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坂上田村麻呂の子孫は現在まで続いてる?家系図で簡単に解説!子孫には芸人も?

坂上田村麻呂(758(天平宝字2)〜811(弘仁2))は、平安時代の公卿、武官です。

4代の天皇に仕えた忠臣として名高く、その中でも特に桓武天皇の軍事と造作を支えました。
源頼朝などで有名な征夷大将軍の先駆けとなった人物であり、征夷に功績を残しました。

蝦夷の族長である阿弖流為(あてるい)との戦いは歴史の教科書などにも載っており、聞いたことがあるという人も多いでしょう。

その坂上田村麻呂ですが、子孫は現在まで続いているのでしょうか?
この記事では、坂上田村麻呂の子孫を、家系図を見ながら簡単に解説していきます。

坂上田村麻呂の家系図をわかりやすく解説!

坂上田村麻呂の家系図を見ていきましょう。

坂上田村麻呂の家系図

坂上田村麻呂の家族構成

【坂上田村麻呂のプロフィール】

坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)

758年(天平宝字2年)〜811年(弘仁2年) 享年:54歳

出身地:不明

父:坂上苅田麻呂

母:畝火浄永の娘?

坂上田村麻呂は、758年(天平宝字2年)に坂上苅田麻呂の次男、または三男として生まれました。生まれた場所も母親も正確にはわかっていません。

後に、三善清継の娘である三善高子と結婚し、高子との間に7人の子供を授かりました。
また、坂上田村麻呂は、妻・高子との他にも子供を何人か授かっています。

坂上田村麻呂には10人以上の子供がいた?

先程もお伝えしたように、坂上田村麻呂は高子と結婚し、7人の子供を授かっています。
【坂上田村麻呂の子ども一覧】

  • 大野
    坂上田村麻呂の長男です。父の跡を継ぎ、東北地方の経営に従事します。しかし、若くして亡くなってしまいました。
  • 広野
    坂上田村麻呂の次男です。兄の大野が亡くなったため、代わりに跡を継ぐことになります。しかし、酒の飲み過ぎによって42歳という若さで亡くなってしまいました。
  • 浄野
    大野→広野と次々と早くに亡くなったため、代わりに家督を継ぐことになりました。神野親王(後の嵯峨天皇)が春宮に立てられた際に、春宮少進として仕えたとされています。
  • 正野
    従四位下・治部大輔の官位を与えられました。
  • 広雄
    坂上田村麻呂の子供ですが、詳細はわかっていません。
  • 高道
    坂上田村麻呂の子供ですが、詳細はわかっていません。
  • 春子
    坂上田村麻呂の娘です。桓武天皇の妃となり、葛井親王・春日内親王を出産しました。

また、この7人以外にも坂上田村麻呂には生母不明の子供が少なくとも6人はいると言われています。(滋野、継野、継雄、高雄、高岡、藤原有方母)

そして、この10人以上の子どもたちは各地に広がっていきましたが、詳しい系図などがわかっているものはほぼありません。
しかし、各地に坂上田村麻呂のゆかりの神社などが建てられていることから、坂上田村麻呂と関連した人物がそこに住んでいたことが伺えます。

坂上田村麻呂の子孫は現在まで続いている?

坂上田村麻呂には、10人以上の子供がいました。それでは、その子孫は現在まで続いているのでしょうか?ここでは、坂上田村麻呂の子孫について簡単に解説していきます。

坂上田村麻呂の子孫は各地に存在している?

坂上田村麻呂は、妻との間に7人、その他にも少なくとも6人以上の子供を残しました。

その子どもたちは各地に散らばっていきました。ちなみに、坂上田村麻呂の跡の家督は長男である大野が継ぎましたが、早世してしまったため広野が継ぐことに。しかし、その広野も早世してしまったため、浄野が最終的に家督を継いでいます。田村麻呂流の中でも、この大野系、広野系、浄野系の三系統が「坂上本家」と呼ばれています。

各地に広がった子孫たちは、そのまま地方に土着していきました。
中には、武門の家として陸奥守や陸奥介、鎮守府将軍や鎮守府副将軍など、陸奥国の高官を多く排出した系統もありました。

他にも、清水寺別当、右兵衛督、大和守、明法博士、左衛門大尉、検非違使大尉などを世襲している系統があります。このように、様々な場所で坂上田村麻呂の子孫は続いていったのです。

坂上田村麻呂の子孫の芸人

坂上田村麻呂の子孫は現在まで続いています。その中にはなんと芸人さんがいらっしゃいます。
その方は、お嬢様高学歴芸人として知られている「たかまつなな」さんです。

たかまつななさんは、フェリス女学院中・高→慶應義塾大学→東京大学大学院に通っていらっしゃった輝かしい学歴を持っています。

また、家柄も非常によく、たかまつななさんの曾祖父は、東京大学名誉教授で、東京ガス2代目社長を務めていらっしゃった方だそうです。

さらに、先祖は江戸時代、内藤新宿を開いた高松喜六なんだとか。
このたかまつななさんは、坂上田村麻呂の子孫だということをテレビなどで公言しています。

しかし、明確な根拠などは見つかっていないそうです。

坂上田村麻呂の子孫の会社経営者

坂上田村麻呂の子孫には、他にも会社経営者の方もいらっしゃいます。
その方は、株式会社ROC代表取締役CEO/SNS・ITジャーナリストである坂本翔さんです。
こちらの方も明確な根拠などは見つかっていません。

しかし、坂本翔さんは、自分が坂上田村麻呂の子孫だと知り、「自分も歴史に名前が残るくらい社会に貢献できる経営者にならないと!」とおっしゃっているようです。

坂上田村麻呂の祖先は渡来人だった?

坂上田村麻呂の家系である坂上氏の祖先は渡来人だったと言われています。
坂上氏の祖先は、阿知使主(あちのおみ)とその子である都加使主(つかのおみ)だと称していたようです。そして、この2人というのは、前漢の高祖皇帝、後漢の光武帝や霊帝の流れを組む渡来人だったのです。つまり、坂上田村麻呂の祖先は渡来人であったということになります。

ちなみに、都加使主の時はまだ氏が東漢氏(やまとのあやうじ)でしたが、坂上志拏の時に坂上氏に氏を改めました。

坂上田村麻呂やその子孫が建てた寺や神社がある?

坂上田村麻呂やその子孫が建てた寺や神社が各地に存在しています。

実は京都にある清水寺も坂上田村麻呂と関係しているのです。ここでは、坂上田村麻呂に関連する寺や神社をご紹介していきます。

坂上田村麻呂にゆかりのある清水寺

所在地:京都府京都市東山区清水1丁目294

「清水の舞台から飛び降りる」という言葉で有名な京都の清水寺ですが、実はその始まりに坂上田村麻呂が関わっているのです。

778年(宝亀9年)、大和国興福寺の僧・賢心は「木津川の北流にある清泉を求めよ」というお告げを夢で聞き、その清流を探しました。そして、たどり着いたのが、現在の清水寺がある音羽山でした。

そこには金色に輝く水が流れており、その源流を辿っていくと、そこに滝修行を行っていた行叡居士という僧がいました。
行叡居士は、賢心に千手観音を刻むための霊木を授けると、「東国へ旅立つので、後を頼む」と言い残して姿を消してしまいます。
賢心は行叡居士の言うとおりに、渡された霊木に千手観音像を刻み、行叡居士の旧庵に安置しました。このように、この場所を聖なる場所として賢心はここで修行をすることにしました。

そして、その2年後、まだ征夷大将軍になる前の坂上田村麻呂がこの場所にやってきます。

坂上田村麻呂は、妻・高子の病気平癒のために鹿の生き血を求めて音羽山に入ったのでした。
しかし、そこで修行中の賢心に出会います。
賢心からこの場所が聖なる場所であるということを聞き、そのような場所で殺生をしようとしていたことを坂上田村麻呂は深く反省し、自らの邸宅を仏殿として寄進するのです。

その後、798年(延暦17年)に、この仏殿を大規模改築し、本尊を祀りました。これが清水寺の始まりとされています。

坂上田村麻呂にゆかりのある杭全神社

住所:大阪府大阪市平野区平野宮町2-1-67

大阪府にある杭全(くまた)神社も坂上田村麻呂に関係している神社となります。
どう関係しているのかというと、この神社を創建したのが、坂上田村麻呂の孫である当道(とうどう)なのです。当道が、素戔嗚命(すさのおのみこと)を勧請して第一殿に平野郷の氏神として祀り、この神社を創建しました。

坂上田村麻呂にゆかりのある松尾神社

住所:兵庫県宝塚市山本東1-9-1

兵庫県にも坂上田村麻呂ゆかりの神社が存在しています。

それは宝塚市にある松尾神社です。

この山本の地になぜ坂上田村麻呂がゆかりがあるのかというと、それは坂上田村麻呂の子孫である坂上季猛が源満仲の命により、山本の守護になりこの地を切り拓いたからです。そして、この松尾神社も坂上季猛が創建しており、御祭神として坂上田村麻呂が祀られています。
一時は、坂上田村麻呂の幼名が松尾丸だったことから松尾丸神社と呼ばれていたこともあったそうです。

まとめ:坂上田村麻呂の子孫は現在まで続いていて、子孫の中には芸人や会社経営者がいた

坂上田村麻呂には、10人以上の子供がいたため、各地にその子孫が広がっていき、現在まで続いていました。中には芸人や会社経営者なども存在しています。

今回の内容をまとめると、

  • 坂上田村麻呂は妻との間に7人、その他にも少なくとも6人の子供がいた
  • 子孫たちは各地に広がっていき、様々な場所に坂上田村麻呂の子孫がいる
  • 子孫の中には、芸人や会社経営者も存在する

坂上田村麻呂の娘である春子は、桓武天皇の妃になりました。

つまり、その血筋は清和源氏へと受け継がれているのです。
清和源氏の流れである源頼朝が、時を越えて坂上田村麻呂と同じ征夷大将軍になるというのは、なにか運命のようなものを感じて仕方ありません。

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