています。しかし、症状が重くなると奇兵隊結成の援助をした商人・白石正一郎:1812年(文化9年)~1880年(明治13年)と縁があった、林算九郎(?~?)の離れに移されました。
長州藩を率いて幕府軍に勝利した高杉晋作も病には勝てず、1867年(慶應3年)29歳という若さでその生涯を閉じます。
高杉晋作の亡骸は本人の遺言に従って、奇兵隊の本陣・清水山に埋葬されました。
高杉晋作が亡くなった後、妾のおうのは仏門に入り、高杉晋作を弔ったといわれています。
高杉晋作の辞世の句:おもしろき事もなき世をおもしろく
高杉晋作は、自らの手で追い詰めた幕府の崩壊を見ることなくこの世を去ってしまいました。高杉晋作の体は結核に侵されれたため、晩年は療養生活を送り療養先でその最後を迎えました。
高杉晋作は、死の間際にある歌を残しました。
おもしろき事もなき世もおもしろく すみなすものは 心なりけり
現代約:
面白いこともない世の中を面白くするのは、結局は自分の心次第
この歌が、高杉晋作の辞世の句となってしまいました。
高杉晋作の辞世の句は合作だった?
実は、この高杉晋作の辞世の句「おもしろき事もなき世をおもしろく」には続きがあり、「すみなすものは 心なりけり」という下の句が存在します。
これは「面白くなるのもつまらなくなるのも、結局は自分の心次第」と言う意味です。
実はこの下の句を詠んだのは高杉晋作ではなく、高杉晋作を看病していた野村望東尼:1806年(文化3年)~ 1867年(慶応3年)が、高杉晋作の歌を受けて詠んだと言われています。
野村望東尼は女流歌人でしたが、攘夷派の志士をかくまうなど援助活動をしており、高杉晋作も彼女の山荘に潜伏していたことがありました。
野村望東尼は、高杉晋作が病に倒れてからも看病を続け、晋作が詠んだ歌を受けて下の句を詠んだとされています。
高杉晋作の辞世の句は、2つのバージョンがある?
高杉晋作の辞世の句「おもしろき事もなき世をおもしろく」には、また別のバージョンがあると言われています。
- 「おもしろき事もなき世をおもしろく すみなすものは 心なりけり」
面白いこともない世の中を面白くするのは、結局は自分の心次第である - 「おもしろき事もなき世におもしろく すみなすものは 心なりけり」
面白いこともない世の中を面白くするにはどうしたらよいか、結局は自分の心次第である
の2つです。
「を」と「に」が変わるだけで、同じ歌では?と思われる方もいるかもしれません。
しかし、この一文字が違うだけでかなり印象が違ってきます。
「を」の場合、面白いことがない世の中を自分が面白くしてやる!といった強気な印象を受けます。
一方で「に」の場合、面白いことがない世の中を面白くするにはどうしたらいいのか・・・といったすこし弱気な印象を受けます。
高杉晋作の直筆の歌が残されていないため、今となってはどちらが正しいのかはわかりませんし、それぞれ解釈が異なるかもしれません。
しかし、高杉晋作の性格を考えると「おもしろき事もなき世をおもしろく」の方がイメージに合っていますね。
まとめ:高杉晋作の死因は、結核による病死。辞世の句は野村望東尼との合作だっった
高杉晋作は激動の時代を生き、日本の新しい幕開けを目指して尽力しました。しかし、明治維新を目前にして結核に倒れ29歳の若さで亡くなってしまいます。
今回の記事をまとめると、
- 高杉晋作の死因は結核による病死
- 幕府軍との戦いのさなかも喀血し、病が進行してからは下関で療養し、亡くなった
- 「おもしろき事もなき世をおもしろく」という辞世の句を残した
- 「すみなすものは 心なりけり」という下の句は、晋作の看病をしていた野村望東尼が作った
- 「おもしろき事もなき世をおもしろく」「おもしろき事もなき世におもしろく」の2バージョンがある
結核という病に侵されながらも、病を押して幕府軍と戦った高杉晋作。その波乱に満ちた人生にふさわしい、辞世の句を残しています。高杉晋作の残した時世の句からは、より良い面白い世の中にしていこうと言う、高杉晋作の人生そのものが感じられますね。