東條英機の子孫の現在は?家系図で簡単に解説!A級戦犯のレッテルで迫害された?
東條英機(1884(明治17)〜1948(昭和23))は、第40代内閣総理大臣として太平洋戦争を指揮した人物です。敗戦後は、戦争指導者として「A級戦犯」とされ、死刑判決を受け処刑されてしまいました。
深く戦争と関わり、時代の象徴とも呼べるような東條英機ですが、その子孫は現在まで続いているのでしょうか?この記事では、東條英機の家系図を見ながら、その子孫について簡単に解説していきます。
目次
東條英機の家系図をわかりやすく解説!
東條英機の家族構成
【東條英機のプロフィール】
- 東條英機(とうじょうひでき)1884年(明治17年)〜1948年(昭和23年)享年:64歳
- 出身地:東京府麹町区(現在の東京都千代田区)
- 父:東條英教
- 母:東條千歳
- 妻:東條かつ子
- 子:英隆、輝雄、敏夫、光枝、満喜枝、幸枝、キミエ・ギルバートソン
東條英機は、1884年(明治17年)に東京府麹町区で、東條英教と千歳の三男として生まれました。
三男なので、本来であれば家督を継ぐことはなかったのですが、長男も次男も夭折してしまったため、実質家督を継ぐ長男として扱われ、そのまま家督を継ぎました。
その後、まだ学生であったかつ子と結婚します。
東條英機はとても愛妻家であり、夫婦仲は非常によかったと言われています。
その証拠とも言えるのが、子供の数。
なんと英機とかつ子の間には7人もの子供が生まれています。
かつ子は、東條英機がA級戦犯として死刑された後も、東條英機への思いを変えること無く、生涯そばを離れませんでした。
東條家では長男に「英」という字をつける?
東條家では、長男に「英」という字をつけるのが慣例となっていたようです。
その証拠に、英機の祖父は英俊ですし、父は英教、長男は英隆とそれぞれ英という字が入っていますね。しかし、この慣例のせいで苦しめられたのが、英機以降の子孫たちです。
東條英機と一文字しか変わらないその名前は、A級戦犯の子孫だということがすぐにバレるきっかけとなってしまっていたのです。
東條英機の先祖は裕福だった?
東條英機の家系でもある東條家の先祖は、南部盛岡藩に仕える能楽師の家系でした。
そして、東條英機の祖父である英俊の代に、士分に取り立てられたのです。
このときの東條家は、160石取りという高禄の武士であり、当時の武士の中では裕福な身分でした。
東條英機の子孫は現在も続いている?
東條英機は子供を7人も授かっていましたが、英機がA級戦犯の判決を受けてしまったため、その子どもたちにも影響が出てしまうということもあったようです。
ここでは、東條英機の子孫について簡単に解説していきます。
東條英機の子供7人のその後は?
東條英機がA級戦犯として処刑された後、子供たちはどうなっていったのでしょうか?
一人ずつ簡単に見ていきましょう。
- 長男:英隆
戦前は満州国警務部、鴨緑江発電職員として従事していました。
戦後は、競艇を主催する日本船舶振興会に務めました。 - 次男:輝雄
輝雄は学生時代から数学を好んでおり、英機から飛行機技師になることを勧められます。
その結果、戦時中は日本海軍の艦上戦闘機・零戦、戦後は日本初の国産旅客機YS-11などの設計に携わりました。
その後、三菱重工の副社長や、三菱自動車の社長、会長となりました。 - 三男:敏夫
陸軍士官学校在学中に終戦を迎えた敏夫は、戦後には航空自衛隊に入隊し、空将補(少将)まで昇進しました。 - 長女:光枝
陸軍軍人・杉山茂と結婚しました。 - 次女:満喜枝
陸軍少佐・古賀秀正と結婚するも、秀正は降伏反対のクーデターに巻き込まれ自害してしまいます。その後、社会学者・田村健二と結婚。そして、満喜枝自身は家庭裁判所の調停員となりました。 - 三女:幸枝
映画監督・鷹森立一と結婚しました。 - 四女:キミエ・ギルバートソン
アメリカ人実業家・デニス・ギル・ギルバートソンと結婚しました。
東條英機は敗戦後、子どもたちを籍から外した?
東條英機は敗戦後、戦争の指導者としてA級戦犯の判決をくだされてしまいます。
それを受けた東條英機は、自分の子供達にとばっちりがいかないように行動を起こします。
次男以下の子どもたちを分家したり、嫁に出したりして、東條英機の籍から外したのです。
東條英機の子どもたちへの愛情を感じますね。
ちなみに、妻・かつ子にも英機は自分から離れるように勧めましたが、かつ子は決して東條英機のそばを離れようとはしませんでした。
東條英機は本当に愛妻家で有名で、酒の席でも
「芸者遊びにうつつを抜かす者など駄目だ!俺は若い時も今も女房一筋だ!」
と放言していたほど。
それほどまでに愛されていたために、かつ子はたとえどんなに世間からひどい仕打ちをうけようが東條英機のそばを離れなかったのかもしれません。
東條英機の子孫はA級戦犯の末裔として迫害を受けていた?
東條英機は、子どもたちに自分の罪のとばっちりがいかないようにと行動しましたが、世間の目は厳しく、子孫たちはA級戦犯の末裔として迫害を受けることになってしまいました。
その中でも特に被害を受けたのが、長男である英隆です。
英隆は、英機と一文字しか名前が変わらなかったため、周りからすぐに戦犯者の息子だとバレてしまっていました。
そのため、英隆はどこの会社にも雇ってもらえず、妻の内職で食いつなぐことしかできず、経済的に非常に苦しい生活を強いられました。
また、その息子の英勝も、小学校の際に、教員が担任をこぞって拒否し、クラスが決まりませんでした。そのせいで、校庭の登り棒に上って、窓の外から授業を眺めていたそうです。
このように東條英機のせいで、子孫たちは苦しめられていたわけです。
これを受けて東條家では、
「(英機について)一切語るなかれ。何と揶揄されようと、忍の一文字で耐え忍ぶように」
という家訓があったそうです。
これからわかるように、東條家にとって英機の罪は見過ごすことのできない、付き合っていかなくてはならないものだったのでしょう。
英勝は、自分の息子と酒を交わしていたときに、突然涙を流したことがあったそうです。
英機の子孫ということで背負ってきたものが、いかに大きかったのかが伺えるエピソードですね。
東條英機の子孫で現代で活躍している人は?
東條英機の子孫は現在まで続いています。
その中でも東條の姓だからこそできることがあると言って、積極的な活動を行っていらっしゃる方々もいます。ここでは、東條英機の子孫で現代で活躍されている方をご紹介していきます。
東條由布子
東條由布子さんは、東條英機の長男・英隆の娘です。
英機の子孫の中でも特に精力的に活動をなさっていた人物で、祖父・英機を遺族の立場から評価し、それを世間へと発信していました。
著書には、
- 『祖父東條英機「一切語るなかれ」』
- 『大東亜戦争の真実 東條英機宣誓供述書』
など英機に関する書を多数出版しています。
また、晩年は沖縄の戦地に赴き、戦死者の遺骨の収集活動にも尽力していました。
この由布子さんの様々な活動のおかげで、世間一般の東條英機への誤解も多少和らいだと言えるでしょう。
東條英利
東條英機の曾孫にあたるのが、東條英利さんです。
(東條英機の長男・英隆の息子である英勝の子)英利さんは、神社などの日本文化を紹介するコミュニティサイト「神社人」の運営や、日本の伝統文化を広めるべく、全国で公演などを行う国際教養振興協会の代表理事に就任するなど、日本文化の魅力を広めようと活動展開なさっています。
英利さんは、カタログ販売会社に就職し、4年ほど香港に赴任していました。
その際、日中戦争を先導していた東條英機の曾孫だと周囲に言いづらかったそうですが、あるとき友人にその旨を打ち明けたそうです。
すると、友人から「そんなこと関係ない。僕達は友達だ」と言われました。
この言葉をきっかけに、英利さんは「自分も日本のためになにかできることがあるんじゃないか」と考えるようになり、今の活動へと繋がっていったそうです。
過去にどれだけ複雑な問題があろうとも、現在の行い次第でイメージを変えていくことができると体現なさっているのでしょうね。
太平洋戦争での、他のA級戦犯の末裔たちは?
東條英機の子孫たちはA級戦犯の末裔ということで迫害を受けてしまっていました。
では、他のA級戦犯の末裔たちはどうだったのでしょうか?何人かご紹介していきます。
- 廣田弘毅
廣田弘毅は、第32代内閣総理大臣を務めた人物です。
弘毅は戦争回避のために尽力しましたが、結果として軍部の暴走を止めることができなかったとして死刑判決を受けました。
弘毅の家族は戦前の弘毅の活動を知っていたので、まさか戦犯として逮捕されるとは思っていなかったようです。
孫の弘太郎さんは、弘毅の影響を受けて、幼い頃から世界を舞台にした仕事がしたいという思いがあったそうです。
大きくなってから、三菱商事に就職し、ロサンゼルスやシアトルに駐在したこともありました。
戦勝国で働くことに抵抗はなかったようですが、現地の人に「真珠湾攻撃はずるいだましうちだ」と言われたときは、さすがに論争をしたとか…。
また、弘太郎さんは弘毅が靖国神社に合祀されていることに違和感を覚えているようです。
そもそも靖国神社に祀られているのは兵隊・軍人の英霊であるから、文官であった弘毅が祀られているのはおかしいというわけです。
このように、弘毅の子孫たちは特段迫害を受けていたというようなことはありませんでした。
それもこれも弘毅の戦前の働きがあったからなのではないでしょうか。 - 松岡洋右
南満州鉄道総裁を務めていた松岡洋右は、A級戦犯の被告でしたが、公判中に病死してしまいました。
その洋右の兄の子孫である松岡満寿男さんは、洋右が名付け親であり、満州国で生まれました。
そして、満州国から引き上げてきた際に「日本人というのは簡単に変節する民族だな」と感じたそうです。
というのも、戦時中はあれほど『鬼畜米英』と言っていたはずなのに、戦争が終わった途端手のひらを返したようになっていたからです。
そして、満寿男さんたちも、戦犯の一族ということで石をぶつけられるような扱いを受けました。
このように辛い思いをした満寿男さんですが、洋右とよく対立していた近衛文麿の子孫である細川護熙さんとは、「祖父たちは仲が悪かったが、孫同士は仲良くしよう」と言って親しい間柄になったそうです。
子孫として辛い思いをすることもありますが、このように受け入れてくれる人もいたということですね。 - 土肥原賢二
陸軍大将としてA級戦犯と判決をくだされた土肥原賢二の孫・佐伯裕子さんは歌人です。
裕子さんが歌人になった理由は、父・実さんが戦争犯罪者の家族として苦悩してきた様子を見続けてきて、家族だけしか知らないその姿を歌に残したいと考えたからだそうです。
裕子さんの最初に出した歌集のテーマは『沈黙』。
これは、小さい頃から母親に教えられていた
「何も弁解するな。どんなことでも受け入れなさい」
という賢二が処刑される前に残した言葉から来ているそうです。
まとめ:東條英機の子孫は現在まで続いていて、東條姓だからこそできることをしていた
東條英機は7人の子供を残していて、その子孫たちは現在まで続いていました。
しかし、その子孫たちはA級戦犯の子孫として、世間から迫害を受けるなど、決して楽な道を歩めるわけではありませんでした。
また、その逆境にも負けず、東條姓だからこそできることがあると言って、活躍されている子孫もいらっしゃいました。
今回の内容をまとめると、
- 東條英機は子供を7人授かった
- 東條英機の子孫は現在も続いている
- 敗戦後、子どもたちを籍から外して、自分の罪の被害が及ばないようにした
- A級戦犯の子孫だからという理由で、子孫たちは迫害を受けることになってしまった
- 逆境に負けず、東條姓だからこそできることがあると活躍されている子孫もいた
東條英機の妻・かつ子は姑の千歳から様々な嫌がらせを受けていたと言われています。
普通であれば耐えきれず、子供ができる前に離婚していたかもしれません。
しかし、その嫌がらせに負けず、英機のそばに居続けたのは、ひとえに英機の深い愛情故だったようです。2人が深く愛し合っていたからこそ、英機の子孫は残っていったのでしょう。